第8章:恋わずらい《断章3》
【村雲夏姫】
それは小さな頃の記憶。
私にとってかけがえのない、大切な思い出。
「夏姫のお菓子。俺は好きだな」
「本当に?」
「うん。夏姫が作るお菓子は人を幸せにする、俺はそう思うよ」
「お兄ちゃんに褒めてもらえると嬉しい♪」
自分の作ったお菓子を兄に食べてもらうのが好きだった。
多少、失敗しても、「また次、頑張って」と彼は食べてくれて。
お菓子作りにおいて本当に明彦の存在は私にとって大きかったの。
「私ね、将来はパティシエになりたいんだ」
「パティシエ。お菓子職人だっけ?」
「そうなのっ。私、お菓子作りのプロになりたい」
「夏姫ならなれるよ。俺、応援しているから」
明彦が美味しいと言ってくれた言葉が私の励みになっていた。
「私ね、皆を笑顔にしたいんだ」
「笑顔に?」
「うん。私の作ったお菓子で皆が笑顔になってくれたら幸せだもんっ」
私の原点、パティシエになりたい夢の始まり。
「そっか。夏姫なら出来るよ。だって、夏姫の作るお菓子は本当に美味しいから」
「お兄ちゃん……えへへっ。ありがとう」
その関係がずっと続いてくれると思っていた。
それなのに、私は自ら関係を壊したんだ――。
「――明彦っ!!」
私は彼の名前を呼んだ自分の声でハッと目が覚める。
「あき、ひこ……?」
辺りを見渡すとそこは部屋のベッドの中だった。
私、いつのまにか寝ちゃったんだ。
「……そうだ、昨日……私は……」
お母さんから聞いた、明彦の真実を知ってしまった。
私が今までしてきたことを後悔して、涙するしかなくて。
「明彦に謝らなきゃ……許してもらいたいの……」
私はベッドから起き上がると、リビングへと出る。
「明彦?」
声をかけるけど、そこには誰もいなかった。
「え?」
時計はまだ朝の7時過ぎ。
今日は祝日だから明彦も家にいるはず。
それなのに、どこにも姿がなかった。
私は急に不安になって彼を探す。
「……どこにいるの?ねぇ?」
私はテーブルの上にある書置きがされているのに気付いた。
『用事があるので出かける。夜遅くに帰るから戸締りはしっかりしてくれ』
一枚の紙に明彦の文字で書かれている。
「……出かけただけ?」
私は自分が過剰に敏感になっていると思った。
「よかった。私の事を嫌いになって、出て行っちゃったわけじゃないんだ」
ホッとすると私は深呼吸を一つする。
不安が消えない、明彦に対する罪悪感も……。
前々から気づいてたこと。
「明彦は私の実の兄じゃない。それどころか……血縁関係もなかった」
私達の関係、その真実。
私は拒絶することしかできなかった。
彼はあんなにも私に優しくしてくれていたのに。
私は窓を開けて、青空を見上げる。
今日は快晴、雲ひとつない青空が広がっている。
「……だけど、私は間違っていたんだ」
何一つ、拒絶することなんてなかった。
血の繋がりはなくても、明彦は私の兄なのだから……。
「私、ホントにバカだよ」
自分で自分の幸せを壊したことへの後悔。
「……どうしたらいいんだろう?」
ぐるぐると頭をめぐる悩みが消えてくれない。
「明彦に会いたいよ」
そう呟いた私の言葉は青空に消えていった。
「夏姫ちゃん、何かあったの?」
小桃さんのお店に行くと、私は心配されてしまう。
「いえ、何もないです」
「嘘。目が真っ赤だもの。……お姉さんに相談してみない?」
私は小桃さんの優しさに甘えてしまう。
一人で耐えるには辛い、誰かに話すことで解放されたかったの。
明彦が実の兄ではなかった。
以前から気づいてはいたけども、母親から事実を告げられたこと。
その事実だけを告げると、小桃さんは私に言う。
「夏姫ちゃんって、彼に恋をしているのね」
「……恋?私が?」
「そう。ずっと自分の中で彼を本当のお兄さんじゃなくて、一人の男として見続けてきた。その気持ちは恋なの。だから、戸惑うし、怖くなってしまう」
「分かりません。自分の気持ちなんて……」
ありえないとは言えなかった。
明彦を思う心がある事を自覚していたせいかもしれない。
けれど、それを恋だと断言する程、私は恋愛を経験していない。
「美味しいケーキの作り方、教えてあげよっか?」
「……ケーキ?」
「お兄さん、夜には帰ってくるんでしょう?夏姫ちゃんの想いを込めたケーキ、プレゼントして、仲直りすればいいじゃない。失った時間は取り戻せなくても、これから仲直りするのは大事なことでしょう」
私は明彦と仲直りがしたい。
彼を傷つけてしまった、この数年間を謝罪したいの。
「……あの、小桃さん。教えてもらえますか?」
「もちろん。私は夏姫ちゃんの恋を応援しているからね」
「恋かどうか、分からないですけど……頑張りますっ」
少しだけ気分が明るくなった気がする。
「明彦が戻ってきたらちゃんと謝ろう」
今の私にはそうすることしかできない。
そして、私達の関係も少しずつでいいから変えて行きたいの――。




