凛の二十七 あなたは、だれ?
凛ちゃん視点です。
「通りすがり、だぁ? ざけんじゃねぇよ!! 野間をぶん殴っておいて、ただですむと思ってんのか!?」
「そっちの方こそ、一人の女の子相手に、男五人で囲んでるなんてふざけているのか? こんな場所まで連れてきて、何をしようとしていたのやら?
まあ、一人は返り討ちにあったみたいだけど、状況から察するに同情の余地がないね。救いようもない。因果応報、ってのはこのことだ」
「てめぇの方から手ぇ出しておいて、何様のつもりだ!? てめぇこそ、俺らに喧嘩売った覚悟はできてんだろうなぁ!?」
「もちろん。俺はその子を助けてくれ、って頼まれたから、ここに来たんだしね。揉め事は避けられないのは覚悟の上だ」
私の上で、本郷さんと知らない方が口論されています。どうやら、私を捕獲しようとしていた野間さんが、知らない方によって倒されたのだと、彼らの会話から遅れて気がつきました。
私はまだ鈍くボーッとした頭を働かせ、前方に現れた人物を注視しました。
物腰の柔らかくも悪漢への厳しい口調に違わず、その人の第一印象は『柔和な人』でした。
視線は本郷さんへと向けられていましたが、目元は下がり口元は笑みを浮かべ、とても優しげな表情に見えました。ちなみに、演劇部の方々に負けないほどの美形です。
が、髪型や服装は、そんな彼の容姿とは、どうもちぐはぐに思えました。
彼の髪型は見事なオールバックで、まるでワックスをかけたようにピカピカと光っています。よく見ますと、それが雨によるただの水気であることは察せましたが、現在の雨量と比較すると、いささか水分が多い気は致します。
そして、一番場違いなのは、着用されたタキシードでした。シャツは首から少し下までが丸見えなくらい、ジャケットやシャツの袖はボタンが留められていません。正直なところ、かなりだらしのない着こなしと言えました。
ただ、かなり着崩され、ヨレヨレになってしまっていても見覚えのありすぎるそれは、本当は相馬さんが着用されるはずだった、『部活対抗リレー』の衣装でした。
体育祭ではお兄様がきちっと着用され、まさしく新郎のような雰囲気を醸し出していましたが、目の前の方はホストの方のような印象が強すぎます。
もちろん、知らない方、と称したように、このような人物に見覚えはありません。お洋服も演劇部の衣装で、ご本人も『頼まれた』と仰っておりましたから、誰かが私の事態に気づいてくれて呼ばれた方、なのでしょう。
しかし、不思議なことに、私は彼の姿を目にして、根拠のない安堵を覚えていました。
何も終わってなどいないのに、私は、助かったのだと、心から思うことができたのです。
「上等だ! そのすかしたツラ、ぼこぼこにして……」
「……ぅがああああっ!!」
「あ、おい! 遠藤っ!」
本郷さんがタキシードの方へと、さらに捲し立てようとした時でした。私の背後から、まるで獣のうなり声のような怒声が上がったのです。
焦った様子で制止されるのは、井垣さんの声。どうやら、私が倒したはずの遠藤さんが復活なされたようですが、叫び声からとてもお怒りなのがわかります。
「この女ぁ! いきなり蹴り食らわせやがってぇ! ヤる前にぶっ殺してやるっ!」
背を向けたままなので詳細はわかりませんが、余程私が反撃に出たことが気に入らなかったようです。遠藤さんの怒声が終わるのも待たず、荒々しい足音が近づいてきました。
部室の裏にある空間で、そこまで広い場所ではありませんでしたから、足音はすぐに私の傍まで接近し、止まります。また、強い憎悪の視線を背中に感じ、遠藤さんが足を持ち上げられたのか、音に少しの間が空きます。
「死ねっ、死ねっ、し」
「おっと、物騒だな、アンタ」
「ねへぼぁ!?!?」
踏みつけられる、と思いましたが、予想していた痛みはなく、ただ遠藤さんのくぐもった悲鳴が聞こえただけでした。
のろのろと体を持ち上げ、上半身を支えて見上げますと、そこには私を庇うように左腕を広げる知らない方と、その向こう側で顔を殴られて仰向けに倒れた遠藤さんがいらっしゃいました。ついでに、私の近くには野間さんが倒れ、気絶しておられました。
遠藤さんが私に近づくのと同時に、知らない方もまた、私を守るために駆け寄ってくださったのでしょう。そして、そのまま遠藤さんを迎撃し、私の盾となってくださっている。
「こほっ、あ、ありがとう、ございます……」
「……お腹でもやられたのかな? あまり無理はしない方がいいよ。壁にもたれて、休んでいるといい」
「……はい」
小さく乾いた咳だけで、知らない方は私が暴行を受けたことと、その場所まで当てられました。
まだ痛むお腹をさすりつつ、私は知らない方の指示に従い、部室の壁へと背を預けます。体を起こすのも辛かったので、幾分かはマシになりました。
「て、っめぇ! マジでぶっ殺す!!」
「やかましい人だ。弱い犬ほど、ってやつかな?」
「っ!? キザ野郎がぁ!!」
とても激昂された本郷さんの声を聞き、そちらへ視線を向けますと、鬼のような形相をしておられました。
お二人を倒されたのがよほど頭に来たのでしょう。知らない方からの挑発にあっさりと乗り、本郷さんは巨躯を揺らして拳を振りかぶられました。
「待った」
ですが、怒りに染まった本郷さんの拳は、振り下ろされることはありませんでした。
本郷さんと知らない方との間に、一人の人物が割って入ったためです。
「あぁ!? んだ、邪魔すんなよ、土井!」
その方は、先程まで静かだった土井さんでした。知らない方と目を合わせ、後ろで吠える本郷さんを半ば無視し、獰猛な笑みを浮かべていらっしゃいます。
「こいつ面白そうだから、俺にちょうだいよ、本郷さん。何だろうなぁ、さっきの凛ちゃんよりも、俄然興味が湧いてるんだよなぁ……!」
「うっ、わ、わかった……。ただし、ぜってぇ潰せよ! いいな!?」
「言われるまでもねぇ」
またしても剣呑な空気を放つ土井さんに、仲間であるはずの本郷さんも怯んでおられました。少し口ごもられ、結局場を土井さんに譲り、遠藤さんを引きずっていかれました。
「ってことだからさぁ、アンタ、ちょっと俺の相手してよ? さっきの、いいパンチだったじゃん? アンタと戦り合ったら、絶対楽しいと思うんだ。
だからさぁ、遊んでよ?」
寒気のする笑顔を浮かべる土井さんは、知らない方の返事も待たずに一歩踏み出しました。
すでに彼らの距離は、お互いの腕が届く範囲内に収まっています。また、土井さんは不意打ちぎみに拳を放っており、今にも知らない方の顔に突き刺さろうとしています。
「危ないっ!」
見ていることしかできない私は、思わず声を上げていました。歪んだ笑顔に相対した彼の表情は見えず、土井さんの拳に動じないタキシードの背中に、私は焦りを覚えます。
この方が土井さんの動きに反応できていないのであれば、彼も私のように倒されてしまうと思ったからです。
「遅い」
「……あ? がっ!?」
やられてしまう! そう思って目を瞑りそうになりましたが、その後の光景に私は目を見開きました。
なんと、知らない方は土井さんの突撃をあっさりと回避し、カウンターにお腹へとパンチを叩き込んだのです。
「ぐっ……」
驚愕を顔に浮かべた土井さんはすぐに後退され、知らない方と距離を置きます。片手をお腹で押さえながら、額に脂汗をかいておられます。どうやらかなりのダメージを負ったようでした。
私はポカンとする他ありません。
知らない方は、ともすれば虫も殺せないような見た目をされており、とても荒事に慣れているようには見えません。
ですが、私から見てもかなりの速度で放った土井さんの拳をかわし、あまつさえ的確に反撃を与えてみせました。
先程から野間さん、遠藤さんからの危害を退けてくださったことを理解していても、改めて彼が暴力を振るう姿を目の当たりにし、どうしてか信じられない気持ちで一杯でした。
見た目と事実のギャップが、ここまで大きい人もいないからなのでしょうか。何故か、私は、この人の暴力を悲しく思ってしまいました。
「へ、へへっ、いい目をもってんじゃん。俺の動きに反応したやつ、久しぶりだよ」
「それはどうも。本当の喧嘩なんて初めてだから、すごいのかどうかわからないけどね」
痛そうなパンチをもらったにも関わらず、土井さんの笑顔はますます深まったように見えました。本当に喧嘩が楽しいのでしょうか。私には、理解できません。
対する知らない方も、土井さんの好戦的な態度に呆れたご様子で、素っ気ない言葉を送ります。嘆息混じりに肩を竦められておられましたから、彼もまた、土井さんの思考は理解できないと思っておられるのでしょうか?
それにしましても、本当に目の前の方は、荒事に疎いのでしょうか? 先程のカウンターなど、絶妙なタイミングで放たれていました。
全くの素人であれば、相手の威嚇や攻撃に怯んだり、逆に相手へ攻撃することに躊躇いが生まれると思うのですが、この方にはそのようなご様子は見られませんでした。
少なくとも、素手で人と争うことを経験していないと、不可能な動きでした。
ということは、私と同じく、格闘技の経験者、ということなのでしょうか? 彼の言い分からして、喧嘩はしたことがない、とのことでしたから、試合などは経験した、ともとれますしね。
「くはっ! そんだけ動けて、喧嘩が初めて? 女の子の前だからって、ぶってんじゃねぇぞ? てめぇの雰囲気は、俺と同類の臭いだ。散々人をぶん殴ってきた、ろくでなしの目じゃねぇかよぉ!」
「ぇ……?」
土井さんの思わぬ言葉に、私は彼の背中を仰ぎ見ました。
土井さんの言葉に肯定も否定もせず、特に大きく反応はしませんでした。だからこそ、土井さんの言葉が嘘か真か、私には判断できません。
もし、土井さんのいうことが真実だったのだとすれば、悪い人、ということになります。
でも、私はこの方が、土井さんのような酷い方には、どうしても思えません。
……もう、わけがわかりません。
この方は、何者なのでしょうか……?
「……はぁ。そんなこと、どうでもいいだろ?」
「あぁ!?」
「俺が過去に何をしていようが、アンタはもちろん、この子にも何の関係もない。そもそも、俺はこの子に好かれようと思って助けに来た訳じゃない。それで動揺すると思ったら、大間違いだ。
俺はただ、この子の知り合いだっていう、ぐるぐる眼鏡から頼まれたから、この子に肩入れしたんだよ。後は、そいつから聞いたアンタらのやり口が、俺が気に食わなかったから、かな?」
『っ!?』
視線が集まる中、知らない方は心底どうでもいいといった声音で、土井さんの挑発を一蹴されました。
また、ついでのように、土井さんの指摘を肯定されるかのごとく、知らない方は私にもわかるほどの強い威圧感を出されました。
声、仕草、そして恐らく、視線。何もかもが相手を刺激し、萎縮させるそれは、明確な敵意でした。いえ、もはやこれは、殺気と言い換えてもいいのかもしれません。
直接向けられた土井さんや本郷さんたちだけでなく、彼の姿を見ていただけの私まで、背筋がゾッとするほどの空気です。本郷さんや井垣さんなどは、数歩後退りされていました。
「どうした? 怖じ気づいたのか? 何なら、さっさと俺の前から消えてくれてもいいよ。そっちが何もしなけりゃ、俺はアンタらには何もしないと約束する。
信じるかどうかはそっちの勝手だけど、アンタらと違って、俺は卑怯じゃないからさ。逃げる背中を刺したりはしないし、追ったりもしないよ?」
「……っ! 舐めんなぁ!」
さらに、知らない方は煽るような台詞を口にされました。
当然、土井さんはそれを受け激昂。臆した己を叱咤するように声を張り上げ、知らない方へと再度接近します。
「おらぁ!」
小さく身を屈めながら懐に入った土井さんは、体を起こすと同時に知らない方へアッパーを振り上げます。もう喧嘩を楽しむという雰囲気はなく、純粋に相手を倒すために放たれた、怒りに満ちた攻撃でした。
「……諦めが悪いな、アンタ」
「げあっ!?」
しかし、それも知らない方には届きませんでした。
完全にアッパーの軌道を見切られていたのか、土井さんの拳は知らない方へと触れることすらできず、空を切りました。
そして、恐らくは蔑みの視線と共に、知らない方は土井さんの鳩尾へと膝を突き刺しました。
大きく咳き込まれた土井さんは、力が抜けたように膝から崩れ落ちました。
「げほっ! ごほっ!」
二度も同じ急所に攻撃を受けた土井さんは、うずくまったまま荒い息を繰り返します。あのご様子では、すぐには立ち上がれそうもないでしょう。
もはや、勝負は決しました。
「ど、土井っ!」
土井さんの敗北に大きく狼狽える本郷さんは、しかし知らない方の存在によりその場を動けません。
何故なら、知らない方から感じる恐い雰囲気は、まだ存在感を主張されているからです。
「……で? アンタらはまだやる気か? 一応忠告しとくが、俺以外にもここでの出来事は伝わってるから、もうすぐ人も来るぞ? そうなったら、アンタらはどう言い訳する気だ?」
「ちっ! クソがっ!!」
ですが、知らない方から第三者の介入を示唆され、本郷さんは大きく舌打ちしました。
「逃げるぞ! 井垣は野間を拾え! 遠藤は俺が運ぶ! 土井、動けるか!?」
「ぐ……、なんとか……」
「ならずらかるぞ!」
判断は一瞬、本郷さんはすぐに逃亡を決断され、素早く動かれました。
気絶された遠藤さんを担ぎ上げ、井垣さんには同じく気絶されている野間さんを運ぶように指示を出します。
警戒しながら知らない方の横を通りすぎる前に、土井さんにも声をかけられ、一目散に部室裏から飛び出していかれました。
知らない方は、先程の宣言通り、逃げていく本郷さんを横目で眺めるだけで、手出しをしませんでした。
「ちょっ! 本郷! 待てって!」
続けて、おっかなびっくり知らない方の横を抜けた井垣さんは、焦りつつも野間さんを背負って本郷さんを追いかけます。
「……けほっ、へへっ、今日は、負けを認めてやるよ。でも、次は、俺が勝つからな……」
「こちらとしては、次なんて一切望んでないけどね」
「……ひひっ、てめぇのツラ、覚えたからな……!」
最後に、足元をふらつかせながら立ち上がった土井さんが、知らない方へと鋭い視線を向け、本郷さんたちを追いかけていきました。
結局、知らない方は土井さんへも何もせず、彼らの逃亡する背中を見送り続けていました。
しばらくは彼らが立ち去る足音を聞き、直に静かになります。ずっと降っていた小雨が、ぬかるむ地面を打つ音だけが響き、しばしの無言が広がりました。
「ふぅ、終わったか。大丈夫、じゃなさそうだけど、平気かな?」
「え? あ、はい! ありがとうございました!」
とても気まずい沈黙を破ったのは、知らない方からでした。へたりこんだ私を気遣うように笑みを向けられた姿からは、土井さんたちへ向けていた恐い雰囲気はもう感じられません。
しかし、条件反射で体が硬直し、感謝の言葉が強ばってしまいました。彼は優しげな視線に戻っていましたが、ビクッと肩を震わせて緊張してしまいます。
「そう怖がらなくても、なんて、無理な話かな。安心して。俺もすぐにいなくなるから」
そんな私の怯えに気づいたのでしょう。知らない方は表情を変えずに、踵を返されました。
「……あ、あのっ!」
ゆっくりと歩いて立ち去ろうとする彼へ、私は思わず引き留めてしまいました。
どうしてか、彼の去り行く背中を見ていると、胸がキュッとして、呼び止めずにはいられなかったのです。
「ん? 何?」
そのまま行ってしまわれる、かとも思いましたが、知らない方は私の声に応じ、足を止めてくださいました。肩越しに振り返りながら、私を見下ろす目と視線がぶつかります。
「……きれい」
「へ?」
その瞬間、私は彼の瞳以外に意識を向けることができなくなりました。
私と視線が交差した彼の瞳が、とても綺麗な空色をされていたからです。
日本人の目の色としてはあり得ない、澄んだ青色。快晴の空を思わせるスカイブルーの瞳が、私の呟きに困惑したように揺れています。
恐らくは、カラーコンタクトの類なのでしょう。ここまで鮮やかな色合いは、他に思いつきませんから。それにしては、色合いが彼にはとても馴染んでいて、作り物のような気がしないんですけど。
私の唐突な発言に、彼は首を傾げられました。もしかしたら、私の不躾な視線に不愉快な思いを抱いておられるのかもしれません。
でも、失礼だと理解していても、私は彼の瞳から目が離せませんでした。
だって、あんなに綺麗で、キラキラしていて、安心する色を、見たことがありませんでしたから。
「……どうかした?」
じっ、としたまま動かなくなった私を不審に思ったのか、知らない方は私の前まで来てくださり、目線を合わせるために屈んでくださりました。
至近距離で見る彼の瞳は、より一層美しく感じました。さっきまで覚えていた、本郷さんたちへの恐怖や、目の前の方が発していた恐い雰囲気による恐怖も、すべて洗い流されていきます。
「おーい、もしもーし?」
「え? あっ! あのっ、え、っと!」
しかし、知らない方が私の正気を確かめるように、手のひらをヒラヒラと目の前で振られてようやく、私はボーッとしていたことに気づきました。
特に用件もないまま呼び戻してしまっていたため、私は大いに慌てます。
あ、あと、顔が近すぎると思いますっ!
「そ、そうです! 先程仰っていた、私を助けてほしいと貴方に頼んだ方って、相馬さんですか?」
「……ん~、ぐるぐる眼鏡の男のこと?」
「は、はい!」
動揺を誤魔化すように、私は彼の発言で気になったことを思いだし、尋ねました。
いきなり恐い雰囲気を醸し出されていたので、すぐには反応出来ませんでしたが、この方は確かに、相馬さんを連想させる人から、私を助けてほしいと頼まれた、と仰っていました。
「そいつが相馬ってやつかは知らないけど、漫画みたいなぐるぐる眼鏡をかけた変なやつに頼まれたのは事実だよ。最初はよくわかんなかったけど、なんか必死に頭下げられてさ、落ち着かせて話を聞いて、駆けつけたってわけ。
お礼ならそいつに言いなよ。あのまま行けば、土下座までしそうな勢いだったし、話の内容も気に入らなかったから、俺も動いたわけだしね」
改めて聞きますと、その方は相馬さんで間違い無さそうです。私の知り合いでぐるぐる眼鏡をかけた男性なんて、相馬さんくらいしかいませんから。
「そう、ですか……」
私は胸の前で手を組み、ギュッと握りしめます。胸の奥からわき上がる、温かな何かを逃さないように。
誰にも助けてもらえないと思っていたのに、私の危機に気づいてくれて、助けてくれた、愛しい人。
たとえ偶然でも、直接助けてくれたのが知らない方でも、相馬さんが私のために必死になってくれた。
それが、とても嬉しく思いました。
相馬さんを好きになった自分は、間違っていなかった。
それを、また、感じることができたのですから。
「まあ、最初は渋ったんだけどね。俺、目立つの好きじゃないからさ。その、相馬くん? にも言ったんだけど、そうしたら「じゃあ、これ着てください!」って無理矢理これを渡されたんだよ。
それからは、有無を言わさず近くの更衣室に案内されて、着替えさせられて。そのくせ自分は、足を痛めて動けないから、早く行ってくれ! ってせっつくし。見た目ひょろっちいのに、すごい強引だったよ、彼」
知らない方はタキシードのジャケットを指し、苦笑を漏らされました。なるほど、彼の服装には、そのような事情があったのですね。
衣装は一旦体育祭の運営テントに預けられ、片付けの際に返却される予定でした。もしかしたら、相馬さんは片付けられる衣装を借りたのか、すでに返却された演劇部の部室から取ってきてくださったのでしょう。
しかし、タキシードなんて着たら、逆に目立つのではないでしょうか? 相馬さん、そんなことにも気づかないほど、慌てていたのでしょうか?
……いえ、それも気になるんですけど、他にも気になることができました!
「足を痛めた、って、大丈夫なのですか!? 彼、お昼頃に足に怪我をされて、安静にしているように言われていたはずなんですけど!?」
「あ~、だからあんなに痛そうにしてたのか。まあ、これを返すのにまた相馬くんに声をかけるつもりだったから、ついでに見ておくよ」
相馬さんが動けなくなった、と聞いて焦りましたが、知らない方はタキシードを返した後で、彼の介抱もしてくれると約束してくださいました。
重ね重ね、優しい方なんだな、と思います。
「じゃ、俺はもう行くよ。友人と一緒に帰る予定だったから、待たせてるかもしれないし」
「あっ! あの! 最後にせめて、お名前だけでも教えてくださいませんか!?」
私からの疑問がもうないと判断されると、知らない方はすっと立ち上がり、帰られようとしていました。
お急ぎのご様子でしたが、私はまた、彼を引き留めました。
恩人の名前を知らないまま、お別れなんてできません。
そう思って、去ろうとする彼へ手を伸ばしました。
「言ったろ?」
しかし、返されたのは、誤魔化すような微笑みで。
「俺はただの通りすがりだよ」
「ぁ……」
あまりにも頑なな態度に、私は今度こそ何も言えなくなりました。
それだけでなく、彼の微笑みを向けられて心臓が大きく脈打ち、顔が火照っていくのを感じました。
男の方に使う表現としては間違っているかもしれませんが、とても綺麗で、美しくて、まるで彼の瞳の色に通じる安心感を覚えたのです。
同時に、私の心臓はうるさく脈動し、彼へと視線が釘付けになっていました。
この感覚は、身に覚えがあります。
だからこそ、私は大いに混乱してしまいました。
だって、これは、この感覚は……。
相馬さんに抱いた感情と、全く同じだったのですから……!
「じゃあね、凛ちゃん。次からは、ああいう輩には気をつけなよ? それと、俺のことは秘密にしといてね。できれば、でいいからさ」
「は、い……」
熱に浮かされたような感覚に溺れそうになりながら、私は彼の立ち去る姿を呆然と見送りました。
高鳴る心臓を抑えようとしますが、名前も知らない彼の瞳と笑顔を思い浮かべてしまう度、さらに顔が熱くなってしまって、上手くいきません。
「あ、貴女、大丈夫!?」
どれ程そうしていたでしょうか?
いつの間にか雨も止み、気がつけば保健室の先生が目の前にいました。
他にも数名の生徒や先生が、私を心配そうに気遣ってくれます。相馬さんが事情を話し、駆けつけてくれた方々でしょう。
私はぼんやりとした頭のまま、皆さんからの心配の声にお答えし、保健室の先生に付き添われながらその場を後にしました。
ずっと、名も知らぬ彼の笑顔に、思いを馳せたまま。
何か格好つけた新キャラが出ました。凛ちゃんの貞操は守れましたが、ついでに心を奪っちゃった、のかも?
作者的には、ちゃんと上手く書けてるのか、心配になった話しでもありました。フィーリングで書いてきましたから、ようやく迷いが生まれた、って感じですかね。
次回は一章のエピローグです。なるべく早く更新しますので、よろしくお願いします。




