きよめられた先にて
侍女はそそくさと走り去っていく。
それを少し目で追ってから、未だに眠っている彼女の隣へ駆け付ける。
そして他に人が来るまでは、彼女の寝顔を静かに見つめて過ごす。
「お帰り、王様。長旅だったな」
「陛下、ご無事で何より」
人が来たのを機に、コアイは荷車を降りる。
ここへ出向くよう伝えたのは大男アクドのみであったが、アクドは老人ソディを伴っていた。
「長旅のわりに、ずいぶん元気そうだな。まだ走り足りないか?」
アクドは荷車の先に繋がれた馬に注目している。
「アクドよ、まだ書の検討が終わっとらんぞ。陛下の御用を済ませたら、戻らねばならんのを忘れるな?」
「ぬ……」
彼等の状況は詳しく分からないが、大男は早く作業にかかるよう促される。
「失礼いたしました、陛下。今日は二人で人間の書物を読み合わせておるのですがな、こいつは隙を見て逃げようとするので……」
ソディの顔は苦々しいが、それでいて楽しげな口ぶりに聞こえる。
「儂も監視を兼ねてこちらへ参ったのですよ」
「いや、まあその……なんつーかどの本も、俺の知ってる人間たちとは違うんだよなあ」
「それは儂らも同じじゃ、故に個々に合わせた対お……おっと、先に手を動かそうか」
三人で手分けして、荷を整頓することにした。
「なんでこんなぐちゃぐちゃに……? つかこりゃマルグ・ラーフじゃないか」
「それで二人分、料理を作ってほしい。余りは貴様にやる」
三人はめいめい積荷を仕分けていく。
「あの黄色い壺……ですかな? エミール領で買われたのですかな?」
「いや、あのかわいらしい色合いには見覚えがあるぞ……なんだっけチャカとかそんな名前の職人が作ってるツボだよ」
「カチャウと言っていた。中に馬用の薬が入っている」
「あーそれだ、やたら髪と話の長い変な女だった」
「ああ、リャンハイ村の……優れた魔術士と聞いておりますが、そんな面もあったとは」
三人の手で、順調に片付けが進む。
「ところで……」
作業のさなか、コアイには一つ気がかりがあった。
「もう少し静かにしないか。彼女が起きてしまう」
「ん? いま朝だが……いや、済まねえ」
「ほほっ……承知いたしました、陛下」
二人とも笑っている。大事なことだろうに。
「大方まとまりましたな、では……」
「これとこれは今持っていく、残りの酒瓶は後ほど寝室に運んでくれ」
「野菜の樽は俺が預かって、薬ツボは伯父貴が預かると」
「急ぎはしないが、もう一度薬の使い方を訊いておきたい。それまでは使わないほうが良さそうだ」
コアイは宝飾品の入った小箱二つと酒瓶一つだけを手にして、他の荷物は二人に片付けてもらうことにした。
「陛下〜」
と、侍女が声をかけながら駆け寄ってきた。
「湯浴みのご準備が整いました!」
「よし、では儂らも戻るとしようか」
コアイを除く三人は、一足先に城へ戻っていった。
その様子を眺めていると、男二人は特に何かを意識した風もなく、呑気に歩いていく。
ただ侍女だけが、何度も大男の横顔を見上げつつ、そこに寄り添うようにして歩いている……そうコアイは感じていた。
私も、彼女に寄り添い。
スノウは陽射しを浴びながら、良く眠っている。
半開きの口、紅い唇の端から少し涎が垂れている。
このまま暫く眺めていても楽しいだろうが……彼女の望みは、それではない。
「そろそろ起きろ」
「……ハッ!?」
彼女はビクンと顔を跳ね上げ、左右を見回した。
「あは、また寝ちゃってた……」
そうしてから、恥ずかしそうに口元を手で拭う。
「では、風呂へ行こうか。これも用意している」
「……うん!」
コアイは酒瓶をチラりと見せながら、彼女の手を取り……浴室へ向かった。
脱衣場に入る前に、スノウは何かを侍女に頼んでいた。そのためコアイは先に浴室へ入って、立ち尽くして彼女が来るのを待っている。
「今日も最初に、かけ湯をしましょ~う!」
遅れて入ってきたスノウが、コアイに湯をかけようと桶を振り回した。コアイはそれを、棒立ちで受け止めてみる。もちろん、斥力で身を護ることはせずに。
彼女が私に触れさせるそれは、湯である。彼女ではない。
けれどそれは、彼女のあたたかさを私に教えてくれて……とても心地が良い。
彼女がそれに飽きるまで湯を受けよう、と立っていると……彼女は入念に自分の身体を洗い流していた。
それが済むのを待って、二人は湯に浸かる。
「また用意してもらっちゃった、今度は飲み過ぎないよ~にしなきゃね」
彼女は酒器を底の浅い木の大皿に載せて、それらを湯に浮かべて笑っている。
楽しそうな彼女を見ながら、コアイは名前を忘れた……北方の酒を注いでやる。
「北の地で買った、珍しい酒らしい」
二人分を注いだのち、コアイはスノウと共に酒器を上から覗いてみる……器に満たされた液体の彩りは鮮やかな赤、でありながら器の底がうっすら見えるほどに透き通っている。
これは……城市アルグーンで最後に飲んだ、酒か。
「きれいな赤だね……んじゃ、カンパ~イ」
すると二人とも、自然と酒を飲み干していた。
少なくともコアイには、そんなつもりはなかった。少しだけ口に含もうとしたはずなのに、酒のほうから飲み込まれに来たかのような。
「えっヤバっなにこれ……フルーティ……すぎない?」
彼女が言葉をこぼす横で……その酒の流れがもたらしたものを、コアイは今回も好ましいと思った。
上手く言葉にできないが、自然とスノウの……彼女の眩しい笑顔が浮かぶような。
「後味もなんか、よくわかんないけどおいし……」
それでいて、その好ましさは名残りもなく消えていった。
気が済むまで彼女を抱きしめて、彼女の笑顔にあたためられた……はずだったのが、一人で眠って見た夢だと気付いたときのような。
彼女が笑顔のまま、薄れて消えていくような。
コアイは何となく、淋しく感じて……
けれど今、彼女はすぐ隣りにいる。
「ん……」
彼女の細い腕。
気付いたときには、そこに自分の腕を絡めていた。
そして二人はまた酒を注ぎ、飲み干して。
と、突然コアイの胸が痛む。
それを呼び起こしたのは……間近で目を閉じて酒に口を付けた彼女の顔。
仰向けに寝転がったコアイの上で抱き留められた彼女の、愛らしい寝顔……それに似ていると感じたコアイの皮膚がぞくりと震えた。
コアイは身を震わせながら、「あの時」知った唇への感触を思い出してしまった。
そして、ひとたびそれを意識してしまうと……胸から身体中へ押し広げられていくような、手足の指先まであたためるような心地好い浮遊感が生まれて……それに満たされてしまう。
そして、すっかり満たされているはずなのに……なおも熱く、せつなく、彼女を求めているのを自覚してしまう。
コアイは「あの時」と同じように、胸の内を繰り返し強打されているかのような音を全身で聞きながら……顔が灼けたように熱くなっているのを感じてうつむいていた。
しかし、今日は……絡めた腕の側へ……振り向けばそこに彼女がいる。
けれど、「あの時」のようには出来ない自分がいた。
そして……そう出来ないと戸惑っているうちに、彼女の腕が離れてしまった。
それを切なく感じ、手を伸ばそうとしたコアイに……声がきこえた。
「あ、あのさ……飲みすぎないうちに、部屋に戻ろっか」




