5-15 貸し出し要請が来た日(その1)~魅感の収録~
12月の第1週は2学期の期末試験で毎晩1夜漬の試験対策に追われる。学校からは姉ちゃんと2人で5時頃には帰って来る。それから夕食とお風呂タイムを挟んで5時間以上、姉ちゃんの部屋で現国、古文、漢文、英語の語学系と社会科系を、俺の部屋で数学、物理、科学の自然科学系の教えっこをするのだ。試験期間中は勉強している姉ちゃんと俺に、母さんと彩香が気を遣ってくれる。9時になると夜食はたいてい甘くてしっとりしたカステラと温かい牛乳たっぷりのミルクコーヒーだ。カステラが黒糖蒸しパンの時もあるが、ケーキになる事は無い。母さん曰く、生クリームは消化が悪くて、血が胃に集まって記憶力が低下するのだそうだ。
「カステラとコーヒー持って来たー!」
彩香が魔法瓶と牛乳パックをぶら下げてノックせずに入って来る。俺は決まって大袈裟なリアクションで入り口の彩香を見て、
「ビックリしたー・・・ノックしてくれよ。」
「お兄ちゃん、何か変な事してない?」
「してないよ。てか、お兄ちゃんだけじゃ変な事出来ないから。」
すると姉ちゃんが迷惑そうに言う。
「あら、それどう云う事かしら? 私を変な事に巻き込まないで頂戴!」
「あのねえ・・・まあそうだけど・・・」
彩香の後に続いて母さんがカステラとそれを取り分ける皿やマグカップを載せたトレイを持って入って来る。
「2人共、切りが良い所で休憩したら?」
「じゃ、お言葉に甘えて休憩すっか。」
「翔ちゃんはいつでも切りが良いからね。」
俺が受け取る時も無い事は無いが、たいてい苦笑しながら姉ちゃんが母さんからトレイを受け取り、母さんは微笑んで部屋を出て行く。そして、3人で仲良くカステラを食べてミルクコーヒーを飲む。彩香はミルクコーヒーを更に冷たい牛乳で薄める。俺も仕上げに牛乳を飲む。食べ終わると、3人で分担してトレイと食器類を持って1階に下りて、それらをキッチンに置いて、揃って洗面台に行って歯磨きをする。そして、彩香に『おやすみ』を言う。これが試験期間中の俺達3姉弟妹の夜の日課だ。
12時前には姉ちゃんと俺はそれぞれの部屋に帰って、自分だけの勉強をする。1夜漬だから、気持ち的には徹夜覚悟って所だが、俺は徹夜ってのが苦手ってか無理で、遅くても2時頃にはベッドに入った。姉ちゃんの方が睡眠不足には耐性があるみたいで、俺が『おやすみ』を言いに行くと、
「もう寝るの?・・・大丈夫なの?」
と言う。
「うん。」
と俺が返事した後で・・・ちょっと沈黙して見詰め合って・・・そして『約束のキス』をして自分の部屋に戻ってベッドに入る。実を言うと、もう加代との回数も日数も超えてしまっていたのだが、加代との比較はもうどうでも良くて、どっちかと云うと『約束』が『楽しみ』に変わり、『習慣』の域になっていた。だたひとつ、俺の右掌はまだ乳房には触らせてもらってない。当然、左掌もだが、無意識で事故った事が何回かあるのは否定しない。最近は先日の背中のプルンプルンの感触の記憶が時々フラッシュバックする。
話が1夜漬けでかつ余分な事に戻るが、主要教科以外の試験も内申に係るから侮れない。姉ちゃんと教えっこしていて、特に保健体育は、僧帽筋がどうとかの理論的な所はまあ良いとして、心と体の事は・・・副教科書にモロ図解が出てたりして・・・恥ずい。気まずい空気を振り払うために、お互い意識的に目配せをして、恥ズイ気持ちを克服する。しかし、ちょっと気を抜くと、意識が妄想領域に混入したり、『リアル見たい!』とか『リアル見たい?』とかの危険な感情が攻め込んでくる。とにかく、深夜2人きりでの教えっこだから、姉ちゃんも俺もエロい事に発展しない様に踏ん張るしかない訳だ。もちろん、全教科について情処研のデータベースのお世話になるって事に違いはない。
12月7日金曜日、5時限目の日本史のテストが最後で、期末試験が終わった。いつもの事だが、『期末より実力試験重視』という言い訳を唱えて、自分で自分をごまかして、クリスマスに続く冬休みに気持ちを飛翔させる。つまり、採点された答案が返されて、厳しい現実を突き付けられるまで試験に関する反省や悪夢を意識の外に追い出すのだ。
俺が放送室に行くと、1年の3人、つまりユウ、ケイ、雫がすでに来ていて、録音の準備を始めていた。1年の方が教科数が少ないから2年の俺達より試験が早く終わるのは当然と言えば当然だ。俺は調整室のドアを開けて、うっかり何も考えず、
「おはようございます。」
と言って入った。
「えぇーぇ?」
雫ちゃんがいつものブレスを抜いた怪訝な声で反応した。
「あ、ごめん。スタジオ入りのいつもの癖で。ここは『チーッス』だったね。」
「えぇー・・・『こんにちは』ですぅ。」
「そっか。」
そういって奥を見ると、ケイちゃんはユウに何か教わっている。どうやら、コンソールの使い方のようだ。俺がプロデューサー席に近付いた時、振り向いて、
「こんにちは、翔太先輩。」
「おお、こんにちは。今日はケイちゃんがミキサー?」
「はい。」
俺がプロデューサ席に座ると、ユウも振り向いて、
「すみません。僕ら練習みたいで。」
「ああ、良いって事よ。練習台はまあ俺達じゃなきゃな。」
「ありがとうございます。僕等がミスると怒る人も居ると思うんです。妙に真剣で。」
「えーっと、俺達も一応真剣に演奏する積りだけどね。」
「ぜんぜんOKです。そうして下さい。」
「ユウ君! すみませぇん先輩!」
入り口近くに居た雫ちゃんがハラハラ顔で苦笑した。
「翔太先輩、有難うございました。私、数学と物理、なんか良かったと思います。」とケイ。
「私もです。」と雫。
「おお、それは良かった。教えた甲斐が有ったって事だよね。」
「はい。またよろしくお願いします。」とユウ。
「ああ、何でも聞いてくれ。聞かれないと教えられないから。」
1年の3人は試験から解放された明るい笑顔と声だ。もちろん俺もだが。
「ところで、ギターやらは?」
「あ、ギターとキーボードはスタジオに移動しました。」とユウ。
「ありがとう。じゃあこれ、打ち込みデータ。」
「はい、了解しました。」
俺はユウにドラムスとベースとハイハットやシャラの打ち込みデータを入れたUSBメモリを渡した。そこへ順平が入って来た。
「おう、皆揃ってんな。」
『はい。』
「順平、今日はよろしく頼む。」
「了解。ってか、1年にほとんどお任せ。」
「だね。だけど、俺しばらくギター触って無いのがどう出るか心配。」
「テイク30は勘弁してくれよ!」
「いやいや、覚悟してくれ!」
「おいおい、冗談だろ!」
「高野先輩、SDは8ギガで良いですよね。」と雫ちゃん。
「ああ、十分だと思う。30テークは無いだろうから。」
順平はそう言って俺を見た。俺は照れ笑いするしかなかった。
「じゃあ、俺はスタジオで練習する。」
「了解。」
順平と俺はプロデューサ席を入れ替わった。そして、俺はスタジオに移動してギターを取り出してストラップを肩に掛けた。そこへ加代が入って来た。
「おはようございます。」
「おはよー」
そう言えばこの時、俺は何の違和感も感じなかった。お互いにもうすっかり業界の習慣が身に付き始めていたのだと思う。
「翔ちゃん、今日はオリジナルの2曲だよね。」
「うん。その予定。」
「このスタンド私が使っていいのかなあ?」
「うん。それボーカル用。椅子があったほうが良いか?」
加代は左手でスタンドを握って右手でマイクカヨ2をマイクスタンドのホルダーに差し込んだ。左手の薬指からブルーの光線がきらりと出たのが見えた。
「椅子は壁際にあれば良いわ。ところで、これの受信機要る?」
「ああ、そこのテーブルに出しといてくれ。」
「わかった。」
そこへ雫ちゃんが入って来た。
「モニターヘッドホン3つ持ってきました。」
「ありがとう。そこ置いといて!」
「はい。」
雫ちゃんはヘッドホンをテーブルに置いた。俺はギターを背中に回して1度しゃがんで、ギターマイクとキーボードのプラグをアナウンサー卓の下の接続ボックスに差してから立ち上がって、ギターを元に戻して抱えながら、マイクカヨ2の受信機を指さして、
「雫ちゃん、この受信機をユウに渡してくれ。マイクカヨ2のだから。」
「はい。」
「翔ちゃん、私、『マイクカヨ』って言い方あんま好きくないわ!」
「いやいや、『加代専用特別マイク』の愛称だから。」
俺はドヤ顔で加代を見詰めた。
「なんかしっくり来ないけど・・・仕方ない人ね。」
雫ちゃんは苦笑しながら受信機を取って興味深げに見ながら調整室に行った。雫ちゃんと入れ替わりに姉ちゃんがスタジオに入って来た。
「お待たせ・・・したかしら?」
「うん。かなり。」
「嘘!」
「うん。嘘。」
「もう!」
姉ちゃんと俺の視線が重なった。姉ちゃんも俺も期末試験から解放された嬉しさと気怠さがミックスした笑顔だったと思う。
「翔ちゃん、キーボードが今朝のところに無かったんだけど。」
「ここ。」
「あ、ほんとだ。もうセットしてあるの?」
「ACとラインは繋いだけど、音出しはまだ。」
「わかったわ!」
姉ちゃんはキーボードのスイッチを入れてGの和音を短く鳴らし、顔をあげて加代を見た。加代も姉ちゃんを見て微笑んだ。
「春香、どうだった? 期末。」
「まあまあかな?」
「良いなあ、あんた達は。」
加代はそう言って姉ちゃんと俺を交互に見た。
「何が?」
「教えっこしてるんでしょ?」
「まあね。調べる手間は少し省けるかも。」
「それ大きいと思う。」
「そうか?」
「うん。」
「そう言う加代はどうだったんだ?」
「ダメ!」
「何が?」
「数物!」
「言ってくれれば一緒に勉強したのに。」
「お邪魔しちゃ悪いかと思ったの。」
「加代らしくない遠慮だね。」
「そうよ、加代ちゃんも一緒の方が楽しいと思うわ!」
「じゃあ3学期は頼む。」
「ああもちろん。その代わり文学史と音楽理論教えてくれ!」
「良いけど期待しないで欲しい。」
「それはお互い様だって。」
そこへ雫ちゃんが戻って来た。首にインカムをかけ、右手にHVのビデオカメラを持っている。
「今日は私がADやりながら時々これで演奏模様のV撮ります。」
「了解。・・・えっと、早速だけど有線のマイクを1本用意してくれる?」
「はい。春香先輩の分ですよね。」
「流石その通り。キーボードの前にスタンドも頼む。」
「はい。て事は、ロングアームが良いですよね。」
「うん。雫ちゃんはもうプロの域だね。」
「何にも出ませんよーだ。」
「いやいや、俺、今マジで褒めたから。」
「有難うございますぅ。」
雫ちゃんはカメラをアナウンステーブルに置いて、満面の笑顔で調整室にマイクとスタンドを取りに行った。俺はギターを調弦しながら、何気なく雫ちゃんの後姿を見送って、ふと見ると姉ちゃんと加代が呆れ顔で俺を睨んでいた。俺はバツが悪くて、頭を掻いた。
こうして準備が整い、下手くそな俺のために、30分程の練習をした後、3人共モニターヘッドホンを被って、オリジナル曲を2曲収録した。結局、加代の希望通り、魅感は昼休みの不定期放送番組『校内ユニット紹介』の第1号になったわけだ。
「テイク3でOKとは予想外だったよ。」と俺。
「翔ちゃん、上手になったんじゃない?」と姉ちゃん。
「まあね。でも、たまたまかも。」
「自信無いんだ。」
「基本ヘタレですから。」
「なんか、わりと達成感あるね。」と加代。
「お疲れ様でした。加代先輩すごいです。聴き惚れちゃいました。」と雫。
「ありがとう。」
「スマホに入れて何度も聴きたいです。」
「5号さんだから許すわ!」
「有難うございます。」
「なんか、収録ってのもアリだね。」と俺。
「良いわね。うちの4階にも収録できる場所をお父さんに頼んでみるわ!」
「その出費、マスター泣くんじゃないか?」
「嬉しくてね。」
「おいおい。」
調整室の順平もユウもケイちゃんも皆笑顔だった。試験明けと言う事で、どうやら皆睡眠不足だ。1度プレイバックして問題無さそうだったので、その日は軽く片付けて解散した。当然だが、放送室を出る前に、姉ちゃんの赤いミラーレスに全員が収まったのは言うまでもない。
流石の加代も今日は休息するそうだ。なので、カラオケ無しって事になり、久我山駅を通り過ぎたところで加代と別れて、神田川沿いの道を姉ちゃんと並んで歩いた。両岸の桜の木立はもうすっかり冬枯れになって、川に生えている雑草も枯れ色になっていて、薄暗くなった川面に街路灯の光が揺れて流れる水の冷たさが想像できた。悠然と泳ぐ黒い真鯉の魚影がなんとか認識できたが、それも寒そうに見えた。そのせいか、姉ちゃんと肩が当たる位接近して歩くと、なんか暖かさが感じられて、気持ちが穏やかになる感覚だった。




