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危機をすくい上げて

 風呂に入りたい、と彼女は言った。

 酒よりも風呂を、と彼女が求めた。


 であれば彼女へ、私は与えるのみ。



 夜明け前から、何か彼女の様子が変だ。いったいどういう風の吹き回しだろうか。

 コアイはうつむいて呟くスノウの姿に、違和感を覚えている。


 彼女がこうまで酒を飲まずにいて、酒以外のものを求めるとは。

 それでいて、普段の彼女から感じる……透き通ったような明るさもまるで見られない。


 コアイは彼女らしからぬ姿に、少し戸惑う。

 しかし戸惑いはしても、自身が為すべきこと、したいこと……それは変わらない。


 コアイが心の底で願うのは、いつもスノウの笑顔。

 それはけして変わらない。


「少し待っていてくれ、宿の主人にでも()いてみよう」

 コアイはスノウへ声をかけてから、一人部屋を出る。



 彼女が何かを望むなら、私はそれを満たす。

 それが私の目的(いきがい)




「すみません、うちに家風呂はありません」

 宿の主人は、コアイの問いに頭を下げながら答えた。


「そうか、ならば……この街で風呂がある場所に心当たりはないか」

「街の中央に執政府がありましてな……以前は代官、と言ってもこの街の代官となれるのは貴族の方のみのようでしたが……そのお屋敷としても使われていたのです」

 主は話をしながら、ペンを取り何かを書き示している。


【ところで、先日のチッター川……北の川沿いでの大量死事件、本当にご存知ないのですかな? 昔の伝手で、死者のなかに例の暗殺部隊らしき得物を持った者らが複数いたと聞きました】


「しかし、執政府には何度も行っておりますが……」

 言葉も文字も淀みなく、スラスラと流れる。器用なものだ……とコアイは主の様子を眺める。


【そして時期も貴方の出立と合う。それゆえ、貴方が一枚噛んでおられるように思ったのですが】


「確かあそこにも家風呂は無かったと思います。仮にあったとしても、すぐには使えないだろうし使わせてもくれないでしょうが」

 主は話し続けながら、コアイへ紙と羽ペンを差し出してきた。

 前回ここに泊まったときと、同じようなやり取り。


「そうか、他に心当たりはないか」

 この男には以前も情報をもらっているし、今更取り繕う必要もないだろう。それに……


【北の川を越えた頃に騒ぎはあったが、あまり覚えていない】

 コアイにはそれよりも余程大事な気がかりがあるから、紙のほうには正直な考えを記した。


 

 なんの歯応えもない、軟弱な敵手の集団になど興味はない。わざわざ気に留めるつもりも無い。

 そんなことよりも、私は彼女の望みを満たしたい……彼女を風呂に入れてやりたい。



 コアイが紙と羽ペンを返すと……主はコアイの記述を見てか、失笑した。


「プフッ……あ、いや、これは失礼」


【なるほど、では知らぬ、ということにしておきましょう】

 主は紙にペンを走らせる。

 一文書き記してから、主はもう一度口を開いた。


「この街に、執政府より大きな屋敷はないのです。おそらく街のどこにも、専用の風呂を備えた屋敷はないのではないかと……」

 主にとっては、羽ペンでのやり取りこそが大事なのかもしれない。


【ご安心ください、けして口外はいたしません】


「分かった」

「ご要望に応えられず申し訳ありません」

 コアイは一旦客室へ戻り、街を出ることをスノウに提案した。

 スノウは、コアイに任せるという態度で一貫していた。二人は手付かずの酒瓶だけを持ち出して、宿を引き払う。



「私達はこのまま街を出ようと思う」

「承知いたしました。あ、そういえば……昔は街の北西部に公衆浴場があった、と子供の頃に聞きましたな。が、旱魃(かんばつ)で水不足になった年があって、その頃に取り壊されてしまったとか」

 宿の主の言葉にスノウが反応した。


「え、じゃあ身体洗うのはどうしてんの? シャワーとかは……ないよね?」

「しゃわー? それは何のことだか分かりませんが」

 コアイにも『しゃわー』なる言葉の意味が分からない。おそらく、こちらの世界には存在しないものなのだろう。


「このあたりでは、家の近くで桶とタライを使って身体を洗い流すのが一般的です」

「それって外で?」

 何か引っかかりがあるのか、彼女は質問を続けた。


「そりゃあ、家の中で水をまき散らかすと後が面倒ですからな」

「外かあ、それはちょっと……」

 彼女は頭をかきながら苦笑していた。当てが外れた、というような様子にも見える。


「金持ちの家だと奥方が離れの納屋を使ったり、年頃の娘っ子には庭に板で囲いをしてから入浴させるということもあるようですが」


 川での水浴び、ではあるが……初めて彼女に身体を洗われたときに、似たようなことをした記憶がある。

 年頃の娘……か。


 と困惑しかけて、それは今気にすることではないと思い直した。


「うちではそういうお願いをされたことがないので、準備もしておりません。申し訳ありません」



 主人は荷車と馬を取りに出ていった。

 二人は主人が戻るのを戸口で待っている。


 コアイは城市デルスーを出ることは決めていたが、何処へ向かうかを決めかねていた。



 ここから……別の城市を目指してみるか?

 北の川の、川辺に降りやすい場所を探してみるか?


 それとも……人目のない場所へ移り、彼女を帰すべきだろうか。


 いや……

 彼女を満たさずに離れるのは嫌だ。


 彼女は何か思い悩んでいる。

 そんな彼女の望みを叶えずに別れるのは、嫌だ。


 私は彼女を楽しませるため、喜ばせるために……彼女を()んだのだから。



 ならばいっそ、彼女を連れたまま居城……タラス城まで帰ってしまおうか。そうすれば城で風呂に入れる。

 彼女が私の客人だと解っていれば、私と共に居れば……各村の翠魔族(エルフ)達も妙なことはしないと思うのだが。




 宿の主から馬と荷車を受け取ったコアイは、一先ず南へ向かってみることにした。

 南西にドイトなる城市があることを地図や酒場の話で知っているので、途中で西に進路を変えるも良し。

 そのまま南下して、森へ入ってしまっても良し。



 しかし城市を出ても、どうにも馬の歩みが鈍い。


「ウマ、元気ないね〜……疲れてんのかな?」

 との彼女の声に、コアイは村で馬用の薬壺をもらっていたことを思い出した。

 一旦馬を止めて、荷車の端に寄っていた黄色い壷を持ち出す。


「つぼ? にしては変わった色だね、かわいい!」

「カチャウと言っていたか、変な翠魔族(エルフ)の魔術士にもらった薬だ。良く分からんが腕は確からしい」

「変なって……王サマはあんまし人のこと言えないでしょ」

 何故か、彼女は楽しそうに笑っている。


 それはそうと、コアイは壺中の薬を手ですくって、馬になめ取らせてみる。

 すると馬は瞬く間になめ尽くしてから……壺に鼻を寄せて、こすり付けるように上下させている。


「もっと食べたいってことかな?」

 そう聞いたコアイは薬を何度かなめ取らせてから、再び馬を進ませることにした。


 ……と、しばらくして……突然馬が高らかにいなないた。

 その声が止むとともに、馬は掛かった様子で前へ前へと激走しだした!

 手綱を引き絞っても、まるで抑えが利かない!


 想定外の速度に荷車が揺れ、軋む。



「ぁんぎゃああああああああああああああああ!!」


 激しい揺れに尻が痛むのか、速度に怯えているのかは分からないが、スノウが絶叫する。

 コアイはその濁った悲痛な声に気を引かれ、手綱を絞ったまま彼女に目をやった。


 彼女は目をつぶり、ローブの袖を握りしめている……と、その瞬間、荷車が大きく跳ね上がった。


 石を踏んだか? 丘の高低差か?

 と考える頃には、彼女の身体が浮き上がっていた。


「えっ……」

 彼女の身体が車から放り出されている!


「スノウ!?」

 コアイは思わず手を伸ばす、しかしその手は届かない!


 彼女を守らなければ!!


 その他に何をしたか……叫んだのか、(わめ)いたのか……まるで分からない。

 ただ、必死だった。彼女を守らなければ、と。



 ……気が付くと、伸ばした手の指から飛び出した血縄が網のように広がって、彼女の身体をすくい上げていた。

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