5-16 貸し出し要請が来た日(その2)~お姉ちゃんの命令よ~
俺が玄関のドアを開けて、キーボードを背負った姉ちゃんが先に、ギターを背負った俺が後から家に入った。5時前だったと思う。姉ちゃんと俺は靴を脱いで、
『ただいまー』
と言って上がって、俺は真っ直ぐ2階の自室に行こうとした。が、姉ちゃんに呼び止められてギターを背負ったまま手洗いとウガイをした。『彩香の模範になる』という中学時代から続く約束事で、帰ったら最初に手洗いとウガイをする。なのだが、俺は時々忘れてすっぽかす。ついでだからキッチンで牛乳を1杯飲んで、自室に上がった。入り口で電気を点けてスクールバックとギターをゴロンと床に下して、普段着に着替えて、ベッドに突っ伏して毛布を足で捲って被った。そしてたぶんすぐに眠りに落ちた。
「お兄ちゃん、ご飯だよぅ!」
薄暗い部屋で彩香が俺に馬乗りになっている。一瞬夢かと思ったが、すぐに現実だと意識が認識した。
「夕飯か?」
「うん。」
「わかった。起きるからどいてくれ。」
彩香がベッドから降りたので、起き上がって部屋を見渡すと、床に投げ出したはずのギターが机の横のいつもの位置の壁に立て掛けてあった。
「サヤが置いてくれたのか? ありがとう。」
「何?」
「ギター」
「知らないよ! サヤはお兄ちゃん以外には何も触ってないよ。」
「えっ! どこに触った?」
「ほっぺにチューしたけど起きなかった。」
「そっか、それはどうもありがとう。」
「うん。」
「じゃあ片付けてくれたのは母さんかな?」
「さあ?」
そう言えば電気も小さいのに切り換えてあった。
彩香と1階に降りると、もう家族全員揃っていた。ダイニングテーブルにはレタスとハムとチーズのサラダとコーンポタージュとハンバーグの皿が並んでいて、親父がハンバーグの付け合わせのポテトの素揚げをツマミにしてビールを飲んでいた。
「お帰り親父。」
「おお、ただいま。」
俺はいつもの様に親父の隣の椅子に座った。俺の左の誕生席が彩香、正面が姉ちゃん、親父の正面は母さんの席だ。
「彩ちゃんは翔ちゃんを起こすのが上手いね。」と姉ちゃん。
「うん。上に乗るの。」
「少し揺すった位じゃ起きないものね。」
「お尻で揺するんだよ!」
「そうなの? 今度私もやってみようかしら。」
姉ちゃんはニヤリとして俺を見た。
「おい、勘弁してくれよ! 冗談に聴こえない。」
「お前達、期末試験終わったんだってな。」と親父。
「うん。」
「で、どうだったんだ?」
「採点はまだ返って来てない。」
「手ごたえは?」
「いつもと同じ位にはできたと思う。」
「私は良かったかも。」
「そうか。それは良かった。」
姉ちゃんと俺は顔を見合わせて微笑んだ。
「そう言えば、俺の部屋、姉ちゃんがギターを片付けて電気消してくれたの?」
「うん、そうよ。脱ぎっぱなしの点けっぱで寝てんだもの。」
「それはどうも有難うございましたです。ってか、なんかしなかった?」
「ほっぺにナルトの渦巻き書こうかと思ったわ!」
「えぇー」
「思っただけだから安心して!」
「はい。翔ちゃんごはん。」
「へい、ありがとう。」
母さんがカウンター越しにご飯の茶碗を差し出した。俺は立ち上がってそれを受け取った。母さんは全員に料理が行き渡ったのを目で確認して、キッチンから出てダイニングに座った。
「さあ、食べましょ!」
『いただきまーす。』
「お兄ちゃん、サヤの人参あげよっか?」
「良いのか?」
「良くないわ! 彩ちゃんが食べるのよ!」
「うーん、失敗。」
彩香はこの1週間彼女なりに姉ちゃんと俺に精一杯気を遣っておとなしくしてくれていたのが分っている。だから今日は少し饒舌になっている。俺はそれに充分に付き合ってやらねばと思う。親父も母さんも笑顔で3姉弟妹の漫才を観ていた。彩香が高校生になる頃もこういう試験モードが有るんだろうなと漠然とそう思った。とにかく、こうして、我が家の試験モードが終了した。いつもの穏やかでにぎやかな夕食になった。
その夜10時頃、姉ちゃんと彩香が俺の部屋に来た。3人のパジャマはいつもの通りだ。つまり、姉ちゃんはピンクに白いドット、彩香はクリームイエローに白いドット、俺はライトブルーに白いドットだ。言い忘れていたが、このお揃のパジャマは去年母さんが池袋のデパートで見付けたもので、同じのが2着ずつある。初めて支給された時はかなり恥ずくて抵抗があった。しかし、姉ちゃんと彩香は気に入ったみたいだったし、それを着た俺を見て、
『予想以上に似合ってるわ!』
『翔ちゃん可愛い!』
『お兄ちゃん格好良い!』
と3人にあからさまに煽てられると俺は抵抗できなくなった。まあ、家族以外に見られる事は無いだろうからと諦めて着ることにした。最近は着慣れて、これでないとしっくり来なくなった。
3人共同じコンディショナーの香りがしている。姉ちゃんはいつもの様にクッションを抱えて部屋の中央に座り、彩香が姉ちゃんの左脇からはみ出したクッションに凭れかかった。俺はベッドに座ってスマホのメールをチェックしていたのだが、2人を見てスマホを消した。
「終わったねー。」
「うん。なんか、試験明けのこの脱力感って、たまらなく気持ち良いね。」
「翔ちゃんって、何でも楽しんじゃうから凄いわ!」
「試験勉強って、そんなにしんどいの?」と彩香。
「うん。いっぱい勉強しないといけないの。」
「試験の時だけ勉強するの?」
「普段はのんびり勉強してるんだけど、試験の前の日にそれをもっかいやり直すんだ。」
「なんで?」
「合格点を取るためよ!」
「やり直さないと合格点撮れないの?」
「たぶん色々忘れてっからな!」
「ふぅーん。でも、彩は習った事忘れないよ。」
「高校生になるとね、昨日習ったことを覚える前に今日また新しい事を習うんだ。」
「じゃあ、忘れるんじゃなくて、覚えてないんじゃん。」
「おぉ、正解! サヤは凄いな! もう悟りを開いた。」
「何? 悟りって。」
「先を見通す千里眼と諦めの境地ってとこかな。」
「わかーんない。」
そう言うと、彩香は大きなあくびをした。姉ちゃんは苦笑している。
「あぁあ、残念。悟りが消えた!」
「どーしてー?」
彩香の声がかなり眠そうになった。
「あくびしたから、口からホワーッと出て行ったみたいだ。」
「彩ちゃん、お兄ちゃんのはエセ禅問答って言うの。本気にしないで良いよ。」
「ふぅーん。」
そう言うが早いか、彩香は眠ってしまった。
「サヤ、寝ちゃった?」
「見て、可愛いわ!」
「そうだね。」
姉ちゃんも俺も彩香の可愛い寝顔をしばらく見つめた。長いサラサラの髪が半分は左肩から胸に半分はクッションに流れる様に掛かって、安心しきった様な穏やかな寝顔だ。姉ちゃんは彩香の髪を左手で優しく撫でながら彩香を支えている。そこへ、ノックの音がして、静かにドアが開き、母さんが入って来た。
「やっぱり3人集まってた。」
「うん。でもほら、彩ちゃんは寝ちゃったわ!」
「じゃあ連れて行くわ!」
母さんは彩香を重そうに抱き上げた。彩香はおそらく無意識に母さんに抱き着いた。
「あなた達も早く寝るのよ!」
「うん。」
「へい。」
母さんが出て行ってしばらく沈黙の時間があった。俺は、姉ちゃんは約束の儀式をして部屋に帰る積もりだろうなと思っていた。だがしかし、
「ねえ、翔ちゃん、今夜はここに泊ってもいい?」
「えぇ?」
「だめ?」
「いや、良いけど。」
「それじゃぁ。」
姉ちゃんは立ち上がって部屋を出て行った。俺の脳裏に『?』マークが複数点灯した。だが、1分位で戻って来た。
「スマホと枕持って来たわ!」
「あ、そういう事・・・毛布とかは?」
姉ちゃんは俺の質問を聞き流して、ベッドの俺の横に密着して座った。持って来た枕をベッドの奥側に置きながら、
「奥で良いよね。」
「えっ、姉ちゃんがベッドで寝るの?」
「そうよ!」
「じゃあ俺が床?」
「何言ってんの、寒いから一緒に寝るのよ。」
「そっすか。」
姉ちゃんは俺の顔を覗き込むようにして、
「あれはダメだからね。」
「へい、分かってます。」
「じゃ、私は寝るわ! エアコン止めてね。」
「3時間タイマーにしてあるから。」
「そう。」
姉ちゃんはベッドの壁側に寝そべった。俺も姉ちゃんの隣に寝そべって右手で頬杖をついて姉ちゃんを見詰めた。また暫らく沈黙が流れた。
「ねえ、翔ちゃん。」
「なに?」
「放送部っていい人達が入部したね。」
「何? 藪から棒に!」
「だって、裕也君も佳子ちゃんも雫ちゃんもテキパキしてるし前向きだし。」
「そうだね。特に最近は。」
「前はそうじゃ無かったの?」
「うん。まあ慣れてなかったからかも知れないけどね。」
「慣れると積極的になるのね。」
「ああ、そうらしい。それに、俺達の影響だってヨッコ先輩が言ってた。」
「俺達って?」
「うん。ヨッコ先輩によると、順平と俺がなんかいいコンビで良い出汁を出してるんだって。」
「へー、そうなんだ。」
「俺達には具体的にどういう事だか判らないけどね。」
「そう言えば、順平君も翔ちゃんも変に干渉したり妙に譲り合ったりしないものね。」
「まあ、そう言えばそうかも。」
「うん。理解したわ! そうよ、翔ちゃんと順平君は親友なのよね。」
「まあ、仕方ないね。幼馴染だし。腐れ縁って言うのかなあこう云うの。」
その時姉ちゃんのスマホがメールを受信した。姉ちゃんがメールチェックを始めたので俺もスマホを点けた。もう俺のメールは全部既読だ。仕方なく、キノコの栽培ゲームを起動して、本日最後の収穫をした。
「加代ちゃんからだわ。」
「なんって?」
「翔ちゃんを貸して欲しいって。」
「えぇえー!」
「理由は書いてないわね。」
「加代、今日元気だったじゃん。」
「相談したいから明日都合がつくかどうか教えてって。」
「なら俺に直メールすれば良いのに!」
「あら、ダメよ、翔ちゃんの所有権は私が持ってるから。特に貸し出しは。」
「なんかものすごーく理不尽で不公平で納得できないんですけど。」
「私達の決まり事じゃない! ちょっとムズイけど、翔ちゃんはもう理解できる年齢よね。」
「無理!」
姉ちゃんは大きな瞳を輝かせて俺を見詰めて、深呼吸した。
「まあ良いわ! 理解できなくても従いなさい。お姉ちゃんの命令よ!」
「えぇー・・・」
姉ちゃんは俺を見詰めて得意そうに微笑んでいる。
「・・・まあ、そうしますけど。」
「危ない事があったら私が守ってあげるから。」
「加代はラスボス?」
「どうかしら。とにかく、どういう事か良く解らないから、明日OKって返事するね。」
「まあ良いけど、どうなっても知らないよ!」
姉ちゃんは加代に『合意』の返信をした。そして、2人共しばらくスマホを見詰めた。すると即レスが来た。姉ちゃんはメールを開けて、ディスプレイを俺に見せるようにして、
「10時に2人でナタプロに来て欲しいって。」
「ナタプロ?・・・どういう事だろう?」
「『あかま』のピンチだって。詳細は明日言うって。」
「ますます謎だ! イミフだ!」
「でも、つまり、これって翔ちゃんの身に危険は無いみたいよね。」
「なら良いんだけど。」
「とにかく、今日はもう遅いから、加代ちゃんの言う通り、明日聞きましょ。」
「そうだね。」
「じゃあ、行くって返事するわ!」
「うん。」
姉ちゃんは了解の返信をした。そして、スマホの表示を消して枕元に置いた。俺もスマホを消して枕元に置いた。姉ちゃんと俺は互いに体を向け合って少し密着して、暫らく見詰め合って・・・約束のキスをした。それから、姉ちゃんは俺の右腕に頭を乗せた。俺は明日ナタプロで何が起こるのかが少し不安だったが、姉ちゃんに密着して伝わって来た体温と俺を見つめている大きな瞳でその不安が和らいだ気がした。
「姉ちゃんはナタプロに行くの初めてだよね。」
「うん。確か東中野よね。」
「うん。東中野から5分かからない。」
「翔ちゃんは何度か行ったの?」
「いや、1回だけ。」
「加代ちゃんと行ったの?」
「うん。一緒に来て欲しいって頼まれて。」
「あの日よね。」
「うん。」
「どうだったの?」
「小泉さんていうプロデューサーが居て、加代の歌を聴いてすぐ採用だった。」
「ふうーん。」
「で、俺の手の届かないところに飛んでいくはずだから・・・要するに諦めろって言われた。」
「そっか。それで返してくれたのね。」
「うん。」
「・・・翔ちゃん、眠くなったわ!」
「そうだね。おやすみ、姉ちゃん。」
「おやすみ。ナタプロ楽しみだわ!」
姉ちゃんが少し頭を上げてくれたので、俺は姉ちゃんの頭から右腕を外した。そしてその手を布団の中に入れて手をつないだ。見詰め合った姉ちゃんがすごく可愛くて、どうにかなりそうな気持を必死で抑えた。それから数分、天井に視線を向けていると徐々に体の硬直感が抜けて、姉ちゃんが俺の右肩に頭を寄せる様に寝返りを打って・・・俺は穏やかで心地よい眠気に身を任せ・・・たぶん眠りに落ちた。




