みずからに惑いながらに
守るものもなく、駆け下りることに集中する。
一人と一騎なら、月明かりさえ届けば足りる。
一人と一騎なら、多少体勢を崩しても構わぬ。
一人と一騎なら、多少転げても気にはならぬ。
護るものもなく、コアイは一心に駆け下りる。
被さる雲もなく、黄みを帯びた月明かりが騎馬の足元を照らしている。
明かりの他には、奔る馬の息遣いと馬蹄の響きだけが山地に響き渡る。
青白い星の瞬き、静かなコアイの息遣い……それ等は微かな存在として、かき消えていく。
コアイは落ち着いた様子で馬を駆り、着実に山を下っていった。
スノウと共に橋へ向かい、向かい側の山を登っていた頃とはまるで心境が違っている。
あの時の……抗い難い熱、悶えそうになる苛み、灼けそうになる痺れ……それ等を、ここでは感じることがないから。
しかし、それに思いを馳せた途端……一心だったはずのコアイの心はすこしだけ乱れた。
彼女を心配させてしまった、私の熱は……すっかり落ち着いたようだ。
これは……彼女の姿、彼女の声、彼女の匂い、彼女の肌触り、彼女の視線……彼女の存在が、ここにないから……なのだろうか。
橋上で彼女と見た景色、彼女と交わした言葉、彼女から届いた温もり……彼女の言葉や想い出は、何時でも私の中に在る。
それだけなら、あたたかでも……穏やかでいられる、ということなのだろうか。
それ等と、はっきりと感じた彼女の存在が混じり合ったときには……また、ああなってしまうのだろうか?
あんな様子で、もし敵襲など……何か問題が起こったら、私は憂いなく彼女を護れるのだろうか。
近頃は私を襲う者も現れないが、それは今後も私へ挑みかかる者が現れないということではない。
しかし、私は……何があっても、彼女を護らねばならない。
それは、私が何を感じ何を悩もうとも……けして変わらない。
コアイは延々と悩みながらも、変わらず馬を駆けさせていた。
雲ひとつ見えぬ月夜のなか、駆けて駆けて……時折小屋らしきものが道の脇に見えても、行く脚を止めさせず……駆け続けた。
コアイ一人で、休む必要はない。熱っぽさの引いた今となっては、なおのこと。
何度か小屋らしきものを目にしたのち、少し雲が出だして……時折月明かりを遮ったが、やはり騎馬の行く脚は止まらない。
さらに駆け続けて、少し夜が白み始めた頃……小屋一軒ではなく、数件の連なる様子が見えた。
小集落だろうか、しかしその真横に至ってもコアイは止まらない。
そこに、別段見るべきもの……スノウが喜びそうなものは無さそうに感じたから。
コアイは徐々に明るくなる山道を駆け下りて、やがて頭をのぞかせた朝日の光を浴びて、馬が疲れから行く気を無くすまで足を進めた。
朝日が完全に姿を現した頃、だいぶ平坦な道へ出たところで馬が足を止め、耳を左右へ振り出した。
そろそろ疲れたのだろうか、とコアイは拍車をかけようとはせず様子を見ることにした。すると馬は徐ろに右へ歩みだし、奥に茂る草むらへ踏み込んで顔を下ろす。
草を食むのか、腹が減ったのか? コアイは馬の口元を覗き込む。するとそこには小さな水たまり……水が湧いていた。
コアイは一旦下馬して、辺りを見回してみる。
此処までの道から、先へ続く方向は……あまり低くなっていないように見えた。
であれば、おそらく山を降りられた……また此処からは見えないが、近くに町があるのではないかと思われた。
対岸にあった城市アウヴァーズのように、エルゲーン橋を渡ろうとする旅人や行商人などが滞在する町があるのではないか、と。
と、ふとコアイは地図の存在を思い出し……懐から地図を取り出した。
先日確かめた、国境沿いに三箇所印された城市の位置。その左側には、国境のルルミウズ川を挟むように書きこまれた印が二つあった。
今はおそらく、このうちの北側の城市近くにいるものと考えられる。
馬を使わず橋を越える人間もいるだろうことを考慮すると、此処からはあまり離れていないはず。
……であれば、霊薬を舐めさせて馬を急かすよりも……一度その町へ入ってみるか。
コアイは馬が草むらから出てくるのを待って再び騎乗し、東へと向かった。すると予想通り、日がすっかり高くなったあたりで道の先に城市が見えた。
コアイは一先ず城門へ近付いてみる。
「馬か、宿の当てはあるのかい?」
城門の側で腰かけていた男が、立ち上がりながらコアイへ声をかけてきた。
男は鞘に納めた剣を佩いているようだが、そこへ手をかける様子はない。
「当てはない。泊まりたいが、どこか宿はあるのか」
「あるさ、予算次第だが……余裕があるなら門の先ニ本めの辻を右、宿代をケチりたいなら一本めの辻を左だ。宿をとるのならそのまま馬で入ってかまわんよ」
「助かる」
コアイは一人であることを考え、まずは安宿へ泊まってみることにした。
選んだ宿は先払いとのことで、金貨を一枚預けたのち何時も通りに馬を託して、一人寝室のベッドに寝転がる。
と、寝転んだところで……コアイは軽い身体の怠さを感じて、スノウを喚ぶこともなく眠っていた。
のち、窓からうつ伏せの横顔へ射し込んだ西日の眩しさで目が覚めて、身体を起こすと……シーツの腰の辺りに血痕らしき染みが付いていた。
……血?
この部屋には私しかいない。なれば私の血か?
しかし身体に痛みはない。傷もないはずだ。先に召喚陣を描いたときの指の傷も塞がっているはず……
ともあれ、汚しておくのは宜しくない。
此処にスノウを喚ぶかもしれないから。
しかし、既に汚してしまった。
これを除くには……どうすれば良いだろうか。
……そうか、もしこれが私の血であるなら、今もまだ操れるかもしれない。
やってみるか。
コアイはシーツの染みに血術……外へ飛び去れという指図とともに、送られた命を果たすための推進力となる魔力を送ってみる……
それは一切の滞りなくコアイの意に従い、窓の外へ飛んでいった。
それは一切の疑いなくコアイの血である、そう認めざるを得ない。
なんだ、これは?
身体に外傷はない。誰か強者と闘ったわけでもないのだから当たり前だ。
指先の傷は閉じた。彼女を帰してから時間が経ったのだから当たり前だ。
…………では何故、私の血が流れている?
今のところは、解説的な話はナシで。




