憩いの街をさがして
気が付くと、窓から薄明かりが差し込んでいるのが見えた。
夜が明けようという頃。
コアイは何となくベッドから起き上がり、机の上に置いておいた短刀を手に取った。そしてゆっくりと短刀を鞘から抜き、刃先を見つめる。
神とやらを強く信仰しているらしい、人間達の得物……
それ自体に興味はない。
それ自体に強力な魔力や、付呪の痕跡はない。
人間の用いる毒が私にも効くのか、それは実のところ分からないが……これ自体は私に触れ得る、私を傷つけ得る刃ではない。
しかし、人間が用いる毒なら、人間には効くのだろう。
コアイは己の身を案じていない。案じているのは、もちろん彼女……スノウの身である。
コアイは短刀を鞘に戻してから机に置く……そうしたところで、エミール領周辺の地図を床に転がしたままだったことを思い出した。
コアイは薄明かりを頼りに地図を拾い、ベッドに腰掛ける。
地図を確かめると、酒場で聞いた街の名が確かに記されていた。
現在地のデルスーから北西にアルグーン、南西にドイトなる城市がある、と。
そして、北西のアルグーンがエミール領の中心的な街であり、ここを当面の目標とするのが良い……とも。
実のところ、コアイは地図のこの部分までは目を通していなかった。
地図を用立てたソディの勧めと、酒場で聞いた珍味のありか……それ等が重なる城市ならば、目的地として理想的であろう。
残る問題は、コアイを狙う人間達の存在。
地図によると、デルスーから少し北に流れの急な川が流れており、川を越えるには橋を渡る必要があるとのことであった。
また馬車であれば、デルスーの真北にある橋……最も東側に架かった橋を渡るのが安全で、かつ周辺に草や水場が豊富なため馬の負担も少なくなると記されていた。
橋を渡る、となれば……その前後で進路が限定される。
私が北西の城市に向かうと分かっていれば、追いかけ、あるいは待ち構えることもできるだろう。
私を狙う者等を誘い出す、機会になるかもしれない。
「おはようございます、よく眠れましたかな?」
朝になって、コアイは客間から宿の玄関へ向かった。玄関には既に、宿の主がにこにこ顔で立っていた。
「私は北西のアルグーンへ向かおうと思う」
「え? はい……?」
コアイは意識して大声を出し、主に行き先を告げる。
「お、お客様……朝からずいぶんお元気で……それはよいのですが、今日はお泊りにならぬ、ということでよいですかな?」
主はコアイの様子にやや困惑しているのか、首をひねっている。
「ああ、昼には出ようと思っている」
コアイは再度声を張る。
もし、コアイを狙う者達が宿の近くに潜んでいれば……と、考えて。
「承知しました。では馬を連れてきて、荷車におつなぎしましょう。用意が出来たらお呼びしますので、しばし客室でお待ちください」
コアイが客室に戻ってからしばらくして、主が客室を訪ねてきた。
コアイは主に金貨を一枚渡してみた。コアイには宿の相場は良く分からないが……掌に乗せられた金貨に目を向けてから、何かを察したように笑顔でうなずく主の態度……それを見て、感謝を示せたと解釈したコアイは酒場へと向かった。
「お? 昨日の兄ちゃんか。すまんがまだ店は開けてないんだが……」
「北西のアルグーンへ行ってみることにした、昨日の酒を持ち帰ることはできるか?」
コアイは今度も、大きな声を出すことを意識して語りかける。
「酒? ああ、アルキなら持たせてやれるぜ。昨日飲んでたやつを一瓶でいいかい?」
昨日コアイが飲んでいた地の酒には、二種類あるという話を思い出す。
「別の酒もあると昨日聞いた、それも一瓶呉れないか」
「分かった、少し待っててくれ」
店主は笑顔で店の奥へ入り……酒瓶を二つ出してコアイへ差し出した。
「助かる」
コアイは金貨を一枚置いてから酒瓶を手に取り、店主の引き留める声を聞き流して外へ出た。
他の酒場や、昨日のここでの支払い額から考えて……金貨を置いていけば、十分な謝礼代わりになるはずだから。
コアイは城市デルスーの北門から出て、なるべく真っ直ぐ進むように馬を御す。
すると荷車の進む音に、川の流れる音が混じりだした。
地図の記述によれば……北門から真っ直ぐ北上し、川に近付いた辺りで進路を東に向け、北東に進むと丘を一つ越えた先に橋があるという。
もし川沿いに橋が見えず、川上……東側の土地が高くなっていれば東に寄りすぎで、西へ川を下るように進んで橋を探すのが良い。東側の土地が高いように見えない場合は西に曲がりすぎで、そこより東に橋があるはずだが……その場合は無理せず西進し、別の橋を渡ってから川を遡ったほうが川辺の地形を考えると無難かもしれない。
……とのことであった。
説明が少し分かりにくいが、おそらく近辺に目印となるものが無いのだろう。
コアイは地図の説明に従い、馬を大まかに北東へ向けた。
しばらく進むと、視界の先に青草で覆われた高い丘が見えた。
これが、説明にあった丘だろうか。荷車で越えるには少し急な登り坂にも見えるが……コアイは進路を変えず、丘越えを試みる。
すると荷車全体が坂に乗り上げた辺りで、馬の歩みがわずかに鈍った。コアイは馬の様子を見てみるが、馬が歩みを止める様子はない。
コアイは小さく一息ついて……荷車を馬の行く気に任せて、空を見上げてみた。
空は青く、雲はなく……城市を出た時よりも、風が強いように感じる。
澄んだ空。
しかし今、この空の下に彼女はいない。
あの日森の中で、二人で双月を見上げたように……また、彼女と同じ空を見たい。
コアイがスノウへの想いを馳せていると、ふと荷車が揺れた。
揺れに目を覚まされ我に返ったコアイは、下方に流れる川とそこに架かる橋を目にした。どうやら地図通りに丘を登りきったらしい。
広野にポツンと架けられた橋……
それを見て、コアイは過去に受けた襲撃を思い出す。
あのときは、私は馬に乗って駆けていた。
あのときも、襲撃者達は毒を用いていた。
あのときも、彼女に渡す酒を携えていた……
その時……西のタブリス領から自城へ帰る途上で襲撃された際は、乗っていた馬と近くにいた人間がコアイを狙ったらしき毒矢によって死んだ。
今のところ、辺りに魔力は感じられないが……魔力を持たぬ者達が陰に潜んでいることは十分に考えられる。
コアイは一旦馬を止め、荷車から馬上に移った。そうすることで少しでも馬に矢が当たる可能性を減らしてから、橋を渡ろうと馬を進ませた。




