あなたの熱を残したいの
スノウの周囲で淡い光を発した召喚陣が、彼女の姿が消えたのに連れて……静かに光を失くしていく。
やがて彼女も召喚陣も、跡形もなく消え去った。
召喚陣があった床面には、何も残っていない。
ただコアイの心中に、彼女への愛惜を残して。
今回も、彼女は恙無く本来の世界へ帰っていった。
それは良い。彼女が無事であれば、それが最善。
ただ……窓から吹き込んだ夕焼け時の風が、冷たく感じる。
先程までは……彼女と二人で過ごしているときには、感じなかった冷たさ。
彼女の存在が忘れさせていた、風の存在。
彼女のあたたかさで、忘れていた冷たさ。
吹雪く夜のすきま風よりは冷たくない筈のそれが、今のコアイには寒々しい。
ある意味それは、彼女が教えてくれたのかもしれない。
過去、スノウと出逢う以前のコアイは冷たい風を寒いと感じ、倦むことがなかった。
真冬の冷たい風雪や、それに凍える木々や土石、金属の武具……何れも、ただ「冷たい」だけであった。それを寒いと思うことはなく、それは別段不快なものではなかった。
しかし今のコアイには……春の夕陽のなかで多少は温まったはずの風が、どうにも寒々しい。
コアイは彼女を送り帰した後、暫く立ち尽くしていた。と、俄に凍えたような心地がして無意識に、力なく数歩前進……召喚陣の中心だった辺りで腰砕け、寝室の床に独り座り込んでしまった。
彼女が、いないから。淋しいから。
淋しくて、寒い。あたたかい彼女がいないから。
寒い夜だから、淋しい。淋しい夜だから、寒い。
あたたかい彼女が、いないから。
あたためてくれる彼女が、いないから……
日没後の暗い寝室でコアイを覆う、寒さ、淋しさ……それ等を振り払いたくて、座ったまま何となく……片膝を抱えて。
目元に涙が浮かんで、溢れて、雫が膝に落ちて。
雫が落ちた膝も、やがて冷たくなって……寒く感じて。
暗い部屋でひとり、沈み込んでいた。
背中に夜風が吹き付けたのを感じた。
それは冷たくはあったが……淋しくは思わせなかった。
そこに、彼女の残り香を感じたから。
何故かはわからない。ただ、そう感じた。
そう感じたコアイは、徐に立ち上がった。
何故かはわからない。ただ、一つだけ……
一つだけ理解したコアイは、彼女を探す。
彼女の残り香、彼女を感じられる場所を。
……彼女は帰った、今は逢えない。だが私には、もう少しだけ彼女が必要なのだ。
だから、もう少しだけ……彼女を想っていたい。
彼女がいた、彼女が最も色濃くあたたかさを残した場所……それは、彼女が眠っていたベッドの中だろう。
コアイはベッドに戻り、近くの敷布や毛布……手当たり次第に身を包む。
そこにはまだ、彼女の残り香、温もりがあって……彼女がいたことを実感できる。
それにしがみつきたくなって、縋りつきたくなって……丸めた背に布地を掴む手に、一層力がこもる。
確かに感じる。此処には彼女がいた。
あたたかい。うれしい。あたたかい。
私をあたためてくれる、彼女がいた。
私を痺れさせてくれる、彼女がいた。
私はもう一度、そんな彼女に逢える。
今は逢えなくとも、まだ想い出せる。
あたたかい。うれしい。すき。すき。
目元に涙が浮かんで、彼女の残る布に吸い取られて。
雫が滲みた布地は、やがて熱から冷めて……コアイを少し落ち着かせる。
どれほどの間、追想した彼女に満たされていたのだろうか。
まだ夜は明けていないらしい。
コアイはそろそろ、明日からの旅程について考えておこうと思い立つ。
此処から近いエミール領の城市といえば、北西のアルグーンか、南西のドイトだろう。
アルグーンは、彼女と散策したことが……あったか?
ドイトという城市には……彼女はたしか……まだ…………
コアイは気持ちを切り替えて、周辺の城市について考えようとしたものの……深く考えられなかった。
まだ、側に彼女が残っていて。
耳を焦らす彼女の甘え声が残っていて。
鼻を鳴らす彼女の甘い香が残っていて。
肌を震わす彼女の撫で手が残っていて。
唇を熱する彼女の……残っていて…………
残り香が纏わり付くように、それ等に頭の中を弄られているように……思考が乱れる。
それ等が思考をかき乱しながら、頭の中、芯の部分を温く惚けさせるような。
それ等が思考を惚けさせながら、身体中、くまなく熱く焦がして貫くような。
今、彼女は居ないのに……もう十分に、彼女を想えたはずなのに。
結局コアイが冷静に今後の予定を考えられたのは……快晴の朝陽に瞼をつつかれた後、からのことであった。
北西のアルグーンには行ったことがある。エミール領の中心的な城市らしく、少し騒がしい。以前訪ねた時は、彼女を連れていなかったはず。
南西にあるという、ドイトという城市には行ったことがない。この街で食べたような、魚を使った佳肴はないかもしれない……と聞いたくらいで、ほぼ知らぬ城市。
どちらを目指そうか。どちらにしても、彼女が知らぬ街……城市に着いたら、先に街中を一通り確かめてから彼女を喚ぼうか。
コアイは荷をまとめて、宿を引き払い……城市の北門から出てみた。そこで背に受けた陽光が、何となくむず痒くて……馬首を南西に返し、日差しを横顔に感じながら進むことにした。




