5-6 加代が壊れた日
10月27日(土曜日)の朝9時頃、加代からメールが来た。
『ちょっとキツくて今日の魅感の練習中止』と。
昨日加代は学校を休んでデビューの打ち合わせだと言っていた。先週のオーディションはダメみたいだったが、その後でスカウトされたそうだ。ひょっとしてそれと関係があって、何かあったんじゃないだろうか?・・・姉ちゃんと俺は心配になった。姉ちゃんがそれを確かめるメールをすると、『1人で考えたい』と言う返事だ。否定しないと言う事は、やっぱりそうだ。そう思うと、俺は胸騒ぎがひどくなった。
「姉ちゃん、俺エコサに行ってみる。」
「私も行くわ!」
「うん。」
30分後の10時前姉ちゃんと俺は田中ビルのエントランスで呼び鈴を押した。
『ピンポーン』・・・加代のお母さんが出た。
「おはようございます。中西です。」
「あ、翔太さんね。」
「はい。姉も一緒です。」
「春香さんも来て下さったのね。ありがとう。実は、今、連絡しようかと思っていたんです。」
「やっぱり何かあったんですね。」
「心配かけてごめんなさい。今主人が行きますから。」
詳しい事は判らないが、加代の周囲か加代自身に普通じゃ無い事が起こっているのは確かのようだ。しばらく待っているとエレベータが降りてきてドアが開いた。そして、思い詰めたような感じのマスターお父さんが出て来た。なんか目の下にクマがあるみたいだ。
「こちらです。」
マスターお父さんはエントランスを出て店に向かった。姉ちゃんと俺もマスターに続いた。
「中西君、君達だから明かしますが、加代が昨日から3階の307に閉じ籠って出て来ないんです。大きな音がするし、心配でして。」
「そうですか。俺達も加代さんから今朝来たメールで心配になって来ました。」
「それはどうもすみません。ご迷惑をおかけしますが、こんな事は初めてですし、私の言う事は聞いてくれそうもありません。」
「とにかく会ってみます。」
「すみませんがよろしくお願いします。」
俺達3人は開店前のエコーサウンドのフロントの前を通ってエレベータで3階に上がった。
エレベータの扉が開くとそこにはテーブルが2つ乱暴に重ねて置かれていて、バリケードになっていて、エレベータから出られない。マスターお父さんが大声で、
「カヨ、大丈夫か?」
「うっさい! 来んなって言ったろ!」
「中西さんが来て下さったんだ。」
「今会いたくないから、帰ってもらって!」
「カヨちゃん!」
「ハルちゃん、ごめん。1人にして!」
「俺だ、加代。何でも聞くから、話をしようぜ!」
「翔太・・・なんでお前が来るんだよ・・・翔太君は・・・」
加代の声が少し泣き声になった。『ビー・・・』エレベータがドア解放の警告を発した。
「1度ドアを閉めませんと。」
マスターお父さんがそう言ってドアの安全装置から手を放そうとした。
「俺だけ出ます。お父さんと姉ちゃんは何処かで待っててください。」
「わかりました。春香さんは家に上がって頂きます。」
「了解しました。」
姉ちゃんは俺の右手を両手で握って、俺を見上げるように見つめて、
「翔ちゃん、よろしくね。」
「うん。」
俺がバリケードの机を押して出来た隙間に体を滑り込ませると、間もなくエレベータのドアが閉まった。俺は3階フロアに這い出した。見ると、307号室の扉は散乱物が挟まって少し隙間が空いている。丁度いい。俺は扉の横の床に座って、壁に凭れかかって話し掛けた。
「加代、聴こえるか?」
「お前、何しに来たんだ!」
「何しにって、あんなメール送って来たら、心配するに決まってるじゃないか!」
「心配してくれなんて頼んで無い!」
「心配は頼まれてする様なもんじゃないだろ!」
「勝手にしろ!」
「ああ、そうさせてもらう。」
少しの間沈黙が流れた。
「加代は俺の相互援助のパートナーだ。」
「何の事だ?」
「お前が風邪をひいて休んだら俺がプリントを届ける。」
「訳が分からんことを言うな!」
「ああ、今のお前には解らんだろ!」
「知るか!だいたい、先生が勝手に決めた事だろ!」
「確かに指名したのは先生だったが、今はもう加代は俺の仲間でパートナーだ。」
少し間があった。
「加代の心が風邪をひいてキツイ事になってるんだったら、治るまで俺が毎日プリントとノートを持って来る。」
「ウザい。帰れ!」
「俺が加代に届けるプリントやノートには、加代が安心できるような解説が書き込んであるはずだ。」
「うるさい、勝手に都合の良い話を作んな!」
何かを蹴飛ばすような音がした。
「今の加代は加代じゃ無い。俺は俺が知ってる加代を取り戻すまで帰らない。」
「お前が私の何を知ってるって云うんだ!」
「何も知らない・・・けど、歌が俺をワクワクさせてくれる事を知った。加代のおかげだ。」
「なんだよ、それ!」
「それが俺が知ってる本当の加代だ。」
「・・・翔太のバカ!・・・ズルいよ、その言い方!」
加代の声が少し泣き声になった。
少しして、307号室の扉が開いた。加代が顔を出した。俺は座ったまま見上げるようにして加代を見た。少し目が腫れている様に見えた。
少しの間だったが、加代と俺の視線が重なった。
「何があったんだ?」
「CDデビューなんて大嘘だった。」
「どう言う事?」
「あいつ、エロいのが目的だったんだ。」
俺はそれについてどう言って良いのか解らなかった。少し間が空いた。俺は立ち上がって、
「大丈夫だったのか?」
「どういう事?」
「お前・・・その・・・」
「ああ、大丈夫だ。入り口で気がついて逃げてきた。」
「そっか。それは良かった。」
「ああ、スタッフも居ないし照明機材も無いのに何がジャケットの撮影だ!」
「ホテルだったのか?」
「ラブホ。最初からなんか変だった。」
「そっか。無事で良かった。」
俺はドアに手を当てて、
「そっち、入って良いか?」
「うん。」
307号室はひどい状況になっていた。テーブルも椅子もひっくり返り、DOMのカラオケマシンも倒れて散乱している。アンカープレートを引きちぎるとは有りっ丈の力の限りで揺すったのだろう。俺はそれを見て、
「かなり危ない事をしたんだなぁ・・・気は済んだのか?」
加代は俺の足を軽く蹴って、俺を見上げた。瞳に涙をいっぱいに溜めて、唇をかみしめるようにしている。
「悔しい・・・バカにされた。」
「・・・泣くか?」
「うん。」
そう言うか言わないうちに、俺にしがみ付いて大声で泣き出した。俺は加代を抱きしめた。・・・どれくらいそうして居ただろうか、やがて泣き止んだ。
「もういいのか?」
「うん。」
「大丈夫か?」
「うん。」
「そっか。」
俺は抱きしめた力を緩めた。すると逆に加代が俺に抱き付いた。
「翔太、わたしを抱いてくれないか?」
「どう云う事だ?」
「だから、最初の男になってくれる?」
「な、何を言い出すんだ!」
「わたしはタレントになりたい。」
「ああ、分かってる。」
「これから先、こんなキツイ目に遭う事が増えると思う。」
「駄目だ。そんなのおかしい。」
「半分はそういう世界なんだと思う。」
「もしそうなら、俺はそんな世界には行くなって言う。いや、行かせない!」
「嫌だ!なりたい。だから、翔太が私の最初になってくれ!」
そう言って加代は力を抜いて俺から離れた。そして着ていたTシャツを脱ごうとした。
「加代、しっかりしろ!」
俺は加代の両肩をつかんで、
「加代、クールダウンしよう!」
「私とするのが嫌なのか?」
「ああ、今の加代は俺の好きな加代じゃ無い。」
「その方が好都合だ。別れないで済む。」
「バカなこと言うな!」
「お前、それでも男か?」
「ああ、男だ。だから今は断る。」
加代はまた瞳に涙を溜めて、
「お前も私をバカにするんだな!」
「俺は加代をバカになんかしない。お前は物凄い才能を持ってる。だけど、今俺の目の前にいる加代はその加代じゃ無いから。」
「ふざけんな!」
加代は俺を平手で叩こうとした。俺はその手を掴んだ。意外に華奢な手だ。もう血は止まっているが、擦りむいた跡がある。手のひらにも切り傷がある。それを見ながら、
「無茶するなぁ!」
加代は突然また大声で泣き出した。俺は加代を緩く抱いた。加代は俺の胸に顔を着けて凭れて、俺の胸を拳で叩きながら泣いた。しばらくその状態が続いた。そして・・・泣き止んだ。
「もういいのか?」
「腹が立って、悔しくて。」
「そっか。俺で良かったら気が済むまで叩け!」
「・・・舞い上がってた。私が1番馬鹿だった。」
そう言って加代は俺を見上げた。俺はもう1度加世を抱きしめた。少しの間そうしていた。そして、加代の体の力が少し抜けたような感じがした。
「お帰り、加代。俺が知ってる加代だ。」
「ありがとう翔太。」
加代と俺は抱き合ったまま、しばらく見詰め合った。
「まずは片付けないとな!」
俺は加代から離れて部屋の奥に向かって、散乱した機材を元に戻そうとした。しかし、重くて、押しても引いても動きそうにない。仕方なく、軽い物から動かそうと思って、俺はあれこれ持ち上げて重さを確かめた。
「翔太、こっち。」
「ん?」
振り返ると、下着だけになった加代が居た。
「隣の306」
そう言って出て行った。
「ちょっと待て、加代!」
俺は慌てて脱ぎ捨てられた加代のTシャツとジーンズを拾って追いかけた。
306号室に入ると、加代がブラを外して、それをだらんとした左手に持って背中を向けて立っていた。俺はどうして良いか判らないまま立ちつくした。
「加代、頼む、正気になってくれ!」
「私は正気よ!」
しばらく気まずい沈黙が続いた。
「どうしても初めてになってくれないのか?」
俺は少し考えた。どうすべきか。
「条件が揃えばなっても良い。」
「条件って何よ!」
加代は首だけで振り向いて怒ったような瞳で俺を睨んだ。ゾクッとするほど可愛かった。俺は引き込まれそうになる気持ちから逃れるためだと思う。本能的に姉ちゃんを思い浮かべたような気がする。そして、少し間を置いた。
「加代は俺が好きか?」
「他の男よりはな。」
「加代が俺だけを好きになってくれて、俺も加代だけが好きになれれば・・・」
「それが条件か?」
「ああ。」
「わかった。」
「判ってくれてありがとう。」
加代は左手で胸を隠しながら振り向いて俺に抱き付いた。俺も加代を緩く抱いた。
「私は・・・翔太を1番好きになるわ。」
「俺は・・・俺は・・・」
「判ってる・・・私、判ってるのよ。お前は春香が好きなんだろ?」
「今はそうだと思う。」
「わかった。春香より好きになってくれるようにする。」
俺は一瞬躊躇したが加代を取り戻すためにと思ってあえて肯定した。
「うん、そうしてくれ。」
またしばらく緩く抱き合った。
「わかった。だから、今日はいい。」
瞳を涙で一杯にした加代が俺を見上げた。この時、加代はもうかなり冷静さを取り戻していたと思う。俺達は見詰め合った。これまでで1番可愛い加代だった。だが、次の瞬間加代がほとんど裸だと言う事に気が付いた。生で女子の乳房を見たのはこの時が初めてだった。
10分後、埃や油で汚れはいるが、元の服を着た加代を連れて6階に上がった。6階のエレベータホールの突き当りは自宅の廊下に繋がるドアになっていて、暗証番号を入れないとそのドアは開かない。
「翔ちゃん、見てて!」
「ん?」
「番号」
「なんで?」
「ここは勝手口みたいなものなの。」
「それで?」
「翔ちゃんならいつ入って来てもOKよ!」
「おいおい」
「いいから!」
加代は4桁の暗証番号『****』を押した。俺はそれを覚えた。加代の自宅に入ると、お母さんが最初に気付いて、近付いて来た。
「加代ちゃん、大丈夫なの?」
「うん。ごめんなさい。」
「そう。良かった。」
「翔ちゃんのおかげ。」
お母さんは加代を抱きしめた。加代は少し涙ぐんだ様に見えたが、もう大泣きをする程ではなかった。姉ちゃんも近寄ってきて加代の手を取った。
「加代ちゃん。」
「ハルカ、ありがとう。」
「うん。うん。良かった。」
マスターお父さんはホッとした様子で立ちつくしている。
「小父さん、たぶんもう大丈夫です。」
「有難うございました。」
「えっと、3階はちょっとひどい事になってます。」
「判ってます。片付けは私共でしますので・・・」
「加代、落ち着いたら手伝うよね。」
「う、うん。」
「あ、良いよ父さんがするから。」
「父さん、ごめん。手伝うから。」
「加代!」
加代とマスターお父さんの視線が重なった。マスターの目から1筋涙がこぼれたように見えた。俺はそれを見て、本当にもう大丈夫だと思った。
「お腹空いたでしょ!」とお母さん。
「そう言えばもうお昼ですね。」と俺。
「それじゃあ、当店自慢の肉入り焼うどんを作ります。」
マスターお父さんはそう言うとキッチンに向かった。
「加代ちゃん、シャワーしてきたらどうかしら?」とお母さん。
「うん。そうする。」
1時半頃、姉ちゃんと俺は加代の家を出た。いつものエコサのフロントからでは無く、玄関のエントランスからだ。久我山駅に向かって坂を下って、神田川に沿って歩いて帰った。
「翔ちゃん、お疲れ様。それから、ありがとう。」
「なにが?」
「加代ちゃんを説得してくれた事。」
「そんなんじゃないんだ。俺がした事。」
「どう言う事?」
「俺が説得したんじゃ無くて、加代は加代自身でいつもの加代に戻って来た。」
「なんか、よく解らないわ!」
「そうだね。うまく説明できない。」
「でも、やっぱり翔ちゃんのおかげだわ!」
「ううん。俺は結局何もしてないし、できなかった。」
「でも、翔ちゃんが行かなかったら、加代ちゃんはどうなってたか。」
「そうだね。俺だから戻ってくれたんだとしたら嬉しい。」
「うん。そうだよ! 翔ちゃんだからだよ!」
この時、とんでもない約束、つまり、『条件によっては加代の最初の男になる』と言うのをしてしまった事を姉ちゃんに言い出せなかった。
「ねえ、どうしてあんな事になったか聞いた?」
「うん。」
「私に言えそうな事?」
「そうだね、言っても良いけど、姉ちゃんが直接聞いた方が良いと思う。」
「聞けそう?」
「自信は無いんだけど、たぶんもう聞いても大丈夫だと思う。」
「そうね。じゃあそうするわ!」
「うん。」
今は少し暑い位だが朝晩はかなり肌寒くなって、神田川の両岸の桜や藤や広葉樹が黄色くなり始めていた。悠然と泳ぐコイも丸々と太った様に思う。穏やかな風とせせらぎの音が流れていた。いつも一緒に歩く道だけど、いつに無くゆったりとした気持ちで姉ちゃんと並んで歩けるのがなんか幸せな気がした。そのせいか、ゆっくり歩いて帰った。その時はそれが『嵐の前の静けさ』だなんて思いもしなかった。




