凛の二十二 体育祭 ~昼休み その二~
凛ちゃん視点です。
あまりに突然すぎた出来事に、私は固まってしまいましたが、それも一瞬です。
「博士っ!」
「相馬氏、無事かっ!?」
すぐに上の階から、二人の男子生徒が降りてこられました。
相馬さんと仲のよい、階堂さんと春さんです。倒れこんだ相馬さんの傍でしゃがみこみ、容態を確認しています。
「……っ! どなたか、保健室の先生を呼んできてください! それと、相馬さんをなるべく動かさないで!」
『っ!?』
ようやく我を取り戻した私は、まず大人を頼ることを思い至りました。私は直接相馬さんが落ちた瞬間を見たわけでもなければ、医療知識が豊富というわけでもありません。
ですが、相馬さんの状態がわからないまま、下手に移動させれば症状が悪化するかもしれない、ということくらいはわかります。
状況からして、階段の踊り場から転落したと考えられます。最悪、頭部を強く打っていた可能性もあり、迂闊に体を動かせば相馬さんへ悪影響があるかもしれません。
それを危惧した私の声に反応し、階堂さんと春さんは相馬さんへ伸ばしかけた手を止めました。
「な、なら私がっ!」
「お願いしますっ!」
少し遅れて、長谷部さんが先生を呼びに走っていってくださいました。一年生の教室がある場所と、保健室のある場所はかなり近いところにあります。
体育祭の競技中は、保健室の先生は運営委員のテントで待機していましたが、昼休み中は保健室に戻ってきていました。席を外すなどよほど運がない限り、すぐに連れてこれるはずです。
「相馬さんっ!」
徐々に集まる人ごみをかき分け、私も相馬さんの傍へ近寄ります。階堂さんと春さんがいない場所にしゃがみ、相馬さんの体に触らないように顔を覗き込みます。
「うぅぅ……」
すると、痛みに顔を歪めて、相馬さんが呻き声をあげました。額に脂汗がびっしりと浮かび、丸めた体を細かく震わせています。
どうやら、相馬さんに意識はあるようです。こぶなども見当たりませんし、頭を強打した様子はないようで、とりあえずは安心しました。
が、階段から落ちたことは事実。頭は無事でも、他にどこか強くぶつけたところがあるかもしれません。相馬さんのご様子も、到底無事とは程遠い状態ですからね。
「連れてきたよ!」
「通してください!」
少しして、人垣の外側から長谷部さんと、もう一人の女性の声が届きました。
さっと割れた人垣から、長谷部さんと保健室の先生の姿が見えました。言葉を交わさずとも、私、階堂さん、春さんも相馬さんから一歩離れ、先生に診察を促します。
「ちょっとごめんね」
先生は素早く相馬さんの体を触診し、反応を窺います。時折相馬さんは痛そうに喉を鳴らし、表情を苦しげに歪めていらっしゃいます。
「うあぁっ!!?」
「……これは」
そして、先生が相馬さんの足に触れた瞬間、一際大きな声が発せられました。先生も難しい顔をなされ、相馬さんが一番強く反応した右足首を見つめています。
「先生、博士は大丈夫なのかよ!?」
一通り見終わった先生に、まず階堂さんが詰め寄りました。よほど心配なのか、今にも先生に掴みかからんばかりの勢いでした。
「落ち着いて。とりあえず、大きな怪我はほとんどなかったわ。あそこから落ちたらしいから仕方ないけど、全身にある打ち身が主な怪我ね。でも、一つ一つは大したことがないから、一日経てばアザがあっても消えるでしょう。
ただ、一ヶ所だけ問題があるわ」
前半の説明で私たちに安堵の空気が流れましたが、続く先生の言葉に、それも吹き飛びます。
「相馬くん、だったわね? この子の右足首だけは他よりも酷いわ。腫れも酷いし、皮膚も変色してるから、かなり強い衝撃を受けたようね。
でも、ここだけ不自然に状態が悪いんだけど、誰かわかる?」
「……原因は、あれだ」
先生の疑問に答えたのは、春さんでした。階堂さんよりも幾分は冷静に、あれ、と称したものを指差します。
そこには、横倒しになった椅子が一脚、廊下に放置されていました。
「あれは相馬氏が使用している椅子なのだが、落下の際咄嗟に手放しているのを確認した。相馬氏は身を守るために頭を押さえて、体を丸めて階段を落ち、ダメージを軽減させようとしていた。
しかし、相馬氏本人が落ちきった後で、手放した椅子が遅れて階段を落ちていき、不運にも相馬氏の足に直撃したのだ。足首の負傷が酷いのは、そのせいだろう」
「それ、俺も見てた」
「私も」
春さんの話を証明するかのように、周りに集まった生徒の何人かが、同様の光景を目にしたと証言しました。足首の怪我が他より酷いのは、それが原因で間違いなさそうです。
「なるほどね。ありがとう。
……でも、あそこから落ちた椅子にぶつかったにしては、見た目ほど怪我は悪くはないわね。それに関しては、不幸中の幸いだったのかしら?」
皆さんの話を聞いた先生は、再び相馬さんの足首を見て何度か頷きながら独り言をこぼし、立ち上がると周囲を見渡しました。
「この子と同じクラスの子は? それと、午後の競技で一緒になる予定だった子はいる?」
「俺と春は同じクラスだけど……」
「あ、私は『部活対抗リレー』で一緒に走る予定でした」
先生からの指示を待っていた私たちでしたが、思っていたものとは違う言葉で、少し戸惑いました。
先生の意図がわからないまま、最初に階堂さんが、次に私が名乗りを上げて一歩前へ出ました。
「そう。じゃあ担任の先生や顧問の先生に伝えてきて欲しいの。相馬くんは午後の競技には出場できない、って」
「え……」
先生の言葉を聞き、私は呆然としてしまいました。
「それって……」
「相馬氏の怪我は、そこまで深刻なのか?」
階堂さんと春さんも、動揺を隠しきれないご様子でした。床に転がったままの相馬さんは、苦しげに足を押さえているままです。
先生の言葉と合わさり、嫌な予想ばかりが私たちによぎります。
「ああ、勘違いしないで。別に救急車を呼ぶとか、大事にはなっていないから」
私たちの態度を見た先生は、宥めるように笑顔を浮かべられました。
「でも、今無理をすれば、足の状態が悪化するのは、みんなにもわかるでしょ? 怪我もそうだけど、軽い捻挫もしてるみたいなの。こっちは、落ちてる間に捻ったみたいね。
どっちみち、この子はこれ以上競技に参加することはできないわ。放課後まで足首を冷やして、安静にさせるから、そのことを伝えてきて欲しいだけ。わかった?」
『……はい』
諭すような先生の説明に、私たちは首を縦に振るしかできませんでした。
大した怪我はないとはいえ、階段から落ちてしまったのです。予想はしていましたが、先生の判断で競技の続行は不可能とされたのでしょう。
確かに、無理に出場させて怪我を悪化させるのは、私とて本意ではありません。ここは素直に従うべきなのでしょう。
でも、それでも。
一緒に練習してきた相馬さんが、このような形で体育祭を終えられるのは、寂しいです。
「じゃあ、よろしくね。あ、そこの君たちは、この子を運ぶのを手伝ってくれない?」
そうして、先生は相馬さんを保健室に運ぶため、野次馬だった生徒を数人捕まえて立ち去られました。相馬さんも、両肩を支えられながら立たされ、先生の背中を追っていきます。
「……ちっ、しゃあねぇ。俺らは担任にこのことを話してくる。柏木嬢も、『部活対抗リレー』でメンバー変更しなきゃなんねぇだろうから、早く行った方がいいぞ。じゃあな」
「そうだな、時間もない。拙者らはこれにて」
騒ぎの中心である相馬さんが移動され、野次馬たちも散っていきます。
階堂さんは一度腕時計で時間を確認し、私に声をかけてからすぐに歩き出しました。後を追うように春さんもお辞儀を残して去っていきます。
「とりあえず、先輩たちと合流して、このことを説明しなきゃね。悪いけど、立川くんは先行ってて。ついでに、担任に何か言われた時の説明もよろしく」
「めんどくせぇ~。けど、んなことも言ってられねぇか。ま、事情くらいは説明しとく。さっさと行ってきな」
「助かります。長谷部さん、行きましょう」
私たちも、そのまま立ち尽くしていては始まりません。林先生への説明を立川さんに任せ、私と長谷部さんはまずミィコ部長のクラスを目指しました。
残念ながら、私と長谷部さんはまだ演劇部の顧問だという先生とお会いしたことはありません。なので、部活動で生じた問題を相談するのは、必然的に部長になってしまいます。
それまでは特に大きな問題は生じなかったのですが、今回はことがことです。顧問の先生に相談することになりそうでしたが、私たちが最初に頼る先はミィコ部長しか思い浮かびませんでした。
「……と、言うことらしいの」
ミィコ部長と合流した私たちは、校舎とグラウンドの境目辺りの場所に集まっていました。事情を説明すると、ミィコ部長はすぐに部員の皆さんへ声をかけられ、こうして相談の場が設けられました。
「……ふぅん」
「それは、大変ですね」
「ちっ! レンマは確かに抜けてる奴だが、事故かどうか怪しいもんだな」
ミィコ部長の説明で真っ先に反応したのは、男性陣でした。ターヤ先輩は顎に手を添えて目を閉じ、お兄様は少し驚きの表情を見せ、キョウジ先輩は大きな舌打ちをしてから眉間に皺を寄せています。
「レンマ君の怪我は? 大丈夫なの?」
「先生が言うには、心配はないと。ただ、ミィコ部長も仰ったように、競技には出場させられない、とのことでした」
「そっか~。大怪我じゃなくて~、よかったね~」
相馬さんを心配されるトーラ先輩にいつもの元気はなく、そわそわとされておられました。トーラ先輩の疑問に答えた私に相づちを打ったミト先輩も、口調こそ普段通りですが、少しピリピリとした空気を発しておられました。
「カリンとハーリーは一部始終を見てたわけじゃないから、はっきりとは言えないけど、誰かが故意にやった、ってこと? キョウジ?」
「それ以外ねぇだろ。仮にも演劇部と二ヶ月一緒だったんだぞ? 元がどんだけトロかったっつっても、不注意で足踏み外すような練習はしてねぇよ」
「……アンタが言うと説得力があるのかないのか、わかんないね」
トウコ先輩はキョウジ先輩と話をしておられます。漏れ聞く内容の限りでは、私もトウコ先輩に賛成です。最近の練習の質でも量でも、相馬さんが突然倒れてしまいそうな不安はありました。
もしかして、キョウジ先輩とのスパーリングが原因では? という考えも捨てきれません。毎回倒れられ、ボロボロになる相馬さんの姿を見れば、誰でもそちらを懸念すると思われます。
「まあ、今はレンマ君のことは後回しでいいだろう。怪我そのものが大したことがないのなら、いずれ元気な姿を見せてくれるだろうしね。
問題は、『部活対抗リレー』の配置変更だ」
相馬さんの怪我で意識をとられた私たちを軌道修正したのは、ターヤ先輩でした。パンパン、と手を叩かれ私たちの視線を集めますと、ミィコ部長へ視線を送ります。
「ターヤの言う通り、もう昼休みの時間もないし、走者の組み合わせと順番に変更があるなら、さっさと先生たちに報告しなきゃなんないからね」
発言権のバトンを受け取ったミィコ部長は、一瞬私と目を合わせ、また別の人物へと移動させました。
「そういうわけだから、オウジ君。カリンちゃんとアンカーってことで、問題ないわね?」
「はい。大丈夫です」
私のパートナーとして指名を受けたのは、やはりと言うべきか、お兄様でした。
私としてはあまり乗り気ではないのですが、ミィコ部長から事前に説明されていたため、納得せざるを得ません。
こと『部活対抗リレー』において、相馬さんを除けば、私のパートナーにもっとも相応しい方は、あらゆる面でお兄様しかあり得ないのですから。
一方、突然指名を受けたにも関わらず、お兄様はミィコ部長にすぐさま返事をしておられました。ほとんど間をおかず、食いぎみな返事にミィコ部長もため息を吐かれました。
……私と走ることがそんなに嬉しいのか、感情を抑えきれていない表情なのが気になります。まるで、相馬さんの事故を歓迎しているような雰囲気を覚え、心がざわつくのを感じました。
「いきなりだけど、彼が怪我をしてしまったのだから、仕方がないよ。カリン、一緒にがんばろうね?」
「……はい、オウジ先輩」
私は社交辞令用の笑顔を貼りつけ、お兄様へ軽く頷きます。いつもならば、『オウジ先輩』呼びに落ち込む様子を見せられるお兄様でしたが、それにさえ気づかぬご様子で満面の笑顔でした。
「じゃあ、本番用の衣装も若干変更するから、トーラちゃんはちょっと付き合ってね。ターヤは私の代わりに、出場メンバーの変更を申請してきてくれない?」
「うん、わかった……」
「こっちは任せてくれ。早く行った方がいい」
「ありがと。じゃ、次は『部活対抗リレー』でね」
ミィコ部長はトーラ先輩と共に部室へと走り、ターヤ先輩も運営委員のいるテントへと向かわれました。
ミィコ部長の仰った衣装とは、競技中に着る演劇衣装のことです。部活が分かりやすいようなコスチュームというドレスコードがある競技なので、演劇部では衣装を着ることになっていました。
事前に私たちは、意外と豊富だった衣装からミィコ部長の独断で選ばれた衣装を着付け、リレーの練習をしました。お兄様が抜けて二人三脚となったため、ミィコ部長は新たにトーラ先輩と走るための衣装を選びに行ったのでしょう。
三年生のお二人がいなくなり、自然と解散の流れになりました。
「それじゃあカリン、また後でね?」
「はい」
お兄様を含む、二年生の先輩ともお別れし、私とハーリーさんは自分のクラスの待機場所まで戻りました。
ふと、私は駆け足で待機場所へと戻る最中、頭上を仰ぎ見ました。
朝から良いとは言えなかった天候でしたが、今は灰色の雲が多く重なるようになっていました。予報では午後の通り雨が指摘されていましたが、今から降りだしてもおかしくありません。
楽しい気分が吹き飛んだ私は、目をそらすように視線を前へと戻し、一年三組の皆さんと合流しました。
新パートナーはシスコンです。とりあえず、蓮くんは怪我で体育祭を強制退場させられました。
蓮くん、凛ちゃんの初めての共同作業を期待されていた方、申し訳ありません。




