熱く触れるお二人さま
「うーん……」
コアイは湯に腰を浸けたまま、スノウと目を合わせている。
彼女はなにやら手をこまねいているらしい。
「そこ座ってたら洗いにくいかな? とりま立ってみて」
何ら疑問を抱くことなく、彼女に言われるがままコアイは立ち上がった。勢い良く立ってしまったせいか、湯が盥から少し床にこぼれて……その上に身体からの雫が落ちる。
「よし、それじゃ……」
彼女が満面の笑みを浮かべたからだろうか、コアイは手を引かれたかのように全身を彼女の側へ向けた。
コアイが正対して見つめる彼女は、コアイへ視線を返したまま……目を逸らすことなく、桶を床に置いて手拭の端を湯に濡らす。
そして濡らした部分を包むように手拭を折りたたみ、コアイの目前ににじり寄ってきた。
近い。彼女がそこにいる。
今手を伸ばせば、彼女を抱き寄せられる。
ひとたびそう意識してしまうと、コアイの胸の内で何かが跳ねる。
跳ねるそれは間違いなく、意識の通りになるよう行動することを望んでいるのだろう。
けれど今は、彼女のしたいように……身体を洗わせてやるほうが良い。
抱き寄せてしまっては、その邪魔になる。
だから、彼女が望んでいるように……
意識された欲求を思考と別の欲求で抑え込みながら、コアイは近くの彼女を真っ直ぐ見つめていた。
「って、正面だとなんかやりにくいなあ」
コアイの考えていることが少しでも伝わったのか、コアイの直視に気後れしたのか、そのどちらとも無関係なのかはわからないが……彼女は苦笑しながら顔をそらす。
そしてコアイの横か、あるいは後ろへ回ろうとした。
そんな彼女に、またも手を引かれたような心地を覚えたコアイは……つい身体で彼女を追ってしまう。
「こっち向いちゃ意味ないじゃん後ろ向いてて」
コアイは両肩をガシっと掴まれ、身体の向きを変えさせられた。
肩を掴むその手がとても熱くて、力強くて……それは従うべきものだろうと、妙に納得して脱力しているのを感じながら。
「はい、じゃあお身体洗っていきますね〜」
暖かな布地が首に当てられると同時に、彼女の澄んだ声が耳元から頭に響いてきた。
すぐ側からの声。コアイは直立しているから、彼女の背丈を考えると……おそらく背伸びしている。
彼女はわざわざ背伸びして私に手を伸ばし、耳元で囁いてくれている。
そう感じ入っていると、彼女の手が首から左肩へ、それから右肩へと伝っていく。
「かゆいところないですか〜?」
「いや、無い……っ……」
このときコアイは、無いが……何故そんなことを訊くのか、と答えようとした。
が、声が出なかった。
皮膚を撫ぜる刺激が、続くはずの言葉を曖昧な吐息に変えていた。
「はい、じゃあ腕あげて。ばんざーい」
「ば……?」
少しぼんやりとしながら、彼女の声に従う。
鈴を振るような、可愛らしい色の声。
肌を、耳たぶを震わせるような声色の振動。
髪を、項をくすぐっていくような吐息の流れ。
コアイがこれまでに幾百、幾千と振るってきた狂風、乱流……それ等とは似ても似つかない、優しくあたたかな空気の流れ。
血煙の臭いとは似ても似つかない、雨上がりの陽気に似た匂い。
それ等を伴う彼女の声が、コアイの背筋に心地好い痺れを伝わらせて……ふわふわと揺蕩わせて。
「っ……、ん…………」
連れてコアイの肌を撫で回す、彼女の手。
彼女の手は、肩や腕を、手や腋を撫でてあたためながら……時折、その内側を焦がすような刺激を与えてくる。
それは彼女の声がもたらすのと似た痺れを伝わらせて、吐息を漏れさせる。
彼女の手が一瞬離れてから、腰から背中へ上向きに伝った。
背筋に流れる痺れと逆向きの痺れが肌を流れて、どうしようもなく震えさせる。
息が詰まったような感覚がして、心も身体も震えさせる。
それは確かに嬉しい、彼女から届くあたたかさのはずだ。
彼女が直ぐ側にいてくれる、彼女があたたかく触れてくれている、その証。
それは確かに心地好い、望ましい温もりのはずだった。
しかし暫くすると、何故かそれは……淋しさに変わってしまった。
そこにいるはずの彼女を見たい。
私に触れる手だけではなく、彼女の瞳、唇、髪、全身、声、吐息、すべて。
私に触れる彼女のすべてを。
彼女を見られないのは、つらい。
ただ彼女に触れられるのではなく、私に触れる彼女を見たい。
彼女に触れられながら、私に触れる彼女のことを知りたい。
私に触れてくれている、きっと愛おしい彼女を…………見て、感じて、確かめたい。
彼女を確かめられないのは、つらい。
今の私なら、触れられてなお、彼女を見つめられる。
彼女を見つめ続けてなお、触れられ続けてなお……思考、意識を保っていられる。
最後まで。そして次も、その次も。ずっと。
今の私にならできる。自信がある。
そのために、様々な鍛錬を重ねたのだから。
少しは強くなれたはずだから。
「そろそろ、前に……来てくれないか」
「前? どして? まだ洗えてないところあるよ?」
彼女の手は肩から下がり、脇腹へ回されていた。
「その……上手く言えないのだが……」
コアイは彼女の手に手を重ねた。
彼女はここにいる。
それは、解っている。けれど。
「そなたが見えない、それが……」
手が震える。
伝えるのを躊躇っているからなのか、重ねた手があたたかいからなのか……解らない。けれど。
「そなたの姿が見えない、今はそれがとてもさみしい」




