待ちわびた私、かもしれず
一騎が城の正門から出でて、湖畔を西へ駆けた。
見目麗しい一騎は、深い森を西へと抜けていく。
少しの荷を掛けた一騎が森の中、道を駆け抜ける。
時折、集落……家々の間を縫いながら駆け抜ける。
翠魔族の集落には興味を示さず、ただ駆け抜ける。
人影を目にした気がしても、そのまま駆け抜ける。
駆け続ける一騎は、疲れを知らぬがごとく駆ける。
疲れを知らぬ一騎は、昼も夜も知らぬまま駆ける。
一騎は森を抜けた辺りで、場違いな速さを失った。
一騎は疲れを知ったか、さもなくば渇きを知った。
それは一騎の、ではなく……馬だけが感じたもの。
馬を御す側の者は、疲れも渇きも感じてはいない。
一騎は川辺に寄り、少しの休息の後、また駆ける。
一騎は荒野に臨んで、似合いの速さで西へ駆ける。
広野を駆けて進んで、人の城市をかすめて駆ける。
西へと進んで駆けて、高い城に正対し立ち止まる。
御される馬は、渇きあるいは気怠さを感じていた。
馬を御す者は、渇きあるいは淋しさを感じていた。
一人、無言で……馬の様子だけを気にして駆けた。
一人、無言で……無心で西へと西へと駆けていた。
一人、無言で……思い出さずにいられなくなった。
一人、無言で……ふと心に彼女を想ってしまった。
一人、独りで……想ってしまって、心が縛られた。
一人、孤独で……どうしようもなく淋しくなった。
正面に見える城は、過去に訪れたことがある場所。
大森林の西、タブリス領に建つ城市……プフル城。
コアイにとってこの城市は、奇妙な縁のある場所。
スノウとの繋がりを失った後……再起を誓えた街。
それも……その原因となった娘との邂逅によって。
そんな城市を通りがかったのが理由なのか、そうでもないのか……それは分からない。分からないが、とにかくコアイは淋しくなってしまった。
しかし、この場でそうなったのは……むしろ幸運であろう。
人間の城市の直ぐ側で、スノウを喚ぶ場所には困らない。
既に佳酒を用意しており、スノウを退屈させる虞もない。
それに、今のコアイには……先を急ぐ必要がない。
およそ一月後に城市サラクリートを訪ね、大公と会う予定となっている。
大公のほうが先に居城を発ったとは聞いているが、どうもサラクリートまではコアイの居城タラス城からのほうが近いらしい。それに、コアイは霊薬を用いることで適宜乗り馬を加速させられる。
多少寄り道をしたとしても……普通の馬に乗り供を引き連れて移動する大公よりも、身軽なコアイが先に目的地へ着くと考えられる。
で、あれば……本来は出発を数日遅らせるべき状況だったのだが……すっかり気の逸っていたコアイには、居城で時期を待つという行動も判断もできなかった。
ただし、結局は……そんな気の逸ったコアイにやたらと都合良く……時と場と、本人の欲求とが結び付いたのだが。
この城市で、彼女に逢おう。
彼女に逢って、酒を振る舞おう。
そして……少しだけで良いから、抱きしめてもらおう。
無意識のうちに口元を弛ませながら、コアイはプフル城の城下へ馬首を向けていた。
城門に近付いたところで下馬し、近くにいた門番らしき男に馬を預けてから城下へ入る。
城門の奥では、以前ほどの賑わいは感じられなかった。とは言っても、門と繋がる大通りにはまずまず人の往来が見られ……時折コアイへ視線が向けられているのを自覚できる。
されど、コアイがその視線に意義を見出すことはない。
コアイが欲する視線は、城下の他人のものではなく……
コアイが欲する視線は、未だ得られていない。
コアイは足早に宿へ向かい、通された寝室で早速スノウを召喚していた。
暑くも寒くもなく、過ごしやすいとされる……秋の陽気を乗せた風が窓から寝室へ流れ込む。
そんな陽気に対するには、やや厚着とも思える彼女の姿。
スノウは身体の大半、膝下辺りまでを覆うような装いで床に横たわり……眠っている。
何時もより厚着ではあるが、何時もどおり眠っている。
コアイは彼女の可憐な寝顔、その頬に軽く手を触れてみる。
彼女の反応はないが、あたたかい。
彼女の反応はないが、あたたかくて……掌から熱が、じんわりと胸の内へ染みてきた。
うれしい。彼女に触れた。やはりうれしい。
ずっと想っていた、彼女にまた触れられた。
今も彼女があたたかくて、やはりうれしい。
もう少し待っていれば、目を覚ますだろう。
そうしたら、今度は彼女から触れてくれる。
そうしたら、今度はもっとうれしくなれる。
無意識のうちに口元を、否……顔中を弛ませながら、コアイは優しくスノウの身体を持ち上げてベッドへ寝かせた。
そして隣へ寄り添って、彼女が目を開くまで……ただ、見守っていた。
昼下がり、夕焼け、月夜、夜半、朝ぼらけ……
日が落ちて、夜が明けても……コアイはひと時もスノウの側から離れずに、ただ彼女を見つめて……過ごしていた。
彼女が目覚めず、触れてくれず……視線も声も向けられないでいる時でさえ、コアイは楽しんでいた。
寄り添っているだけでも、あたたかくて、うれしく思えた。
寄り添っているだけでもうれしいのに、彼女が目を開くのをじっと見つめて待っていると……一層うれしく思えた。




