名前呼び
その夜ーー
「も、もしもし。突然電話なんてどうしたんですか?」
天野さんは、俺が電話をかけてきたことに驚きを隠せない様子だった。
「ごめん。母さんに秘密バレちった」
俺は生まれて初めて女子に電話をした。
こういうのは声で言った方がいいと思ったからだ。しかし時間帯的に家に向かうのは彼女にとっても迷惑だ。
明日の朝という選択肢もあったが、早めに伝えておかなくては後々面倒なことになりかねない。早めに作戦会議をする必要があったのだ。
「え?お義母さまいらっしゃんたんですか?」
「いや電話。母さんとは毎週電話で生きてるかどうかのチェックも兼ねて一時間ぐらい電話してるんだ。それで、俺たちの会話が聞こえてたらしくて」
「ごめんなさい。わたしが来ちゃったせいで、柿谷くんに迷惑が……」
申し訳なさそうに謝罪の弁を述べる。
「母さんにちゃんと説明したんだけど、今度うちに来るって。彼女さんも是非来てくれって……」
母さんは恋愛話が大好きなのである。
だから電話越しで俺と天野さんの声が聞こえたときに、「とうとう息子にも春が……」と勘違いをしてしまったのだ。
どうやら母さんは、天野さんのことを彼女と思い込んでいる。
優秀な母親だと思っているが、息子のことと恋愛話のこととなると話は変わる。
「そこで一つお願いがある。そのときだけ彼女のふりをしてほしい……」
変に墓穴を掘ってしまう前に母さんをさっさと帰らせる。その後のことは、そのときの俺がなんとかしてくれるはずだ。
「分かりました。こうなってしまったのもわたしの責任です。自分で蒔いた種は自分で刈ります」
「そう言ってもらえて助かる。母さんが来るのは来週の土曜日だ。予定は大丈夫?」
「その日は特に予定がないので大丈夫です」
後で母さんにはその日で問題ないと伝えておくとしよう。
「呼び方なんだけど……付き合ってまもないって設定にして、まだ苗字呼びが慣れていないってことにしようと思う。いや、でもあの恋愛脳な母さんだ。絶対名前で呼べなんてことを……」
俺は必死に思考を巡らせた。
「じゃあ……呼んで……みますか?」
電話から聞こえたのは、天野さんの途切れ途切れの声。
「そのときは……お互いのことを……名前で」
「俺はいいけど、呼んでも大丈夫なのか?」
「親しい人になら……名前で呼んでもらいたいです」
「わ、分かった」
心臓の音が聞こえるくらいにドキドキしている。下の名前で読んでいるのは斗真くらいである。斗真のやつ、平気で梨花って呼んでたけど、こんなに緊張するものなのかとその身を持って実感する。
「じゃあ……呼ぶぞ」
「はい……」
身構えるように天野さんは言った。
呼吸を整えて、電話越しにいる彼女に向かって、
「優奈……」
初めて口にした名前。初めて呼んだ女の子の名前。天野さんの反応が気になって仕方がない。彼女の顔が見れないもどかしさに襲われる。
「り、良介くん……」
ドクンと、より一層心臓の音が聞こえる。
天野さんの穏やかで落ち着いた声に、ほんの少し照れが混じっているような気がした。
「ど、どうでした?」
天野さんは不安そうに確認をとる。「良介くん」と言う甘い響きが頭の中に残っていて俺の思考を鈍らせる。
「良かったよ……すごく」
「そうですか……」
それを聞いて安心したのか、嬉しそうに笑った。
「俺のは……大丈夫だった?」
「はい……とても良かったです……」
「そ、そうか」
ただ電話で名前を呼び合っているだけなのに、身体が熱くなる。まるで以前のシャトルランを走ったかのような、だが全く苦しくない。
「でもさ。良介くんって少し長くないか?別にくんを付けなくっても、俺は気にしないぞ?」
「良くん。良くんなら……どう?」
両親や斗真にすら呼ばれたことのない呼び方。
あ、これはやばい。
沼にハマった。天野さんの声という沼にハマって抜け出せない。もがけばもがくほどその沼に足を取られ、動けなくなる。
「うん。当日はそれでいこう」
「はい」
頭が疲れている。先ほどまでは燃えるように熱かったのに、今は冷水をかけられたような感覚に襲われる。
それは同時に眠りへと誘うものへと姿を変えていく。
「じゃあ、今日はこれで。おやすみ」
「はい、おやすみなさい……良くん」
電話を切る直前、天野さんの天使のような、はたまた小悪魔のような魅惑の声が耳から脳へと伝達される。
ベッドに入って目を瞑るも、眠ることができない。心臓は未だバクバク言っててうるさい。
「寝付けねぇ……」
俺はそう呟かずにはいられなかった。
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