7 くらい、あい CRY
「わたし?」
立ち去りかけていた土着種の女は、声をかけてしまった私へ振り向いた。
「わたしはイリーっていうの」
立ち止まり私のほうを向いた女の顔は、脱力しているように表情がない。
「あなたはだれ?」
金髪の女の、表情の薄い顔の内で焦点の定まらない目が私へ向いている。
私は、ただその顔へ視線を。
胸が痛い。箱の中で何かが動きまわっているような感覚。
不具合か。しかし通知も警戒触も出ていない。
いま感じている、この……不調ではないらしい、胸の動きは?
私はその感覚について考えこんでしまい、何も言えなかった。
「ねえどうしたの?」
「イリーさん、イリーさ〜ん!」
何も言えないでいた私に焦れたのか、金髪の女は抑揚のない言葉で問い直してきた。しかし、それとほぼ同時に別の声が聞こえた。
「あ、お騒がせしてすみません」
ヒトだろうか、中年の女が駆け寄ってくる。
「ごめんなさいね、失礼いたします」
駆けつけた中年の女は私に軽く会釈してから、慌てた様子で土着種の娘の手を引いて去っていった。
「イリーさん、今日はケーキを焼いてあげると言ったでしょう? もう冷めちゃいましたよ」
先ほどの中年女の声は、いつの間にやらずいぶん遠く聞こえる。
まだ胸が痛い。箱に捕らえた小動物が中で激しく跳ね回るような感覚。
不具合でない、らしい……本当にそうなのか?
しかし今でも、私へ不調を警告する音は一つも聞こえない。
ということは、これは私の身体に起こりうる自然な機序なのか?
とりあえず、人気のない裏路地に身を隠す。
ホコリっぽいガラクタのそばで身体を丸めていると、胸の鼓動が少し収まってくる。
あの娘、イリーと名乗った……私の知る名前ではない、偽名を……
彼女の話を思い返してみると、途端にさまざまな情景が可視化された。
後光を受けて煌めき輝くような『魔王』コアイの姿……と、それを見つめてただ思い焦がれる娘。
森のなか、異界の女からなにやら助言を受ける娘。
意を決して数十年ぶりに男装をやめ、『魔王』コアイにひと目だけでも……嘘偽りのない姿で見えようとした娘。
そして、破綻の前夜…………
どの姿も、切ない。悲しい。
疑いもないほど強くそう感じて、力が抜けて……身体が暗がりに沈められていくようで。
なぜ『魔王』は、この娘に沿うてやらないのだ。
なぜ『魔王』は、この娘を退けたままにしたのだ。
なぜ『魔王』は……わからない、なぜそう冷たいのだ。
私なら…………
……私なら、だと?
なぜ私は、そんなことを思ったのだろうか?
私に、そんな感情を抱く素養があったのか?
私に、そんな感情を持つ資格があったのか?
私に、そんな感情を知る機会があったのか?
わからない。
……いや、そのことだけはわかる。
それを知ってしまったのは……
たぶん、『魔王』の…………
形は違えど、私もあの娘と同じように……
私はあの娘に、似ているのかもしれない。
夕焼け、そして夜の闇へと移り変わる街の……一角の物陰に、私はひそみ続けていた。
夜空に明るい月が浮かぶころになっても、ヒトのにぎわいは続いている。
この街は、『魔王』コアイを見つけた街よりも栄えているらしい。それなら、ヒトの多いこの街で歴史の一端を担う可能性を持った存在を探すのが私の務め……のはずだ。
けれど、そのために立ち上がろうという気力がわかない。
結局私は、誰もいないところで身体を休め続けた。そうしていても、なにか……胸が少しざわつく。けれどこれも、不調ではないらしい。
ただ何となく、なにかに触れていたくなって、腕を組んで……
背中をまるめて、一旦両腕をほどいて、ひざを抱えこんで……
次の日、すっかり高くなった日を目にして……意を決して立ちあがり、大通りに出た。するとそのとたん、土着種の娘に出会した。
つまり……昨日と同じ場所で、また彼女と出会った。
彼女のことは、イリーと呼ぶべきか、リュシアと呼ぶべきか、それともリュカと呼ぶべきなのか。
私に答えは出せない。出せたとしても、私はそれを口にするべきでない。
それはわかっている。
「あ、きのうのひと」
私の方を向いた彼女の視線は、昨日より定まって……少しだけ、私に焦点が合っているような気がする。
「わたしはイリー。ねえ、あなたはだれ?」
また、抑揚のない声で問いかけられた。
私は、それに応えるべきでない、それに答えるべきでないことを理解している。
それが私の務め。歴史の担い手とは距離を保って、可能な限り接触しないように……
そう。理解している、つもりだった。
このときまでは。
……私は、第九番。
「エーラ……」
言葉が口に出るのを、止められない。
「……私は、エーラ・ノイン……」
私は答えてしまった。
禁を犯してしまった。
こらえられなかった。
話しかけたい欲求に。
名を伝えたい欲求に。
知ってほしい欲求に。
逆らえなかったのだ。
「エーラ……さん?」
彼女に名を呼ばれたことが、とても。
「かわった名まえ……けど、いい名まえ」
とても……
「なんとなく、すごくあたたかい」
とても、うれしい。
「イリーさーん、またここにいたの!?」
と、それはすぐに終わった。
再び彼女と別れたのち、思い浮かべられる情景。
しかしそれは、感じられないはずの苦痛をともなっていて……私はとまどいながら裏路地ヘ駆けこんでいた。
首が強く絞められているようで苦しい。
そこは、『魔王』から伸びる手に掴まれている。
肩口? 腕の付け根? のあたりがとても痛い。
そこは、『魔王』から伸びる棘に刺されている。
とても痛い。苦しい。
なのに不思議と、それが辛いと思わない。むしろ……
私がいま『魔王』に殺される……ことはあり得ないはず。
ということは、これは……彼女の記憶だろうか。
しかしそれならなぜ、私が痛み、苦しさを感じている?
しかもそれを、辛いどころか……うれしいと感じている?
とまどっているうちに、喉を突かれた痛みと髪をひっぱられる痛みが加わる。
そして『魔王』コアイは再度赤い棘を刺しながら、酷い顔つきで何かを叫んでいる。
『魔王』コアイは叫びながら泣いている。大粒の涙をいくつもこぼしている。
気づいたときには、私も涙を流して、落としていた。
なにを言っているか聞き取れないのに、うれしくて。
酷く痛くされているのに、なぜかそれがうれしくて。
すぐそばに、なにかを感じていることがうれしくて。
どうして?
どうして……だろう。




