4-15 学校で朝を迎えた日(その1)~確かに空が青いね~
10月に入ると、暑い日が無くなって、ようやく秋めいて来る。三鷹台から久我山の間の神田川の両岸の木々はまだ青々としているが、上空の空の色と鱗雲がもう秋だと感じさせてくれる。この日は授業が午前中だけなので、姉ちゃんと俺はかなり気楽な気分で登校していた。
「翔ちゃん見て、鯉が大きくなったと思わない?」
「そうかなあ?」
「うん。大きくなったよ。」
姉ちゃんはスクールバックから赤いミラーレスを取り出して鯉を狙ってシャッターを押した。
「ダメだわ! 水面が光って映らない。」
「どれどれ!」
「ほら。」
「本当だ。」
「川に降りれば綺麗に映るかもね。」
「いや、もっと簡単確実に写す方法があるよ。」
「どうするの?」
「偏光フィルターをレンズに取り付ける。」
「そんなのがあるの?」
「うん。この前レンズ保護のフィルター買っただろ!」
「買ったね。確かニュートラル・カラーよね。今も付けっぱなしだわ。」
「あれと同じ様なので、偏光フィルターってのがあるはず。」
「じゃあ、今度買いに行くわ!」
姉ちゃんは赤いミラーレスをスクールバックに入れて振り返って俺を見た。甘えるように微笑んだ姉ちゃんがとても可愛く見えた。
「付き合えだろ!」
「うん。」
「はいはい。」
姉ちゃんと俺は左に曲がって神田川を渡り、井の頭線の踏切を渡った。久我山駅の出口を通り過ぎた坂道で珍しく田中加代に声を掛けられた。
「おはよう中西君、ハルちゃん。」
振り返ると、加代はスクールバックを左肩にかけ、小さなピンクのキャスター付スーツケースをゴロゴロ言わせて引いている。
「おお、おはよう。」
「おはようカヨちゃん。」
「田中にしては早いじゃん。」
「うっさい! 速く来たら悪いか?」
「その逆だよ。秋になって涼しくなったから心を入れ替えたんだね。」
「ウザ!」
俺の視界にピンクのスーツケースが入った。
「ところでそれ何?」
「スーツケース」
「判り易い解説ありがとう。できれば中身について詮索させてください。」
「何でも良いだろ!」
「さよか。まあ、何でも良いけど、いい天気だ。」
「そうだねー。明後日の学園祭が終わるまで良い天気だと良いわね。」
「ハルちゃんは何すんの?」
「写真部だから写真展よ! あ、そうだ、記念に1枚。」
「記念って?」
「ああ、最近の姉ちゃんは何でも記念なんだ。」
「初めて加代ちゃんと一緒に登校した記念。」
そう言うと、姉ちゃんはスクールバックから赤いミラーレスを取り出して構えた。加代はどういう訳か上機嫌で、俺と腕を組んだ。
「良いねー加代ちゃん、その表情!」
「良いでしょ。可愛く撮って!」
「翔ちゃんもうちょっと加代ちゃんに寄り添って!」
「へいへい。新婚旅行かって感じで・・・。」
「何だって?」
「いえ、なんでも無いです。」
姉ちゃんはすっかり山内さん状態だ。別のポーズも要求するだろうと思ったら、意外にあっさりと赤いミラーレスを差し出した。
「はい、翔ちゃんの番!」
「了解。」
俺はそれを受け取って、姉ちゃんと加代を撮った。今度は姉ちゃんが加代の腕に絡まった。
「姉ちゃん、加代ちゃん。こっち見て! ハトが出るかも!」
「はい。」
「面倒クセ―!」
「いいねえ。その嫌そうなカメラ目線!」
「うっさい!」
「その謎のスーツケースを前に出してみて!」
「こうか?」
「いいねえ、その表情!」
「スーツケース関係ないじゃん!」
「あるよー! 加代ちゃんの本当の表情を引き出してくれる!」
「アホらし!」
「加代ちゃん、翔ちゃんはプロのカメラマンの真似してるのよ。」
「はい、終了。お疲れー!」
俺は加代に睨まれながら赤いミラーレスを姉ちゃんに返した。この数か月で、俺は加代のこの面倒臭そうな目つきや言い回しが実は嫌がってんじゃ無いって事がもう解るようになっていた。だた、照れ隠しっていう感じとは少し違う。本当に嫌がってる事もあるからだ。つまり、要するに核心はまだ解らない。
「ねえハルちゃん、どんな展示なの?」
姉ちゃんは赤いミラーレスをスクールバックに入れながら、
「『風景と人物と競技と生活』って云う題の組み写真展なの。」
「ふうーん。ごめん、よく解らない。」
「見に来て! きっと解ってもらえるわ。」
「うん。そうする。」
俺は一緒に歩いているのに放置状態だ。
「あぁー、空が青い。そして、雲が白い。」
加代はチラッと俺を見て、
「面倒くさい奴だな! しょうが無いから、ついでに聞くけど、中西君は何すんの?」
「放送。」
「なんだよそれ、馬鹿にしてんのか?」
「生徒会、つまり学祭実行委員会の裏方。連絡案内放送。お待ち合わせの放送。迷子の放送。マイクの電池の管理。録音補助。え・と・せ・と・ら!」
「なんか報われないね。」
「田中もそう思うだろ!」
「ああ。・・・あ、そろそろ私の事『カヨ』で良いわ。」
「いいのか?」
「ああ。その代り。」
「おぉ、翔太で良いぜ!」
「あら、良かったね。翔ちゃん。」
「うん。・・・でな、俺達は今日の午後のリハから明後日のファイヤーの後までずうーっと裏方。溜息ばっかサ。」
「ご苦労様。」
「おおぉ、加代に労われた! これ快挙ジャン!」
「ねえハルちゃん、あんた、弟ウザくないか?」
「慣れよ!」
「あのねえ、姉ちゃん。」
「お互い様よね、私達。」
「まあね。」
加代は空を見上げて、
「確かに空が青いね。」
「だろ! 何でか知ってるか?」
「秋だからだろ!」
「へへへ、不正解。」
加代はプライドを傷つけられたと思ったのか俺を睨んだ。実はそれが狙いだったりする。
「じゃあ何でよ!」
「これはレイリー散乱つって、空気の小さい粒子で短い波長の光が散乱されるから、それが地表に降り注いで人間には青く見える。」
「面倒クセー!」
「なあ、ついでに、なんで雲が白いか知ってるか?」
「水蒸気だからだろ!」
「ブッブー」
「なによ!」
「お、乗って来たな!」
「乗ってない!」
「加代ちゃん、聞いてあげて! 喜ぶよ!」
「本ーん当、面倒くさい奴だ。・・・んで?」
「良く聞いてくれた。ミー散乱さ! 大きい粒子で全波長の光が一様に散乱されるから白く見える。」
「やっぱウザいわ! 聞くんじゃ無かった。」
「まあそう言う事さ!」
そう言って加代を見て微笑むと、加代も微笑んでいた。苦笑だったかも知れない。
俺達は坂道を上り切って右に少し歩いてから左に曲がって、いつもの校庭の横の生垣に沿った道に来た。『パコン・パコン』と庭球部の朝練の音が響いている。
「そう言えば加代は軽音の『なんチャラ』でボーカルするんだよな?」
「いきなり呼び捨て?」
「え! ダメか? 2回目だぜ!」
「まあ良いよ、翔太。」
「ありがっとう!」
「だけど、なんで知ってんの?」
「そら、放送部だから。」
「ライブのスタッフもやんの?」
「音響に関しては俺等が一般実行委員に指示出すんだ。」
「そらどうもご苦労さん。」
「で?」
「ああ、2曲。」
「それは是非聴かんとな。しかもトリだからな!」
「うん。そうらしいね。オーディションでそう言ってた。」
「やっぱ加代は凄いな。1年にして久我高のディーヴァだもんな。」
「何も出ないから。」
「なあ、俺をファン1号にしてくれ!」
「じゃあ私を2号にしてね。」
「姉ちゃん、今の言い方・・・別の意味に聴こえる。」
「翔ちゃん!」
「すいません。」
「じゃあ、私が1号で翔ちゃんが2号にしよう。」
「ああ、それが良い。2人共私の最初のファンね。」
「ああ、加代の最初のファンになれるんなら、どっちでも良いや!」
そう言って加代を見ると、今度は本当に嬉しそうに微笑んでいた。と思う。俺達は右に曲がって校門に入り、それぞれの教室に向かった。
・・・・・・・・・・
放課後、俺はいつもの様に放送室に居た。いつもと違うのは、3年の村井部長と松森副部長とアナウンサーの池内先輩が久しぶりに来ている事だ。まずは部長のお言葉だ。
「いよいよ学園祭だ。放送部が最も活躍できる日なので全力で当たろう。それで、今配ったのは実行委員会のタイムテーブルのコピーだ。エントリー名は色々だが、まあ例年の通りだ。1年は基本的に調整室を担当するから、これまで校内行事で習得した様にセットアップすれば良い。手順は要するにQシートの例に従えば良い。」
『了解です。』
「なにか質問はないか?」
俺は率直に疑問を投げかけてみた。
「部長、この実行委員会のタイムテーブルによりますと、ずうっと裏方なんですけど。」
「そうだよ! それが何か?」
「放送部としての活動は何かしないんですか?」
松森副部長がそれに答えた。
「しない。昔は校内限定の『FM久我高』ってのをやってたがね。」
「ああ、それ良いっすね。」と順平。
「ダメだね。誰も聴いてくれない。FMラジオなんか持ってる奴はもう絶滅した。」
「それもそっすね。」
順平は従順だが俺はFMに連想して思い付いた。
「ネットラジオならスマホでOKなんでは?」
「残念だが情処研が既にやってる。それに、もうサーバーの準備が間に合わんだろ!」
「ですね。」
なんか俺も従順だったりする。
「じゃあそれ、来年やろうぜ!」と順平。
「まあ、来年の事は任せる。」
その時、横山先輩が満面の笑顔で、封筒を頭の上で振りながら、
「1年喜べ! 今年の予算は例年より何と1万円多い3万円だ!」
「本当か?」と松森先輩。
「はい。8ギガのSDカード10枚とコンデンサマイク2個と、何と何と、2テラのUSBハードディスクが承認されました。」
「そら快挙だな!」
俺の脳裏に親指を立てて『グッジョブ』と言っている立川先輩の笑顔が浮かんだ。
「さて、これからリハが始まる。今日は基本的にマイクワークの確認だ。頼むぞ!」と村井部長。
「にわか劇団や素人漫才が相手だから、時間厳守で厳しくやってくれ。」と松森副部長。
「反発来ませんか?」と俺。
「徹夜覚悟なら良いけど!」
「あぁ、それはちょっと。」
「中西君は講堂担当、高野君は体育館、本部の連絡放送は横山さんと私で良いわね。」
「えっと、部長と副部長は?」と順平。
「放送室でベンチウオーマーじゃ!」
「ええぇー」
「ヘルプは遠慮なく言って良し。」
「はい、了解です。」
「それでは、ミッション開始!」
この号令で俺達はそれぞれ持ち場に向かった。
学園祭の準備は前々日の午後つまり今から本格的に始まるのだが、実行組織は1か月前から既に始まっている。まず、夏休み明けの9月初めに生徒会がヘッドになって実行委員会が召集され、1年と2年の全クラスから2人ずつ選出された一般実行委員が集まる。その場でタイムテーブル暫定版が配布され、それに担当するミッションが書かれている。一般実行委員はそれを見てどれを担当したいか希望を出す。俺達放送部員は伝統的に生徒会直轄の音響担当の実行委員に組み込まれている。直轄実行委員は担当するミッションの責任者兼相談役(クレーム窓口)として行動することになっている。9月最終週に生徒会と教職員合同名でタイムテーブルの最終版が出されて、それに沿って準備が本格化するのだ。つまり、今日は準備の追い込みが本格化する初日だ。




