凛の十四 深みにはまっています
凛ちゃん視点です。
テストは何事もなく無事終了し、演劇部の活動が再開されました。ほんの一週間程度しか休んでいませんでしたが、ずいぶんと部活動から離れていたような、奇妙な感じが致しました。
そうして訪れたテスト明け最初の部活動。今日も今日とてお兄様を伴って部室に赴いたのですが、少し変わった光景を目の当たりにしました。
「あの~、やっぱりよく考えたら、僕には演技の練習ってまだ早いんじゃないかな~? とか思うんですけど?」
「んなことねぇよ。思い立ったが吉日っていうだろ? 自分からやりたいと思ったその時は、もう準備できてるもんなんだよ」
「え、えぇ~……?」
先に数名の部員の方がすでに集まっておられたのですが、相馬さんとキョウジ先輩がとても親しげに会話をされていたのを発見したのです。
決して仲が悪かったということはありませんでしたが、以前にはなかったお二人の間にある距離の近さを感じます。先輩後輩から、どこか兄弟のような親密さが窺えるのです。
私がいない間に親交を深められた、ということなのでしょうか? 相馬さんは親しみやすい方ですし、さほど不自然なことではないように思われます。
「…………」
が、親しみの方向性は違いますが、相馬さんと気軽に接するキョウジ先輩に、私は少なからず嫉妬の念を抱いてしまいました。
私は監視の目があるため、積極的に対人行動に移せません。対象が異性であるというだけで、軽率な言動がすべて、その方への迷惑となってしまう可能性があるのですから。
それをより強く自覚したのは、一週間前の相馬さんが提案した勉強会が行われた日の夜のことでした。
段々と息苦しさを覚えるようになってしまった夕食から席を外し、私はテスト勉強の続きをするために自室へと戻ったのでした。
その時に、何故か使用人の橘さんが私の背中を追いかけてきたのです。
「凛お嬢様」
「し……、橘さん? どうされました?」
咄嗟に口から出かかったのは、心の中で呼んでいた師匠という言葉でした。
私のコミュニケーションの師匠であるため、間違いではないでしょう。しかし、面と向かって橘さんに師匠と呼んだことはありませんし、余計な混乱を招くと思い、訂正しました。
きちんと誤魔化せたでしょうか?
「最近ご気分が優れないご様子ですが、お体の方は大丈夫なのでしょうか? 私はもちろん、奥様や使用人一同、とても心配しております」
頭の隅で余計なことを考えつつ、橘さんからいただいた言葉に私は驚きました。
……確かに、色々と考えさせられる出来事が増えたこともあり、以前と比べれば多忙となった、とは思います。日々がとても短く感じ、休める時間は大幅に削られました。
他にも、お母様との約束もあり、勉学を疎かにできませんから、机に向かう時間は増えました。加えて、中学校では経験していなかった部活動への参加も、肉体的な負担となっています。運動部に近い運動量をほぼ毎日行っていますから、疲労は蓄積しているでしょう。
ご指摘を受けるまでは本当に自覚がなかったのですが、私は皆さんにもわかってしまうほどの疲れを顔に出していたのかもしれません。
皆さんにご心配をお掛けしてしまうなど、迂闊でした。これからは体調管理もしっかりと行っていかなければいけませんね。
「……ありがとうございます。私に自覚はなかったのですが、ご心配をお掛けしてしまったようですね。
もしかしたら、まだ新しい学生生活に慣れていないからかもしれません。部活動といった、新しいことにも挑戦してますから、見えない疲労がたまっているのでしょう。
今の生活サイクルに順応すれば、もしかしたら顔色もよくなるかもしれません。今のところは大きな不調もありませんから、平気ですよ」
無用な心配をかけてしまった、という申し訳なさを込めて本心からの気持ちをお伝えしましたが、橘さんはあまり納得されたご様子ではありませんでした。表情から心配の色は消えず、どこか物申したそうに私を見つめてこられます。
ですが、私の体調についてすぐには追求されませんでしたので、怪訝に思いつつも自室への歩みを進めます。足音は二つ分ありましたから、橘さんもついてきているのは承知していました。
「お嬢様」
「はい?」
結局、一言も会話のないまま自室に到着し、勉強に戻ろうとしたところ、再び橘さんからお声をかけられました。
不調を疑われた私が言うのもなんですが、今日は橘さんのご様子が変ですね? などと思いながら振り返りますと、橘さんは神妙な表情で口を開かれました。
「どのようなことがあっても、私を含めた使用人はお嬢様の味方です。あまりご自身で抱え込まれる前に、私たちをもっと頼ってくださってもいいのですよ?」
そして、私は橘さんの台詞を聞いて、笑顔を崩さないことしか考えられませんでした。
「……ありがとうございます」
少し返答に間が生じてしまいましたが、何とか橘さんへの感謝を伝え、私は逃げるように部屋へと入っていきました。
「……そう、ですね。日々の疲れで、私も頭が鈍っていたのかもしれません」
一人部屋の中で小さく呟き、私は今になって重要なことに気がつきました。それは、普段の私ならすぐに気がついたことであり、これまでずっと思い至らなかったことでした。
「考えてみれば、使用人の皆さんの雇用主はお父様なんですよね……」
皆さんは橘さんを筆頭に、普段から私にとてもよくしてくださいます。家族同然だと思っていたのは、彼ら彼女らがとても優しく、親切な方たちばかりであったからです。
しかし、それはあくまで仕事の範囲内であったためでしょう。使用人さんにとって、私は『特別な個人』ではなく、単なる『雇用主の娘』であり、職業的に私には気を遣わねばいけない立場にあっただけ、ということです。
そして、当然ながら私は彼らとは本来上下関係もなければ、ともすれば直接的な関係性すらありません。雇用主であるお父様を媒介とした、親しさとは無縁の人間関係でしかないのです。
使用人さんからすれば、直接の雇い主であるお父様の指示には従わなければなりません。私のように愛想もなければ可愛げもない小娘など、相手をするのも一苦労だったでしょう。
それでも気をかけてくださっていたのは、彼ら自身の意思ではなく、お父様の指示があったと考えるのが自然です。
「いくらよくしてくださる方々とはいえ、あまり踏み込んだ内容を使用人さんにご相談するのは、これからは避けた方が良さそうですね」
もしも、油断した私がつい使用人さんに相馬さんなどの話をしてしまった場合、その話はどうしても雇用主であるお父様へと伝わるのは自然の流れです。
いくら私が『誰にも話してはいけない』などと前置いて懇願したとしても、それは私と使用人さんの間で交わされただけの些細な口約束にすぎず、法的拘束力はどこにも存在しません。
お父様が私の近況を探ろうと、使用人の皆さんにお話を窺った場合、使用人さんはそれを拒むことはできません。下手に反抗すれば減俸や解雇を迫られることもあるでしょう。
高給な職場と、ただの女子高生でしかない私からの信頼を天秤にかければ、誰しも己の生活を選択するに違いありません。私を裏切ったとしても、有益な情報を得たとして雇用主からの評価は上がるのですから、逆に私が抱いた信頼を利用して評価を上げたい、と考えるでしょう。
つまり、使用人さんへ相談した内容は筒抜けとなり、お父様に伝わる可能性が非常に高かったのです。これから私は、お父様やお兄様だけではなく、使用人の方々の目にも気を配らねばなりません。
幸いにも、今までの言動を思い返してみますと、使用人さんの前で致命的な台詞は口に出していません。まだ、相馬さんの存在はお父様には知られていないはずです。それだけは救いと言えるでしょう。
「……はぁ」
懸念事項が増えてしまったことに、私は大きなため息を漏らしてしまいました。誰にも相談できず、一人で抱え込まねばならない状況ですからそれくらいは許してください。
こうなると、お母様へのご相談も厳しくなってきます。お母様個人は口の固いお方ですし、私の味方であることは間違いありませんが、何せ私よりも多忙な方でいらっしゃいます。
家族とはいえ、私的にアポイントメントを取ろうとすれば、事前にお母様のタイムスケジュールをご存じの使用人さんに話を通す必要があります。お母様の自由時間とは、それほど確保困難な貴重なものですからね。
これまではたまにお母様が私の部屋へ直接来てくださり、母子二人だけの空間でお話ししていましたから、使用人さんを気にすることはありませんでした。
私からお会いするとなると、どうしても使用人さんを仲介せねばならず、私たちの会話を聞かれるかもしれません。私に独立した連絡手段がない以上、お母様への相談も難しくなってきます。
よって、私は文字通りの四面楚歌、孤軍奮闘を余儀なくされているといっても過言ではありません。
「…………はぁ」
早期の段階でその事実に気づけたのは、行幸と言えるでしょう。
が、私のため息だけは、消えることはありませんでした。
と、いったことがあり、私の警戒心はより強くなっています。送迎の際、運転手をしてくださる使用人さんもいらっしゃいますから、車内でも発言には気を付けるようになりました。
それに伴い、私が自覚する心身の疲弊も進んでいったように思えます。思った以上に窮屈な生活は、少しのことでも私の感情を刺激し、苛立ちが生じやすくなっています。
キョウジ先輩への嫉妬も、本来ならば見当違いも甚だしいことは十分承知していますが、理性と感情は別です。湧き上がる情動を完全に抑え込むことはできそうもありません。
「じゃ、今日はターヤと私とカリンちゃんでやってみようか? オウジ君はミトちゃんとトーラちゃんとでやってね? 台本はこれだから、よろしく!」
基本セットが終わり、相馬さんがキョウジ先輩に引きずられる姿を尻目に、今日の練習内容が発表されました。
トウコ先輩はハーリーさんと練習するようで、すでに台本を受け取って私たちから離れていました。
「本当ですか!?」
「え!? ど、どうしてですか!!?」
それはさておき。
ミィコ部長の発表により、私とお兄様とでは反応が正反対となりました。私は最近とんと出せなくなった喜びをにじませ、オウジ先輩は驚愕と困惑をない交ぜにした顔で、ミィコ部長に詰め寄ります。
「二人とも、そろそろ演技そのものにも慣れたでしょ? だったら他の人とも組んで、人数を増やした練習をやってもいいかな? って思ってさ。いきなりは人数を増やすのもアレだし、まずは三人ずつでやってみようかな、と」
兄妹で違う反応を見せた私たちを見て、ミィコ部長が私たちのペアを解消する理由を語られました。
確かに、演技に関しての大まかな指導は一通り受けましたし、ずっと二人だけの演劇で、相手も同じでは退屈してしまいます。
よく思い返しますと、私たちの指導を引き受けてくださっていたミィコ部長を除き、他の部員の方々は演技の練習の時、その日その日で人数やメンバーが変わっていたように思えます。
本来の演劇部の活動は、条件や役などをランダムに変え、色んなタイプの役を演じるようにしているのでしょう。そう見れば、私たちも相馬さんと同じように、初心者待遇での練習だったのかもしれません。
恐らくは、以前の私の嘆願も覚えていてくださったからこその判断でもあったのでしょうが、これで少しでもお兄様のことを気にしなくてすむと思いますと、ちょっとだけ胸のつかえが取れた気がします。
「ま、待ってください! それならば、この組み合わせでなくてもいいではないですか? 凛を男と一緒のグループになんて……っ!」
「オウジ君? この子は演劇部にいる間は、貴方の妹である『柏木凛』じゃなくて、一年生部員の『カリン』だよ? そこは間違えないで」
当然、お兄様はミィコ部長に反発しようとしましたが、その言葉は途中でお兄様の顔に飛んできた台本により、遮られてしまいました。
台本を投げ飛ばした張本人であるミィコ部長は、満面の笑みでお兄様を威圧していました。すごく綺麗な笑顔ですが、有無を言わせぬ圧力を感じ、お兄様も二の句が継げません。
「それに、この組み合わせはオウジ君の才能を買って決めたんだよ?
ずっと二人の練習を見てたけどさ、オウジ君は台本もすぐに覚えるし、演技力に気分の波はあったけど、大体の役の気持ちも把握してたよね? 総合的に悪いところがあまりないから、他の二年生とやっても大丈夫でしょ。
対して、カリンちゃんは台詞こそ覚えられてるけど、演技力がまだまだつたないところがあったよね? そこを指摘するんだったら、最上級生の私たちがいる方が、カリンちゃんも上達が早いと思ったの。
確かに、オウジ君は男性主人公向けの容姿だし、カリンちゃんもヒロイン向けだとは思うし、そう言ったけどさ。何もそれだけを演じさせる訳じゃないからね?」
さらに、ミィコ部長は私たちの組分けを理屈で説明し、お兄様の口を無理矢理閉じさせました。ミィコ部長を見返すお兄様は悔しそうにしており、お兄様も納得はしたようです。
「さ! 時間は有限だよ。さっさと練習、始めちゃおうか!」
お兄様の反感があり不穏な空気が流れようとしていましたが、ミィコ部長はわざと明るく振る舞い、私とお兄様を引き離してくださいました。
「……大丈夫? 前見た時より、顔色が悪いよ?」
「表情も固いな。顔の筋肉も強ばったままだ」
距離をとってすぐ。ミィコ部長とターヤ先輩は声を潜め、心配そうに私を気遣ってくださいました。
……私は、自分で思っていたよりも、参っているのかもしれません。
「……今はまだ、平気です。ただ、心休まる時間が少なくて、ちょっと、辛いかもしれません」
だからでしょうか。
私の心に閉じ込めていた弱気な本音が、ミィコ部長たちの前で自然とこぼれ落ちました。それだけで、少し、気持ちが楽になった気がしました。
「あたしたちはカリンちゃんの事情は詳しくわかんないけどさ、もっと頼っていいよ? 親しすぎると話せないこともあるし、無責任な私たちに愚痴るだけでも、大分違うと思うから、ね?」
「そうだな。ストレスは抱え込みすぎると、反動が怖い。自分のストレスを誰かにぶつけることは悪いことじゃない。カリンは女子だから、なおさら喋って発散した方がいいよ?」
「はい、ありがとうございます」
ここのところ、ずっと一人でいるような感覚を覚えていましたが、私は自分が一人ではないと思えるようになれました。先輩たちのおかげですね。
私は、かなり追い詰められていたのかもしれません。これだけのことで、すごく安心感を感じているのですから。
それに何より、ミィコ部長がくれた言葉は、かつて進路に悩んだ私に相馬さんがかけてくださった言葉に近いものでした。
だからでしょう。ミィコ部長の言葉が、抵抗もなく私の胸にすっと入ってきた感じがしたのです。
懐かしい彼との思い出がよみがえり、私の唇は自然と小さく笑みを浮かべていました。
「ま、今は部活中だし、演技でたまったストレスをパアッと発散しよう! ね!」
「体を動かし、役に沿って感情を爆発させれば、少しはスッキリするぞ? 今日は細かいことは言わないから、大いに感情を出せばいいさ」
「……はいっ!」
私はミィコ部長とターヤ先輩に大きく頷き、ご厚意に甘えることに致しました。台本も自分で選び、大声を出せそうな役を選ばせてもらえました。
また、意図せず相馬さんとキョウジ先輩が行った殺陣? というか、スパーリングですか? それも遠巻きに眺め、楽しむことができました。
久しぶりに心から笑顔になれた気がします。私は改めて、演劇部に入部できてよかったと思えました。
色々考えすぎて、大分参っていますね。ミィコ部長とターヤ先輩のファインプレーがありましたが、全部の不安を出しきれてませんので、凛ちゃんはまだまだ不安定です。




