十六 帰り着いたソノにはまだ
森と草原の境目に近い翠魔族の村からは、何の声も気配も伝わってこない。
家々に近付いてみても、子供の人影すら一つとして見当たらなかった。もちろん畜舎にも、家畜の姿はなく……飼われているはずの馬も繋がれていない。
村を野盗か猛獣にでも襲われ、逃れたのだろうか?
コアイはそう考えて、家々や畑を探ってみる……しかし家屋、畑や果樹、いずれにも……荒らされた様子はまるで見られない。
何かに襲われたにしては、家屋も畑も整っている。野盗や獣の類が村に侵入した様子はない。
それどころか、何者かに襲われ急ぎ避難した……という様子すら感じ取れない。それにしては、散らかりが無さすぎる。
逆に、先んじて野盗や獣の類を追い払おう……と決起したのであれば、乳飲み子と母親、またその護衛くらいは残すだろう。コアイの知る限りでは、人間も魔族も……そういうものだった。
コアイは訝しく思いながら、ひとまず先を急ごうと歩き出し……たところで、遠く馬の嘶きが聞こえた。
進めようとした足の向きをその方向に変え、木々を縫うような小径へ踏み込んでみる。暫く進み、少し拓けた場所へ出ると……そこは草地になっており、そこでは一頭の裸馬がのんびりした様子で草を食んでいた。
これ幸いと、コアイは村の畜舎へ戻って手綱を持ち出した。そして草地で変わらず野草を食み続けていた馬に轡をはませ、騎乗した。そして馬をタラス城へと駆けさせた。
実のところ、コアイは鞍や鐙の用意を忘れていた。本来であれば、鞍なくして長時間の騎乗は困難だが……コアイは斥力を生む魔術を応用することで、足腰への負担なく馬に乗り続けることができる。そのため特に問題はなかった。
林道を南東へ、南東へと駆け続けコアイはタラス城へ帰り着いた。
ずいぶん、待たせてしまっただろうか……
そう思いながら最奥、第三の城門に辿り着いたコアイを出迎える者がいた。
「お帰りなさいませ、陛下!」
門を開きコアイを出迎えたのは、老人や大男の姿ではなく……潤い豊かで瑞々しい少年リュカであった。
「そこで待っていたのか」
「はい」
リュカの返答の後、コアイはそれ以上語りかけなかった。少しの間、沈黙が流れる。
「あ、陛下!」
何かを意識しすぎて気負ったのだろうか、口を開いた若者の声が上ずる。
「陛下の御帰還を祖父へ報告しておきます、後ほど祖父とお会いください。それまではいかがなされますか」
「少し休もうと思う」
コアイは早く寝室へ戻りたかった。
彼女の描かれた絵、笑顔を確かめられる場所へ。
「部屋へお食事でもお持ちしましょうか」
「要らぬ」
コアイは脇目も振らず、若者に一目もくれず真っ直ぐに寝室へ向かった。
コアイは階段を駆け上がり、勢いよく扉を開いて寝室へ駆け込んだ。そして直ぐに扉を閉め、肖像画を掛けた壁の前に立ち…………
そこには変わらぬ笑顔を見せてくれる彼女がいた。
コアイの胸の、内側が鳴る。
もちろんそれは、寝室まで駆けてきた疲労故ではない。
暫くの間、コアイは彼女の肖像画を前にして惚け、立ち尽くしていた……
扉を叩く音が聞こえて、コアイはハッと我に返る。
「陛下、陛下、よろしいでしょうか」
「少し待て」
コアイは我に返ったことで慌てて寝室を目指した目的……肖像画を手元に保持することを思い出した。
コアイはそのため、慌てて肖像画を降ろし額縁を外した。そして絵を急いで懐にしまいこんで、そうしてから来客に応えた。
「待たせた」
扉を開いたコアイの前には着飾った、可憐な娘が立っていた。
その姿には見覚えがある。おそらく美しいと、非常に美しいと評される類のものであろう。
しかしその見目麗しさなど、コアイには関係のないことである。
コアイの心のその部分には、スノウだけがいるのだから。
「何用か」
「お、お疲れと思いお飲み物をお持ちしました。よろしければお注ぎいたしますが……」
「要らぬ、下がれ。邪魔をするな」
見覚えのある美しき娘、しかしコアイはそれに興味を示さず冷淡に突き返す。
「失礼、いたしました……」
娘は下を向きながら立ち去っていった。
コアイは小さく溜息を漏らしてから、扉を閉めてベッドに寝転がった。するとどことなく砂っぽい臭いが立ち込める。
先に風呂にでも入っておけば良かっただろうか? と少し後悔を感じたものの、懐から彼女の描かれた肖像画を取り出し眺めていると……些細なことは気にならなくなった。
コアイは彼女の姿を確かめて、安らかに眠った。
コアイは気付いていない。
今しがた追い返した可憐な娘の声色が、城門でコアイを出迎えた少年のそれと酷似していることに。
「陛下、よろしいですかな……」
扉を叩く音とともに、老人ソディの穏やかな嗄れ声が聞こえてくる。
どれ程眠っていたのだろうか、窓の外は暗い。
「城に滞在している村長たちを広間に集めます。集まり次第もう一度こちらに伺いますゆえ、ご承知おきいただければ」
「わかった、何か準備が必要か」
「陛下自ら、戦勝をお伝えいただければそれで充分かと」
再度寝室を訪れたソディに案内され、コアイは村長の待つ広間へ入った。上座に着き、コアイは城市タフカウでの勝利を伝えた。
「さて、我等は人間どもの主力を討った。程々に勝ったところで、儂は講和を持ちかけたいと考えておる」
ソディの提案は予定通りのものであった。その根回しも概ね、抜かりなく……首尾よく済んでいた。
その、はずであった。




