三 変わらないもの、変わるモノ
屋敷の中心部には玉座を備えた広間があり、そこに金属の仮面を着けた人影が一つ戻ってきた。しかしその人影は、広間を出る際に纏っていた薄暗さを残していなかった。
さて、始めようか──
コアイは懐に入れていた奇妙な小物を取り出す。あの娘と別れる前に受け取ったものだが、これは一体どういう道具なのだろうか。コアイは小物を手に取ったまま眺めてみるが、見当がつかない。
けれど、彼女を思い出してコアイは嬉しくなった。
コアイは跪き、手にした小物をそっと、優しく床に置いた。もし、もし仮に彼女を知る者がこの姿を見ていたら、何事かと大いに畏れ騒めいたことだろう。しかしそんな者は最早この地に存在せず、辺りはとても静かだった。
けれど、吹いた風が彼女の息遣いに聞こえてコアイは嬉しくなった。
コアイは先に翠魔族を襲った時に齧った指に触れ、傷口がまだ塞がり切っていないことを確かめた。そして傷口に爪を立て、血を滲ませる。そこから命ずれば、傷を増やすことなく召喚陣を描くことができるからだ。しかし何故か、そこから流れる血を再び用いることは躊躇われた。何故かは分からない、どうにも分からないが。
けれど、彼女に逢うためならば傷を増やすことすらコアイは嬉しいような気がした。
コアイは別の指先を齧った。そして出血を確認し、召喚陣の描画を命じようと……意識する直前、彼女の手の感触が思い出されていた。
柔らかく、少し湿気た、あたたかい、掌。近づきたい、触りたい、握りたい。
そして少しだけで良い、その皮膚の先を味わい────
しかしそれは彼女に悪い気がして、コアイはふと浮かんだ欲望を必死に振り払おうとした。「それ」はコアイにとって、間違いなく初めて感じた、知覚した欲求であった。
これまでに、さまざまな物、さまざまな者を捕食対象としてきた。しかしそれは、あくまでも己の血肉を補うためだけの行為であった。どんなにそれらを必要としたときでも、行為そのものを渇望したことなど、「味わいたい」と考えたことなど一度たりとなかった。
しかし、それとは別の変化にも、コアイは気付いていないかもしれない。他人に引け目を感じ、遠慮する……という意識自体、以前の彼女には無かったということに。
……何を考えているのだ、私は。今は、万全な状態で────余計なことを考えず、確実にあの娘を喚ぶことこそが肝要だろうに。
コアイは気を取り直し、先程噛んだ指先に意識を向けて血に命ずる。視線の先に置かれた彼女の小物を囲うように、床に召喚陣を描けよと。
指先から、血がキビキビと流れ出す。流れ出た血は物体に触れぬよう機敏に走り、召喚陣を象どった。コアイはそれを見てから左手を高く掲げ、指先を召喚陣に向ける。
そして、
「mgthathunhuag Moo-la-la!!」
コアイは、どこで知ったかも定かならぬ、この世界の言語とは異なる呪文を発声した。
赤い線で形作られた召喚陣が、色を喪う。召喚陣は周囲の色を、光を吸い取りながら暈けた薄い黄色に変わり…………
やがて術者を含む全てが、柔らかで穏やかな熱量に沈められていく────
その後に、人の姿があった。
今回も、娘は召喚陣のあった辺りに横たわっている。コアイは横たわる娘の顔を確かめて安堵しつつ、彼女の着衣が前回とは随分異なった形状であることに気付いた。
色合いは木炭のように沈んだ艶のない黒で、特に珍しくはないが……この仕立ては、この世界で目にした記憶がない。言葉でははっきりと表せないが、どこか畏まったような?
ともあれ、娘は再度この世界に喚び寄せられた。少なくとも外見上は。なれば私は、彼女の姿をのんびり眺めながら……いや、彼女が三位満足であることを願いながら待つとしよう。
コアイは床に腰を下ろした。眠る彼女とは付かず離れず、彼女の全身を眺められるだけの距離を保って。
屋敷の周囲では日が落ちかけ、夕暮れ時の鳥の声が響いていた。
屋敷に近い集落では何人かが戻らず、困惑する翠魔族の声が響いていた。




