凛の十七 私の願い
凛ちゃん視点です。
思わぬイベントにより私の頭が熱暴走を起こし、一週間が経過しました。
「行くよ、カリンさん」
「はいっ!」
私は今、相馬さんと二人三脚の練習を行っております。組分けが決まってから数日は嬉しさと恥ずかしさで何もできませんでしたが、時間が経つにつれて落ち着きを取り戻すことができました。
「いち、に。いち、に。いち、に。いち、に」
相馬さんの号令で、私は隣の男の子の横顔を覗きながら、彼の歩幅に合わせて足を動かします。
初日は相馬さんと練習できた記憶がなく、二日目は何とか意識を保っていましたが、平時ではあり得ないほど取り乱してしまいました。
相馬さんへの恋心を自覚するまでは全く気にならなかったのですが、好きな方との肉体的接触は、非常に緊張します。心臓なんてバクバクです。
相馬さんと体を密着させて、かつ思いっきり肩を抱かれると、途端に体が硬直し、全身が強い熱を発するようになっていました。
何だか大人の階段を昇ったような、いけないことをしているような気持ちにもなりましたが、それ以上に今まで感じたことのない多幸感と充足感が脳を支配しました。
意味合いはちょっと違うかもしれませんが、好きな人に抱かれる幸せを、私は初めて知ったのです。
……ただ、今まで経験したことがないほどの、内から溢れ出た膨大な幸福感に、一週間前の私自身が堪えられませんでした。
生まれた感情とどのように向き合えばいいのか、どのように受け止めればいいのか、未知の経験に私は戸惑うばかりで、赤面することしか出来ませんでした。
頭の中は相馬さんの姿、声、体温、感触を記憶に刻み付けようとすることに夢中で、対話に必要な思考は働いてくれません。
ただただボーッと、相馬さんが真横にいるという事実を噛みしめ、文字通り熱に浮かされていたのです。
「いち、に。いち、に。いち、に。いち、に」
もちろん、呆けているだけではダメだとは思っていました。これは私と相馬さんという個人間のコミュニケーションではなく、体育祭の競技の練習ですから。
本来の目的は相馬さんに、ぎゅっ、ってしてもらうことではなく、二人三脚で走れるようになることです。
相馬さんが頑張ろうとしていますのに、私が足を引っ張るわけには参りません!!
と、いうわけで練習の三日目からは、気合いを入れて臨みました。今までお話ができなかったブランクを一旦忘れ、私情を切り捨て湧き上がる感情を制御しようとしました。
そうした精神面での努力の甲斐あり、何とか相馬さんと密着した状態でも平常心を保てるようになりました。……それでも丸一日かかりましたけどね。
もしかしなくても、私にとって相馬さんは、大好きな人であると同時に弱点でもあるのでしょう。簡単だと思っていた平常心の維持が、この上ない至難だと思ったのは初めてでしたし。
それに、私かできたのはあくまで平静を装うことだけで、実は心の中はまだドキドキを抑えきれていません。体面を整えているだけで、相馬さんへの気持ちを無視することなんて、私にはできませんでした。
なので、少しでも油断すると私はすぐに赤面してしまうでしょう。相馬さんのご迷惑になりたくはありませんので、全力で理性を働かせて抑制しているところです。
「いち、に。いち、に。い、っち、わっ!」
一生懸命なご様子の相馬さんの横顔にほっこりしていましたが、突如バランスを崩されて体勢が傾きました。足を紐で結んでいますから、自然と私の体も引っ張られてしまいます。
「きゃっ!」
思わず声が出てしまいましたが、私は咄嗟にその場に踏ん張って転倒を避けました。
しかし、隣の相馬さんは勢いを殺しきれずに、そのまま前へと転んでしまわれました。
「だ、大丈夫ですか? レンマさん?」
「あ、あはは、大丈夫、大丈夫。もう慣れっこだよ」
結構勢いが出て転んだにも関わらず、相馬さんは言葉通りに平気そうな顔で立ち上がられました。膝を擦りむいていらっしゃったようですが、気にした様子はありません。
相馬さんは自他ともに認める運動音痴だとのことでしたが、それにしては我慢強い方だなと思います。
確かに、今までの練習でも相馬さんばかりが体勢を崩され、転倒しておられました。その時に体から倒れられますので、足や腕にできた擦過傷は一つや二つではありません。
私が思うに、運動を苦手とされている方々は、体を動かして生じる失敗という結果や、それに伴って生じる怪我を嫌っている傾向が強いように思われます。
失敗はわかっていても恥ずかしいものですし、周りの人から冷やかされるのも不快でしょう。それに、怪我をすれば痛いですし、馬鹿にされること以上に不快になります。
元々の運動神経やセンスがない、という場合もございますが、運動が苦手な方はそれで運動を諦める場合が多いと思われます。恥ずかしかったり嫌な思いをするなら、やらない方がいいという思考に落ち着くのでしょうね。
それが私の考えだったのですが、相馬さんにはそのどちらもありません。失敗は失敗と割りきって直そうと努力しておられますし、怪我を恐れているわけでもなさそうです。
もしかしたら、最近始められたキョウジ先輩とのスパーリングが功を奏しているのかもしれません。こう、痛みなどに度胸が生まれたと言いますか、精神的にも打たれ強くなっているのではないでしょうか?
……あれ? しかし、思い返せば相馬さんは最初から運動のきつい演劇部に入部され、自主退部などもされていませんよね? 普通はギブアップしてもおかしくない厳しさですのに。
とすると、我慢強さという点では、相馬さん生来の気質なのでしょうか? でしたら運動音痴もまた、生まれもってのものかもしれません。
私の予想が本当ならば、相馬さんは素晴らしい人ですね。自分の苦手から逃げずに、立ち向かう勇気と根性を持っているのですから。
また一つ、相馬さんの素敵な一面に触れることができた気がいたします。ますます、私は相馬さんのことを好きになっちゃいそうです。
「よし、もう一回やろうか」
「はいっ!」
すぐに立ち上がられた相馬さんが、笑顔を交えて再開を促しました。私はそれに、笑顔でお応えします。
相馬さんの走る速さは、お世辞にも速いとは言えません。全力らしい速度でも、私ならば簡単に追い抜けるほどでしょう。
それに、格好良くもありません。走るフォームはドタバタしておられ、小さな地面の凹凸にも足をとられて転倒してしまわれます。
そのせいで、相馬さんは練習が終わればいつも傷だらけの砂まみれとなってしまわれます。リレーの練習中はグラウンドに出ていますから仕方ありませんけど、すっごくボロボロの姿となっています。
他の方は相馬さんの姿を見て笑うかもしれません。格好悪いと、みじめだと、情けないと馬鹿にされるかも知れません。
……というか、実際に馬鹿にされているところも見たことがあります。大抵、私たちと同じ中学校出身の同級生の方々で、相馬さんへいい印象を持たれていないのでしょう。
しかし、私はそうは思いません。
誰がどのように相馬さんを評価されたとしても、私は相馬さんをとても格好良い方だと思います。
自分が苦手とすることでも直向きに努力し、前へ進もうとする姿はとても好感が持てます。
相馬さんはすぐにできるようにはなりません。失敗して弱音を吐くこともあれば、一向に上手にならなくてうんうんと悩むこともあります。
でも、相馬さんはいつでも前を見ていらっしゃいます。足を止めても、回り道をしても、少しずつでも進もうとされる気概を持っておられます。
それが、私にはとても眩しく、尊いものに映るのです。知らず、私もまた頑張ろう、もう少しだけ、頑張ってみよう、という気にさせてくれるのです。
「はぁ、はぁ、か、カリンさん、大丈夫? しんどくない?」
「私は大丈夫です。私よりも、相馬さんの方がお疲れではありませんか? 少し休憩されますか?」
「だ、大丈夫だよ! ほら、僕は、元気だよ! だから、もう少し、がんばろうね!」
「……はいっ!」
練習を再開してしばらく、相馬さんからお気遣いの言葉をいただきました。ご自身の方が疲労されているのは明らかですのに、先に私のことを気にかけてくださるお心遣いに、また胸が熱くなってきます。
頑張っている相馬さんが好きです。優しい相馬さんが好きです。私を励ましてくれる相馬さんが好きです。
短い間でも、たくさんの『好き』に気づかせてくれる男の子が、私の隣にいてくれる。こんな素敵なことは、他にありません。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
「…………」
でも、私は同時に心配でもあります。
相馬さんは少し、いえ、とても、頑張りすぎてしまうことがあります。
それに、私に対して見せてくださる優しさを、ご自身の体には向けられていないように見受けられます。
恐らく、相馬さんはご自身よりも周囲を優先して、無理をしすぎてしまう方なのかもしれません。自覚されているかどうかまではわかりませんが、少なくとも私からはそのような傾向が窺えました。
それは相馬さんの美徳でもあり、欠点でもあります。
周りの機微を察し、期待に応えるために努力することは素晴らしいと思います。
でも、相馬さんの頑張る姿は際限がなく、無理をしすぎて体を壊してしまわれるのではないか、と思ってしまうのです。
自己犠牲の精神、なのでしょうか? それとも、相馬さんはご自身を大切だと思っていないのでしょうか?
いずれにせよ、それに類する感情をご自身に抱いておられるのであれば、私はすごく悲しくなります。
貴方を大切に思っている人がいるのです。
貴方を素晴らしいと思っている人がいるのです。
そんな貴方を、貴方自身が傷つけようとする姿なんて、貴方を慕う人は誰も見たくないのです。
当然、私も。
まるで自傷行為にも見える相馬さんの無茶を、喜べるはずがありません。
傍にいたい。
私が貴方の近くで寄り添いたいと想う以上に、
貴方が貴方を壊してしまわないように、
貴方が貴方を好きになって、大事にしてくれるように、
私は……、私が……、
貴方のことを、守りたい。
私は、そう思います。
「……相馬さん、少し休憩しませんか? ちょっと、疲れてしまって……」
「へ? そ、そう? じゃ、やすも、っか……」
少し弾む程度の息を整え、私はすっかり呼吸が荒くなってしまった相馬さんへ休憩を申し出ました。
相馬さん。
貴方が無茶をするのなら、私が無茶をさせません。
貴方から向けられた優しさの分、私は貴方への優しさを返します。
貴方が自身を大事にしてくださるまで、私が貴方を支えます。
だから、どうか……、
「ふひぃ~……、し、しんどい……」
どうか、ご自愛ください。
お願いですから……。
「凛! やっぱり『部活対抗リレー』は僕とやるべきだよ! あのレンマとかいう一年生は、凛の足を引っ張って転んでばかりだったじゃないか!! あんな無様な奴じゃ、いつか巻き添えに凛まで怪我をしてしまうよ!!
僕ならあんな醜態は晒さないし、凛を危険な目にも遭わせないよ! だから、明日こそ僕と一緒に部長に掛け合って、リレーの組を変えてもらおう、ね? そうしよう!!」
「余計なお世話です、柏木先輩」
「ゴファ!!?」
部活動が終わり、帰り際の車内では毎日のようにお兄様の戯れ言を聞かされていました。私はいつものように、いえ、いつも以上に厳しい態度で突っぱねました。
相馬さんを貶める言動は、たとえ家族であっても許容できません。
私は胸を押さえて項垂れているお兄様を横目で見て、とても小さくため息を吐きました。
……どうか、これ以上私を幻滅させないでください。これ以上私に、お兄様を嫌わせないでください。これ以上私に、血の繋がった家族を嫌悪させないでください。
……本当に、お願いですから。
蓮くんのことを真剣に考えて、とっても心配な凛ちゃんでした。考え事をしながらも二人三脚はできているので、蓮くん形無しですね。
シスコン兄さんは、順調に好感度を下げています。家族愛と生理的嫌悪を天秤にかけられ、まだ家族愛に比重が高めですね。お兄さん、挽回できるか?
最後に、蓮くんがヒロインっぽい扱いなのはわざとです。何か書いてる内に、本当にヒロインじゃね? と思うようになってきました。




