凛の三十八 『初めて』は、とても大事です
凛ちゃん視点です。
「凛。スマホを契約していたらしいね? 家族である僕に黙ったままだったなんて、水臭いじゃないか。ほら、連絡先を交換しよう」
「……はい」
相馬さんが携帯電話を持っていなかったという衝撃から、完全に抜けきらないまま迎えた、部活動の時間でした。
練習の合間にある小休憩の時、どこからか聞きつけたお兄様が輝かしい笑顔で私に近づき、ご自身のスマートフォンを取り出して、そう仰られました。
私は半ば予想できていたことですので、内心で渦巻く拒否感を無理やり笑顔で隠し、頷きました。
私のこととなると見境がなくなり、能力だけは高いお兄様のことです。私を監視するために、知り合った生徒に頼んで、私の行動を監視しているだろうとは思っていました。
なので、一度学校でスマートフォンを取り出してしまえば、こうなることは簡単にわかってしまいました。悲しいことですけれど。
本当は、相馬さんの連絡先を一番最初に登録したかったのですけど、不幸なすれ違いで断念してしまったので、仕方ありません。
ここで断ってしまうのも不自然でしたから、私は大人しくスマートフォンを取り出しました。
「……ん? もうハーリーさんとは連絡先を交換していたのか?」
「……はい。同じ演劇部であり、同じクラスですから、すぐに交換させていただきましたよ?」
渋々、連絡先を交換している際、お兄様が無遠慮にも私のスマートフォンをのぞき込み、電話帳を確認してきました。
まるで私の交友関係にまで入り込まれそうな気がして、咄嗟に画面の角度を変え、お兄様の視線からスマートフォンを逃がしました。
立川さんではありませんが、お兄様もデリカシーというものを学んだ方がいいと思います!
そう。私のスマートフォンにはすでに、何人もの連絡先が登録されています。
ひとえに、私の『初めて』がお兄様であることを防ぐためでした。
昼休み、相馬さんの連絡先を登録できなかった私は、すぐさま教室に戻りました。
事前にお兄様の行動がわかってしまっていたからこそ、私のスマートフォンの最初の登録者がお兄様になることは、何としてでも避けなければなりません。
よって、次善の策として私が起こしたのが、クラスの方との連絡先の交換でした。
未練がましい私は、教室に戻る途中に、何度も相馬さんの顔が脳内にちらつき、とても、非常に、ものすごく、悩みましたけど、最大の悲劇を回避するためには、どうしても必要なことだと割り切りました。
重要な最初の登録者は、お兄様に説明したように、連絡先を交換していても違和感のない長谷部さんにお声をかけました。
同性で一番仲のいい長谷部さんでしたら、相馬さんの次に私の『初めて』をお願いしたい方でしたから、うってつけです。長谷部さんも喜んで交換してくださいました。
私としてましては、その時点でお兄様の思惑を外すことが出来ましたので満足だったのですが、皆さんの前でスマートフォンを取り出したことが原因でしょう。
その後はクラスの方全員から連絡先の交換をお願いされ、残りの昼休みはずっと登録で大忙しでした。
その際、「これでもっと柏木さんとの距離が近くなるね!」と仰って下さった女子の方がいて、携帯電話の有無がクラスメイトの方との親密度に大きな影響を与えていたのだと発覚し、驚愕したりもしましたが。
おそらく、ここ最近私が感じていた奇妙な疎外感も、三組の中で私だけが携帯電話を所有していなかったことが原因だったのかもしれません。
今後は、長谷部さんや立川さん以外のクラスメイトの方とも、積極的に交流をしていかなければいけませんね。仲間外れは、ちょっぴり、寂しいですから。
ともあれ、そうした経緯があり、お兄様が『初めて』になることは阻止できましたので、連絡先の交換も、抵抗こそあれ、拒否することはしませんでした。
「え? カリンちゃん、ついに携帯デビュー?」
「へ~。おめでとう~。それじゃあ~、メアド交換しよっか~?」
「私もやるーっ! カリンちゃんに突撃ぃー!!」
「こら、トーラ。危ないから走るんじゃないよ」
「この流れで、俺だけしないのもおかしいし、俺ともやっとくか?」
お兄様の連絡先が登録されると、次々に先輩たちが集まってくださいました。
最初にミィコ部長が私とお兄様とのやりとりを聞きつけ、近くにいたミト先輩が肩をくっつけるほど密着され、トーラ先輩が助走をつけて私へ突進しようとしたところを、トウコ先輩が羽交い絞めで止めて下さり、トウコ先輩の後ろからキョウジ先輩もスマートフォンを取り出しておられました。
もちろん、私にお断りする理由がありませんでしたので、そのまま皆さんとも交換しました。
その日の練習が終わり、個別練習から戻られたターヤ先輩とも連絡先を交換して、解散になりました。
また、帰宅してからも私のスマートフォンの話は続き、お父様、お母様、使用人の皆さんとも連絡先を交換することとなりました。
「……はぁ」
思った以上に大変だった一日を終え、自室に戻ってベッドに横たわった私は、まだ手に馴染まないスマートフォンの電源を入れ、電話帳を眺めました。
たった一日で、かなりの数の連絡先が並ぶこととなりました。
クラスの方々、演劇部の先輩方、家族。
これだけで五十名を軽く超え、まっさらだった電話帳にいくつもの名前が並んでいます。
……なのに、一番繋がりたかった人の名前が、ここにはありません。
連絡先を教えて下さった皆さんには、失礼かもしれませんが、溜息を抑えきれませんでした。
この感覚には、覚えがあります。
中学三年生の二学期初日、橘師匠の教えの下、努力して築き上げた人の輪に、相馬さんがいなかった、あの時と同じです。
表面上は賑やかなのに、心にぽっかりと穴が開いてしまったかのような、空虚感。
一番大切で。
一番そこにいてほしくて。
一番、大好きな人が。
いない。
「…………はぁ」
もう一度、強い溜息を漏らし、私はスマートフォンを両手で包み、胸元で握りしめました。
徐々に薄れていくような錯覚を覚えてしまうほど、遠く感じる彼との関係をかき抱くように。
そこにいない彼を思い浮かべ、ぎゅっと、強く、スマートフォンを胸に押し付け続けました。
翌日も、少しだけ、悲しい気持ちを引きずったまま、一日を過ごしていました。
本心を隠すことにすっかり慣れてしまったため、私の変化は誰にも気づかれてはいないようでした。
他の方にご迷惑をおかけしたいとは思っていませんので、それはそれでいいことなのですけれど。
演劇部の練習終了後、ちらりと見えた相馬さんのお姿に、胸が痛んでうずくのは、どうしても止められませんでした。
相馬さんは、そもそも携帯電話を持っていないのですから、仕方のないことです。
どうしようも、ないんです。
自分に何度も言い聞かせ、頭では、わかっているのですが。
いい子じゃない、わがままな私が、心の中で暴れまわっていました。
相馬さんの声が聞きたい。
相馬さんに声を届けたい。
また、大きなしがらみもなかったあの日のように、相馬さんと、他愛のない話で、笑い合いたい。
そうやって、いつもは何も言わない欲張りな私が、ずっと、駄々をこねているのです。
触れられる距離にいるのに、見えない壁が厚く、高すぎて、触れられない。
繋がれる道具があるのに、好きな人にだけは、届かない。
近いのに、こんなにも、遠い。
ずっと感じていた相馬さんとの間にある溝が、余計に、深く広く、感じられるようになっていました。
「…………」
帰宅後、自室でいつものように勉強をしていても、常に頭の中には相馬さんのことがちらつきます。
授業の課題、予習復習、そしてスマートフォンを持ち続けられるように自習を行い、シャープペンシルを置きました。
「あら?」
ふと、机の端にあったスマートフォンに視線を向けました。
すると、マナーモードに設定していたそれが、細かく振動していたのです。
色んな方の連絡先を登録してから、頻繁に鳴るようになったスマートフォンですが、私が使い慣れていないのもあって、契約して二日で少々持て余し気味でした。
電話は何とかスムーズに出られるようになりましたが、メールはまだまだ操作がまごついてしまい、返信が遅れてしまいます。
特に、チャット機能があるというアプリケーションを勧められてダウンロードし、グループというものに参加させてもらったのですが、メッセージが書き込まれる度にびっくりしてしまいます。
手慣れた皆さんは、怒涛のようにメッセージを送信されています。しかし、私は皆さんの反応速度に対応しきれず、いつもあわあわとしてしまうだけです。
今はそのアプリケーションもメッセージ通知をオフに設定し、参加できそうな時にだけ、メッセージを送るようになりました。
私の携帯電話事情はさておき。
スマートフォンが震えるということは、どなたかが電話かメールをしてこられたのだと思います。少なくとも、通知がオフになっているチャットではないでしょう。
自然と、クラスの皆さんは候補から外れました。会話は学校の連絡などの必要事項を含めて、ほぼチャットで行われると仰られていましたから。
家族や使用人の方でも、ないと思います。私は自室にいるのですから、用事があれば直接こちらへ来られるはずですから。
だとしたら、演劇部の関係者でしょうか?
まだ連絡先を交換しただけで、部活動のコミュニティーではチャットなどを行っていません。基本的な連絡手段はメールになっています。
何か明日の部活に必要なものでもできたのでしょうか?
そう思って、私はスマートフォンの電源を入れ、メールボックスを開きました。
「……誰、でしょう?」
ただ、私の予想は外れ、受信メールを見ますと送信者の欄には知らないメールアドレスが記載されていました。件名も空白で、要件もまだ曖昧です。
誰だろう? と思い、私は疑問に思いつつメールを開いてみました。
「……えぇっ!?」
瞬間、私は存外大きな声を出してしまい、椅子から勢いよく立ち上がりました。
「あ! わ、わわわっ!?」
勢い余って、手の中にあったスマートフォンも落としそうになりましたが、何とかキャッチしました。
「そ、相馬、さん?」
私がこれほど取り乱したのは、他でもありません。
メールの送り主が、相馬さんだったからでした!
「お、落ち着きましょう、柏木凛。そう、まずは、深呼吸です」
完全な不意打ちに動揺が収まらない私は、とりあえず深呼吸で混乱を落ち着かせました。
そして、一旦スマートフォンを机に置いてから、手鏡で乱れた髪の毛を手櫛で整え、何故かベッドに正座しました。
この時、自分では冷静になれたと思っていましたが、私のパニックは全く収まっていなかったようです。
「そ、それでは、失礼、しますっ!」
そうとも気づかず、私はもう一度大きく息を吐きだしてから、両手で包んだスマートフォンを目の前にかざし、メールの本文を読み進めました。
『柏木さん、こんばんは。
相馬蓮です。
昨日、あれから父さんと母さんに携帯電話の相談をしたら、すぐに買ってもらえることになりました。
今、契約が終わって、家に帰って、すぐにメールを打っています。
柏木さんの連絡先は、もう登録しました。
昨日は、なんだか、ごめんなさい。
勇気を出して、聞いてくれたのに、断ることになっちゃって。
でも、約束はちゃんと、守ろうと思って、僕の連絡先を送りました。
これでおわびになるかわからないけど、気に止まないでください。
僕は、柏木さんは、笑った方がかわいいと思います。
きりっとしている顔も、かっこいいけど、泣きそうな顔は、僕も悲しいです。
だから、元気を出してください。
それじゃあ、おやすみなさい』
「…………」
簡潔なメールは、最後に相馬さんの電話番号とメールアドレスが記載され、終わっていました。
じっくり、一文字一文字、相馬さんからのメールを読み終えた私は、ポテッ、とベッドに横へ倒れこみました。
「ぅ~っ、むぅ~っ!!」
そして、すぐさま枕に顔をうずめて、体中に感じる熱を誤魔化すように足をバタバタと動かしました。
それでも抑えきれない気持ちを声に出し、真っ赤になっているだろう顔が沈んだ枕に、言葉にならない声をぶつけました。
きゃあああああぁぁぁぁぁ!!!!
か、かわいいって!!!!
相馬さんが、私のこと、かわいいって!!!!
ひゃあああああぁぁぁぁぁ!!!!
気持ちが天井知らずに高ぶっていき、比例してベッドを何度も蹴りつける足の動きも速く激しくなっていきます。
女性としてはしたないとか、お母様に知られたら絶対に怒られるとか、いつもなら浮かぶそんなことさえ、私には思い出せませんでした。
ただ、相馬さんの文面だけが、私の頭を駆け巡っています。
今まで聞いたことのなかった相馬さんのストレートな褒め言葉に、心臓が高鳴りっぱなしです。
頑張って橘師匠に教えてもらった笑顔が、相馬さんはかわいいと言ってくれて、ちゃんと女性として見てくれていたことがすごく嬉しいです。
私のコンプレックスだった無表情も、相馬さんはかっこいいと言ってくれて、自分ではあまり好きではなかったところを褒められて、とてもくすぐったいです。
何より、あの時に泣きそうになっていたことが相馬さんに知られていて、すっごく恥ずかしいです!!
でも、でもでも!!
相馬さんの文章もそうですけど、それだけじゃなくて。
私のことを気遣ってくれる気持ちが、メールの全部から伝わってきて。
一文字だけ、『気に病む』が『気に止む』と誤字になっているところが、相馬さんらしくてかわいくて。
相馬さんが不慣れな携帯電話を操作して、時間をかけて、一生懸命、悩みながら文面を考えてくれたんだろうなって、すっごく伝わってきて。
それだけで、私は嬉しくて、嬉しすぎて、泣いちゃいそうですっ!!!!
「む~っ、ぷはぁ!!」
窒息しそうになるほどの時間、嬉しさで身もだえしていた私は、息が続かなくなった頃に枕から顔を上げました。
熱にでも浮かされたようにぼーっとし、ごろんと仰向けに寝転がりますと、また、相馬さんのメールを一から読み直しました。
何度読んでも、顔が熱くなるのは止められません。
そして、顔がにやけてしまうのもまた、止められません。
内容は、なんてことのない、連絡先を送ってくれただけの、シンプルなメールですけど。
これは、相馬さんからの『初めて』のメールは、私の、とっても大切な、宝物になりました。
間違って消去してしまわないように、相馬さんからのメールに保護設定をかけてから、返信のメールを作成しました。
『相馬さん、こんばんは。
柏木凛です。
昨日の今日で、ご連絡いただき、ありがとうございました。
また、私の態度のせいでご心配をおかけしたようで、申し訳ありませんでした。
ですが、安心してください。相馬さんからのメールをいただけたので、とっても元気が湧いてきました。
今まではずっと、お兄様や他の方の目があったので、あまりお話もできませんでしたが、これからは携帯電話を使ってお話しできるかもしれませんね。
後、テスト勉強で困ったことがあったら、いつでも連絡してください。
中学校で入試の勉強をした時のように、微力ながら、お手伝いさせていただきたいと思っております。
それでは、夜分に失礼いたしました。
おやすみなさい。
追伸。
『気に止む』ではなく、『気に病む』が正しい漢字ですよ?』
何かおかしなところがないか、変なことを書いていないかをじっくり確認した後、相馬さんにメールの返信をしました。
気が付けば、三十分くらい、スマートフォンとにらめっこしていたみたいです。
これだけ長い文章を書いたのも、これだけ長い時間をかけて考えたのも、相馬さんが『初めて』でした。
私の電話帳の『初めて』は、相馬さんではなかったけれど。
いっぱいの『初めて』を、相馬さんはくれました。
「……あれ?」
その後も、相馬さんへのたくさんの好きがあふれてきて、何度も見直した相馬さんのメールをまた読み直していました。
そこで、ふと、私はあることに気付きました。
『今、契約が終わって、家に帰って、すぐにメールを打っています。
柏木さんの連絡先は、もう登録しました』
ずっと、相馬さんのメールの後半に注目していましたが、よくよく観察してみると、これって……。
相馬さんが登録した『初めて』の人って、ひょっとして、『私』ということに、なるのでは……?
「……ひぇっ!?!?」
十回以上読み直して、ようやく気付いた事実に、私はもう一度顔が真っ赤になっていきました。
驚きすぎてスマートフォンを手から取りこぼしてしまい、それにも構わず再び枕へ顔をうずめました。
「むぅ~~っ!!」
内からこみあげてくる衝動に従い、私はまた、枕に向かって絶叫しました!
た、たしかに、すきなひとを『はじめて』にしたいって、おもいましたけどっ!
すきなひとが、わたしを、『はじめて』にしてるのは、そ、それはっ!!
うれしいもっ!!
はずかしいもっ!!
つ、つよすぎますぅ~~!?!?
それから私は、たとえようのないほど熱い感情に支配され、ベッドでずっと転げまわっていました。
その日から、勉強の前にスマートフォンは絶対に見ないように決めました。
多分、もしこのメールを勉強の前に見てしまっていたら、それどころではなかったでしょうから。
凛ちゃん、狂喜乱舞(笑)。
現時点で、今作品一番のご褒美回だったのではないでしょうか? 作者のせいで、近距離なのに遠距離恋愛させられてるようなものですので、免疫がないから余計に感情が爆発しちゃってます。
にしても、凛ちゃんの乙女パワーが凄まじいですね。書いてる作者が一番恥ずかしかったですよ(笑)。基本的にキャラのやりたいようにやらせてるので、そんな風になるんでしょうけど。
次回は他者視点を予定しております。作者の作品における他者視点は長くなる傾向が強いので、もしかしたら投稿が遅れるかもしれません。そこはご容赦を。




