愛し人と逢う魔王さま
今の私なら、あるいは彼女に応えられようか……
いや、できる。応えられる……そんな気がしている。
コアイはその一心で、居城へ……家路を急ぐ。
来た道と同じはずの帰り道は、記憶とまるで違って……まばらな草木ですら随分と色彩が強まったように見える。
それ等を鮮やかに感じながら川沿いに山を下って、軽い足取りで木々が繁りゆくのを感じ取っていく。
やがて木々が林立し、森を成し……それ等も滝の近くの石場と同じように、妙に目新しく思えた。
それはおそらく……心中の達成感と期待感が、変わりないはずの景色をそう見せているためなのだろう。
それは本人には分からぬ、他人から指摘されて初めて気付けることかもしれないが。
少なくとも今のコアイは、それに自ずから気付けるような性質ではないのだろう。
ひたすら駆けて、目当ての我が家、タラス城を眼下に望み……望んだ辺りで、にわかに雲行きが怪しくなってきた。
青空はあれよあれよと、くすんだ金属のような灰色に塗られ……しかしそれですらコアイには、何やら好ましいように思えている。
それも楽しみながら進み続けて、やがて……何故か好ましい灰色の厚い雲が、雨粒を落としてきた。
コアイはもともと、雨が好きでない。
形や大きさは違えど、滝の水と同じように高所から降りそそぐ水の塊。
しかし触れることを容認されないその水滴は、万に一つの例外もなく……コアイの身体を包む斥力に阻まれて地に落ちる。
雨音だけがコアイに届く。
それを好ましいとまでは思わなかったが……雨音に心を乱されることはなかった。
彼女にさえ逢えれば、雨音などどうでもいいのだから。
水滴はコアイの歩みを僅かにも止めず。
コアイは雨を気にせず家路を急ぐが、そのうちに雨足は強まり、道がところどころ泥濘みだす。
今コアイにとって、道の泥濘みなど瑣末な障害でしかない。
足場の緩い泥道も、深い水溜りもコアイの帰路を妨げることはない。何となく気分次第で、ときどき勢いを増して水溜りを飛び越えたり、気にせず水溜りへ踏み込んだり……コアイは迂回すらせず障害を踏み越えていく。
悪路はコアイの歩みを僅かにも止めず。
コアイはもともと、雨が好きでない。
しかしそれに倦むでもなく、雨の降りしきるなかを一心不乱に進み続け……コアイはついに帰城した。
もうすぐ、もうすぐ彼女に……
との思いで頭が満ちているコアイは、寝室への道だけを一点に見つめて廊下を歩く。
「おお、お帰りなさいませ陛下。ずいぶんお急ぎのご様子……」
と、大きな壺を背負ったまま寝室へ向かうコアイへ、横から嗄れた声がかけられた。
「ああ、貴殿の用は急ぎか?」
ソディの声。コアイは足を止めて顔を向けながらその用向きを確かめた。
「……いや、後日にいたしましょう」
ずいぶん切実そうな顔をしていたのだろうか。老人ソディはそれ以上何も言わず、ただ目を細めて一礼していた。
「そうか」
本人がそう言うなら構わないだろう。コアイは視線を戻して、思わず駆け出していた。
ソディはコアイの表情からその心境を察して、にこやかに引いたのだが……それはコアイの知らぬ、知れぬことであろう。
それに今のコアイは、それどころでもないだろう。
寝室に辿り着いたコアイは、急ぎ部屋の隅に壺を置いた。
そして机上の一角にひとまとめにしておいた小物の数々を手に……少し迷いながら一つを選び出した。
コアイは既に、胸が熱く高鳴っているのを感じている。
それを何とか抑え精神を澄ませようとしながら、手にした小物を床に置き、
そして……スノウを喚ぶための召喚陣を描き詠唱する。
コアイは光とともに現れた彼女を抱き寄せて、雨が降り続ける窓の外を眺めながらその目覚めを待っていた。
そういえば、前回彼女を喚んだのも……雨降りの日だったか。
と思い出しながらスノウの寝顔へ向き直し、しばらく見つめていると……あたたかな彼女の身体がピクンと跳ねた。
「んぅ……」
彼女は小さく高い唸り声を上げて、寝返りを打とうと身体をよじった。そこで違和感に気付いたのか、薄目を開く。
「……あ、おはよう王サマ」
彼女の瞳がつぶらに開いていた。
「あの、この前はごめん! 今日は変なことしないから許して!」
「変な……ん、その……」
起きて早々にコアイへ正対し、頭を下げるスノウ。
その言葉に、コアイは先日の夜のことを思い出す。
「い、いや私は……そなたを責めるつもりはない」
そしてそれに連なるように、滝行の成果とその身体への作用が思い出されて……身体が微かに震えるのを感じた。
「今日は大人しくするから!」
過去二回、思いやりが足りなかったと反省している。今日は手を出さない。と、彼女は言う。
彼女が触れてくるのに耐えられるよう、鍛錬をしてきたのだが……
とコアイは少し拍子抜けするが、彼女がそう言うのなら異論を挟むつもりはない。
コアイは万事、彼女の意思を尊重する。コアイにそれ以外の考えはない。
窓の外では、雨足が更に強まっていた。
「しかし今日は雨が強いな、遊びに出掛けるのは難しいか」
「傘とかないの? まあとくに用事ないならのんびりしよっか」
外に出る気は起こらない。二人は昼食を摂りながら酒を飲むことにした。
すると何時も通り、スノウは勢い良く痛飲し……案の定、酔い潰れて寝てしまった。
コアイはベロベロの彼女をベッドに寝かせ、隣に寝転がった。
広いベッドの上、互いに身体を向けながら手を伸ばしあい、軽く握りあい……コアイは眠っているスノウの寝顔と息遣いに注意を払っている。
彼女の息はとても熱くて、酒臭いが……苦しそうな様子はない。
コアイは姿勢を変えず、しばらく様子を見ていることにした。
陽の差さない雨空の下では、どのくらい時間が経ったか分からないが……ある時コアイは不意に手を引かれた。
今、私の手を引くのは彼女しかいない。
彼女が私の手を引いてくれている。
そう実感すると、身体の力が抜ける。手を引かれる向きに、身体が従ってしまう。
いや、従うというよりも……喜びながら引き寄せられていく。
それが嬉しいと、私の身体がそう言っているのかもしれない…………
と、ふたり身体を寄せ合い……気付いたときには、酔ったまま、目を閉じたままの彼女に口づけられていた。
「んなっ!?」
「んっ……んぅ〜??」
熱くなぞられた触感に、コアイは思わず顔を引き。
コアイの慌てた仕草に、スノウは思わず目を開き。
「き、今日は触れないのではなかったのか!?」
コアイはそう狼狽えて喚きながらも、一方でそれを強く望んでいたような気がしてならなかった。
そしてそのことが、何故かとても恥ずかしく思えてならなかった。




