5-17 貸し出し要請が来た日(その3)~成功報酬出します~
土曜日(8日)の朝6時前、全身を袋の様な物に包まれて拘束される感覚と息苦しさで目が覚めた。目が覚める直前『死ぬかも知れない』と思ったような気がする。目を開けるとナツメ球の薄明りの中で姉ちゃんの輪郭が俺の上に乗ってる。
「姉ちゃん? 何してるの?」
「彩ちゃんはこうして起こすの?」
「あのねえ、そんなに覆い被さらないから。」
姉ちゃんは俺の胸のあたりに顎を着けて、大きな瞳で俺を見ながら、
「黙って行こうかと思ったけど、翔ちゃんの寝顔見てたら、してみたくなちゃった。」
「えっと・・・今回限りでお願いします。」
「大好きよ!」
「あー、ありがとう。おー俺も。」
「どうしたの?」
「べ、別に!」
「私、重い? 大丈夫?」
「う、うん、大丈夫。ご心配なく。」
俺はこの時、布団の中で俺の体に生じている、『健全な男子の起き抜けの生理現象』を説明する勇気が出なかった。
「じゃあ、彩ちゃんが来る前に帰るわ!」
「うん。」
「9時には出かけないとね。」
「うん、そうだね。」
「なんか手土産買って行ったほうが良いよね。」
「そうだね。」
「じゃぁ。行くから。」
そう言うと、姉ちゃんは俺に跨ったまま上体を起こして左手を出した。
「なに?」
「私の枕とスマホ。」
「あ、これね。」
「うん。」
俺は姉ちゃんの枕とスマホを取って渡した。姉ちゃんは枕を左腋に抱え左手でスマホを持ってそーっと部屋を出て行った。俺はドアを閉めながら笑顔で手を振る姉ちゃんに首を向けて、小さく手を振って見送って、・・・2度寝・・・した。
「おはよう、お兄ちゃん、朝ご飯だよぅ!」
目を開けるといつもの様に彩香が馬乗りになって体を揺すっていた。圧迫感と言うか、重量感が姉ちゃんと彩香では全然違う。
「おはよう彩香、起きるからどいてくれ。」
「うん。」
カーテンを開けると快晴の朝日が部屋に充満した。
「おお、今日も良い天気だ。」
「うん。良い天気だー!」
俺が着替えて1階に降りて顔を洗ってダイニングに行くと、キッチンで母さんと姉ちゃんが並んで朝食を作っていた。俺はいつもの様に姉ちゃんがカウンター越しに出したサラダボールを受け取ってテーブルの中央に置いて、牛乳とジュースを配って、コーヒーを仕掛けた。彩香が並べた皿のハムエッグも美味しそうだ。チンと音がしてオープンサンドのトーストが焼けた。
そして朝食になった。
「親父は?」
「お父さんは少し前にお迎えが来て出かけたよ!」
「芝刈り?」
「そう。」
「どこの山?」
「群馬の方の河川敷らしいわ。」と母さん。
「ふぅーん、川か。」
「スキーのタイツをはいて行ったけど、寒くないのかしらね。」
「それでも寒いと思うわ!」
「お父さん使い捨てカイロ沢山持って行ったよ!」
「まあ、仕事じゃないんだからそんなに心配しなくても良くネ!」
「きっといまごろ父さんクシャミしてるわ!」
「ところで姉ちゃん、母さんに言った? 加代の事。」
「うん。」
「彩も行きたかったな!」
「ごめんな。」
「今日は来春の就学児童の小学校見学会があるのよ。」と母さん。
「ナオちゃんと行くんだよ!」
「ナオちゃんって?」
「幼稚園のお友達だよ!」
「そっか。良かったね。・・・来年は彩香も1年生か。」
「うん。」
「お爺ちゃんに電話したか?」
「なんで?」
「ランドセルとか月の学園美少女の学習机とか。」
「そっか。今日する。」
「翔ちゃん、あのね、彩ちゃんに変な入れ知恵しないの!」
「へいへい。でも言ってあげないと何買って良いか判らないんじゃないか?」
「彩が欲しいのはピンクのランドセルだよ!」
「そっか、でもその色は4年生位で黒ずんで飽きるかもな。」
「えぇー!」
「まあ、まだ慌てなくても良いんじゃない?」と姉ちゃん。
「うん。・・・見てお兄ちゃん。」
彩香は左手を上げて見せた。小さい手の細い薬指に赤いルビーが光るリングをしている。
「おお、久しぶりに見た。いい感じに光ってるぞ!」
「へへん!」
「彩ちゃん、それして行くの?」と姉ちゃん。
「どっしよっか思案中!」
「どこで覚えたんだ? そんな難しい言葉!」
「アニメ。」
「へーぇ。」
「置いて行った方が良いわ!」
「そうかなあ。」
「失くするとお兄ちゃんが泣くよ!」
俺はその言葉に乗って、大袈裟に無き真似をした。
「シクシク!」
「じゃあ、置いて行く。」
「そうね、それが良いわね。」
そう言って彩香を見た母さんはなんか嬉しそうで、優しい笑顔だった。
姉ちゃんと俺はちょっと早目の8時50分に家を出た。姉ちゃんは薄手の白のニットにブルージーンズにピンクのストリングのスニーカーでサンドグレーのコート。母さんに借りたカプラングのブラウンのショルダーにたぶん赤いミラーレスが入っている。もちろんあのリングをしている。俺はやはり薄手のスカイブルーのニットにブルージーンズに薄汚れた元白のスニーカーにダークグレーのショートコートそしてノーブランドの黒いリュックだ。文房具入りだ。リングは1番上の引き出しの奥だ。吉祥寺駅の1階でフルーツタルトを2本買ってリュックに入れた。千葉行き総武線各停に乗って、東中野のナタプロのビルには10時5分前に到着した。意外とぎりぎりだった。1階の喫茶店の横の階段を上がって2階の扉を開けた正面の受付にはこの前と同じ受付のお姉さんが居た。
「おはようございます。」
受付のお姉さんは俺の顔を見て微笑んで、
「あら、おはようございます。久しぶりですね。加代ちゃんの同級生の中西君でしたね。」
「はいそうです。」
俺は受付のお姉さんがこの前とは全然雰囲気が違って、親切でフレンドリーに感じて驚いた。
「えっと、失礼ですが、お名前は何と・・・?」
「あら、御免なさい。田代陽子と言います。座ってると見えないですよね。」
田代さんはネックストラップを持ち上げて名札兼用のIDを見せた。
「田代さんですね。」
「そちらはハルさんですね。お噂は伺ってます。」
「はい。初めまして中西春香です。・・・あのー・・・どんな噂ですか?」
「加代さんの親友で恋敵さんですよね。いい意味の。」
「ええー、加代ちゃんったらそんな事言ってるんですか?」
「お気を悪くなさったら御免なさい。円ちゃんから聞きました。」
「私、ここではそんな事になってるんですか?」
「円ちゃんは情報通なんですよ。自称ですけど。」
「まあ、完全な間違いじゃないよね。」
「やめてよね翔ちゃんまで。第1それ翔ちゃんに許された台詞じゃないと思うわ!」
「へいへい。その通りです。」
姉ちゃんは俺を睨んだ。俺は少し下を向いた。田代さんは苦笑した。
「あ、そうだ、御免なさい。明莉ちゃんの件で来られたんですよね。」
「はあ?」
「そこの椅子に掛けて少々お待ちください。」
田代さんは例によって左手で隅のベンチソファーを示して、インターホンの受話器取ってどこかへ連絡した。姉ちゃんと俺はなんか状況が掴めなくて顔を見合わせた。そして、初めて来た時に加代と並んで座ったベンチソファーに座った。あの時程は密着せずに。でも、なんか不安な感覚に包まれた。
「明莉ちゃんの件って何だろね。」
「さあ、全く見当がつかない。・・・加代と喧嘩したんじゃね?」
「まさか!」
そこへエレベータが降りてきて、この前、小泉さんの補佐的な事をしていた30歳くらいの女の人が、にこやかな表情で降りて来た。
「中西さん、お待たせしました。」
姉ちゃんと俺は立ち上がって、その女の人にペコリとお辞儀をした。
「初めまして、中西春香と言います。翔太の姉です。」
「初めまして、樋口双葉と言います。プロデューサの小泉のアシスタントです。」
「樋口さんと仰るんですか。」と俺。
「そう言えば、この前、翔太さんには名乗ってませんでしたね。」
「はい。」
「では、ご案内します。」
樋口さんに続いてエレベーターの方に行こうとした時、田代さんに呼び止められた。
「あ、このネックストラップをしてください。」
『はい。』
姉ちゃんと俺はゲストパスカードが入ったネックストラップを受け取って、それを首にかけ、エレベータに乗った。樋口さんは俺達の後からエレベータに乗って、6階のボタンを押した。
「翔太さん、今日はよろしくお願いします。」
「えっと、実は何も詳しい事を聞いてなくて、何の事なのか解らないんです。」
「そうですか、私からは申せませんので、小泉か加代さんに聞いてください。」
「はあ、分りました。」
樋口さんは姉ちゃんと俺を6階のA-2の会議スペースに案内した。
「ここです。ではよろしくお願いします。」
樋口さんが指示したパーティションの中に入ると、加代が困り顔で待っていた。
「あ、加代ちゃん。」と姉ちゃん。
「あ、ハルちゃん。ごめんね、わざわざ来てもらって。」
「良いのよ。休みだし。」
「加代、どういう事なんだ? 俺を貸せって。」
「うん。ちょっと待ってて、小泉さんがもうすぐ来るはずだから。」
「良いけど、明莉ちゃんの件って田代さんが言ってたけど?」
「そうなのよ! 詳しくは小泉さんが説明してくれるはずだから。」
姉ちゃんと俺は顔を見合わせた。なんか、かなり深刻な事態の様に感じて不安になった。
「立っててもしょうがないから、座って。」
「そうだね。」
「あ、私、飲み物持って来る。」
そう言うと、加代は会議スペースから出て行った。姉ちゃんと俺は応接セットの長いソファーに並んで座った。しばらく待っていると加代が紙コップのお茶をトレイに乗せて持って来た。そして通路側の椅子に座った。お互いに顔を見合わせたが、話すことが無くてお茶をすすりながらしばらく沈黙が続いた。そこへ小泉さんと樋口さんがやって来た。小泉さんは俺の正面、樋口さんは姉ちゃんの正面のソファーの前に入った。
「お待たせしました中西君。」
姉ちゃんと俺は立ち上がって、ペコリとお辞儀をして、
「おはようございます。」
「初めまして、中西春香と言います。」
「あ、貴女がハルさんですね。」
「はい。」
「初めまして、私は『あかま』のプロデューサの小泉と言います。」
「よろしくお願いします。」
「こちらこそ、今日はよろしくお願いします。流石はモデルさんですね。」
「どう云う事ですか?」
「美人で大柄で姿勢が良い。翔太君もそうですけど。」
「有難うございます。」
「どうぞ、お掛け下さい。」
俺は腰を下ろしながらリュックを開けて、タルトの箱を取り出してテーブルに置いた。
「某ホテルのタルトです。」
「あら、私共からお願いしたのにお土産を頂いてすみません。」と樋口さん。
「じゃあ、遠慮なく頂きます。」と小泉さん。
樋口さんがタルトの箱を持って出て行った。
「本題をズバリ言います。翔太さんに明莉ちゃんの家庭教師をお願いしたいのです。」
「はあ?」
「明莉ちゃんは、数学がカラッキシでして、高校入学以来全部の試験で赤点なんです。」
「池越学園はそれでもOKなのでは?」
「流石にそうは行かなくて、単位取得の最低レベルと言うのがあります。」
「明莉ちゃんはどうなるんですか?」
「必須科目ですので、学園からはこのままですと留年と伝えられています。」
「留年すると何か不都合でも?」
「弊社は親御さんからお預かりしている御子弟にちゃんと教育を受けさせる責務を帯びています。ですので契約時点で『少なくとも高校は卒業させます』と約束しているのです。」
「ナタプロさんの事情は理解できましたが、私に『家庭教師』ってできますか?」
「加代ちゃんの推薦です。」
俺が加代を見ると、苦笑いしていた。
「私が教えようとしたんだけど、なんか甘えっ子でダメみたいなの。」
「加代が教えてダメだったんなら、自信無いよ。」
「男の翔ちゃんならその気になるんじゃないかなあ?」
「そう上手くいくか?」
「とにかく、17日が追試で、それで駄目ならほぼ留年って事なのよ。」
「それはまた崖っぷちだね。」
「17日の追試で、3学期に学力の向上が見込めればその限りでは無いらしいの。」
「なら、まだ諦めるのは早いかな。」
「ねえ、1度で良いから頼むよ。」
黙って話を聞いていた姉ちゃんがようやく発言した。
「翔ちゃんが教えて駄目だったらどうなるんですか?」
「3学期はレッスンを全部キャンセルしてスパルタでも何でも、専門の塾に行って勉強してもらう事になります。」
「それってつまり、『あかま』のデビューがその分遅れるという事ですか?」
「まあそうなります。」
「この1週間程そのスパルタに行くってのは?」
「どうも明莉ちゃんの覚悟がそのレベルでは無いのです。」
「今日も来てるんだけど、レッスンにも身が入って無いし。」
加代が訴えるような眼で俺を見詰めている。俺はまた巻き込まれたと思った。
「うーん・・・やってみるか!」
「翔太、ありがとう。」
「どうなっても知らないよ!」
「翔ちゃんの事だからきっと上手く行くわ!」
「成功報酬を出しますから。」と小泉さん。
それを聞いた瞬間、低めのエンジン音の単車が俺の脳裏を走り抜けた。しかし口からは裏腹な台詞が飛んで出た。
「小遣いには困ってませんので。」
「まあ、そう言わず、お願いしますよ。」
「成功したらって事ですよね。」
「はい。申し訳ありませんが。」
「失敗してもペナルティー無しですよね。」
「もちろん。ここに居る皆さんが証人です。」
「加代良いか?」
「3ポ歩いたら忘れそう。」
「あのなあ、お前ニワトリか?」
「いいえ、ブルーバードよ!」
「まあ、鳥には違いない。てか、冗談抜きで頼むぜ! 責任重大みたいだからさ。」
「大丈夫よ、私が覚えてるから。」
「流石姉ちゃん。」
「どうやら、引き受けて頂けそうですね。」
俺は周りの皆を見渡した。皆は俺に期待の眼差しを向けて注目している。俺の脳内はなんか、逃げ遅れた感で充満された。俺は大きく深い息をした。
「・・・判りました。やってみます。」
小泉さんが満面の笑顔になった。
「ありがとう!」
俺にとっては意味不明の拍手が巻き起こった。そして、そこへ樋口さんがコーヒーのデカンタと砂糖壺を乗せたトレイを持って入って来た。樋口さんの後ろから円ちゃんが紙コップと紙皿とフォークを、明莉ちゃんがタルトの箱を乗せたトレイを持って入って来た。明莉ちゃんの顔はすまなそうで少し暗い感じがした。それを見た小泉さんが弾んだ声で、
「明莉ちゃん、翔太君が引き受けてくれました。」
「本当ですかぁ? ショウさんよろしくお願いしまぁーす。」
明莉ちゃんの表情が一気に好転した。その瞬間俺の脳内の気分がかなり落ち込んだ。加代と姉ちゃんも手伝って、ローテーブルにコーヒーとタルトが配られて、7人でタルトとコーヒーの乾杯?で俺の苦難の門出を祝う事になった。俺は3回ほど密かにため息をついた。




