別れ惜しまれ魔王さま
コアイは屋根や壁を叩く豪雨の音で目を覚ました。
背中にはスノウの手が、背中越しには彼女の息遣いが感じられる。
手は動かず、息遣いは小さく落ち着いている。
きっとまだ眠っているのだろう。コアイは彼女を起こさないよう、慎重にゆっくり身体を離す。
そしてベッドを離れて壁に寄りかかり、雨粒の跳ねる窓から空を見上げた。
すると外はまだ雲の色も見えないほど暗い。おそらくまだ夜も明けていないのだろう。
そう考えたコアイはベッドに戻り、スノウを起こさないようそうっと身体を横たえた。
別に、夜明けまでは眠り、朝に起きなければならない……というような意識はコアイには無い。
ただ、スノウが寝ているのに起きていても手持ち無沙汰に思え、かと言って彼女を起こすのは悪い気がした。
そのためコアイは静かに、彼女の隣で仰向けに寝転んだ。
が、
「ん……あさ?」
鼻にかかった声が聞こえてくる。
「……いや、まだのようだ」
起こしてしまっただろうか。
コアイは申し訳なく思いつつ、これはこれで可愛らしい声だと感じつつ返答した。
「ん〜も〜じゃあ寝ようよぉ」
スノウは器用に、コアイを押して横向けさせてから何やら身体を動かし、背中を入れてきた。
背中合わせ。
見つめ合うことも、手を取り合うこともなく。
それがコアイには僅かに不満だった。
一抹の切なさを拭い去れないというか……何かを不足に感じ、満たされることを望んでいるような。
けれど、背を軽く押し返す彼女の重みと、そこから伝わってくるぬくもりが……それ等を少し満たしているようにも感じている。
「そういえばさ、王サマ夜景って見たことある?」
寝付けなくなっていたのだろうか。
背中合わせのまま、スノウが話しかけてきた。
「やけい? それはどのような景色なのだ?」
やけい、というのは夜に見える景色をさす言葉らしい。そこまではコアイにも理解できた。
それは……月明かりか星月夜か、或いは篝火に照らされる何かだろうか。
「なんつーか……夜暗いなかで、遠くの小さな明かりがたくさん、星みたいにキラキラ見えてきれいなんだよ」
「なるほど……それに近いものなら、見たことがある」
コアイは遠い昔の、ある場景を思い出した。
「ま? ここ電気もなさそうだけど……」
でんき、という理解できぬ単語について彼女へ問おうか、とも思ったが……先ずは自身の体験を話してみようと思った。
もし、コアイの思い浮かべるそれが彼女にも楽しめる類のものであれば……いつか再現したいと考えて。
「あれは……確か、私がまだ『魔王』と呼ばれるよりも前の頃だ」
コアイを担ごうとする者もなく、一人気儘に暮らしていた頃。
「昔、私との闘いを望み、夜中に塒へ押しかけてきた魔族がいた。何やら騒がしくて不愉快だったから、洞穴を出て近くの木に登り、辺りの様子を確かめようとしたら……」
「えっ待って、ほら穴に住んでたとか……王サマちょっとワイルドすぎない?」
と、どうも主題から離れたところでスノウの興味を引いてしまったらしい。
「ん、そうなのか?」
何故彼女がその部分に引っかかったのか、コアイには考えが及ばない。
「あっごめん変なツッコミしちゃったね、さっきの話続けてよ」
「木の上から見下ろすと、その魔族の輩下らしき者等が持っていた松明の火が星の灯りをかき消すかのように強く、赤く煌々と……美しく輝いて、森のあちこちを照らしていた」
コアイの噂を聞きつけ、逃げられぬように塒で寝静まった頃合いを見計らって襲撃したのだと……後に他の魔族から聞いた。
その事件自体は、当時には珍しくないことだったが……夜景という言葉を聞いて思い出す程度には、印象的な情景だったのだろう。
「……その夜景はちょっとヤだなぁ」
しかしコアイの回想は、スノウには不評らしかった。
「嫌、なのか? 続きもあるのだが」
コアイは一旦スノウの返事を待ち、話を止めようとしないのを確かめてから本題に戻る。
「やがて互いの姿を見つけて、私は望み通り闘ってやることにした。態々(わざわざ)私の塒まで訪ねてくるだけのことはあってか、まずまずの実力者だった気がする……が、私は」
と、コアイはそこまでで口を噤んだ。
当時のコアイは魔術によって彼の肢体を散々に切り裂き……そのとき、そこから舞い散る血飛沫もまた紅々と煌々と、美しく思えた……
今にして考えると、何故そう思えたかもまるで分からないが。
当時は確かに、相手の断末魔を間近で見て、華麗と……そう感じていたのだ。
それを思い出したのだが、しかし、しかしそれ等は……スノウに話すべきことではない。
と、コアイの脳裏に確信めいた閃きが起こり、自身の口を噤ませていたのだった。
「ん? んーまあいっか、王サマてヒマなときとか何してんの」
「寝ていたり、城の近くを散策したり……だな」
スノウのため修行をしている、とは言いたくなかった。
……と、あれこれ話していると何時しか窓の外が黒から灰に色を変えていた。
朝になって、しかし雨は降り続いている。
「雨止まないね……」
「ああ、しかし夜が明けた。食事にするか?」
「んーいいや、一回ちょっと帰っとこうかな」
どうやら本来の世界で所用があるらしい。
それであれば、スノウを帰してやらねばならない。
彼女を送り帰す……その前に、コアイは小物を幾つか貰っておくことにした。
今回こそ落ち着いて彼女を帰せるが……これまでの失態で手持ちが寂しくなっていたため、念の為彼女の私物を補充しておくべきだろうという考えである。
彼女の私物はまさしく、二人を繋ぐ導なのだから。
「ならば、そろそろ……」
小物を受け取ったコアイは、スノウを本来の世界へ帰すための召喚陣を描こうとした。
しかしスノウはコアイから離れようとしない。
「どうした? このままではそなたを帰せないのだが……」
しかしスノウはコアイの胸にしがみついたまま。
「離れて……くれないと……」
しかしコアイはそう口にしたところで、自覚してしまう。
自分も、このぬくもりから離れたくないと感じていることを。
それを自覚して、口が止まってしまう。
「……ごめん、我がままだよねわたし」
スノウは首を左右させてから、俯いて後ずさり……コアイから離れた。
視線を落として唇を噛みしめる彼女の表情は、普段のものとはかけ離れている。
その表情が、コアイの胸をチクリと刺す。
「私は……そなたの」
「まっまーまた会えるし! すぐ会えるよね!?」
彼女のためなら構わない、と答えようとしたコアイよりも早く……スノウは明るく笑ってみせていた。
コアイはまた、寝室に一人きりになった。
しかし辛くはない。
少しも淋しくないと言えば嘘になるが……彼女にはまた逢えるのだから。
それに……彼女に触れてもらえる私に、彼女を喜ばせられる私になれたのだから。
少し寝てから……次の修業と、次のスノウとの過ごし方を考えるか。
と思い浮かべつつ、コアイはベッドに一人寝転がった。そして間を置かず眠りこけていた。




