4-6 スカウトされた日(その4)~本契約~
井の頭公園から家まで20分程かけてゆっくり歩いて帰った。それでも結構汗をかいた。井の頭公園の池から続く神田川の浅い流れに沿って暫く歩くと、井の頭線の踏切がある。それを渡ると、いつも乗っている井の頭線の線路を見下ろす切り通しの上の道になる。少しくすんだ金属光沢の電車が何本か行き来するのを眺めながら歩いた。電車と線路が作り出すリズミカルな騒音が心地よく聞こえた。
「この頃はここ、あんまり歩かなくなったね。」
「そう言えばそうだね。」
「小さい頃は公園に行くの、必ずここ通ったわ。」
「今はたいてい電車で行くからね。」
「私たちいつの間にか年をとったんだわ!」
「いやいや、『パスモ』のおかげだよ。」
「どうして?」
「電車代に苦労しなくなったし便利になったて事じゃない?」
「そうかしら。」
「まあ、確かに、あの頃体一杯にあった元気な気持ちが消えたかも。」
「元気がなくなったって事?」
「必要無くなったって云うのが近いかも。」
「元気が必要なくなるの?」
「ある意味ね。でも多分なんか別の気持ちに置き換わったんじゃないかと思う。」
「どんな?」
「解らない。小さい頃考えて無かった様に、今はまだ判らないんだと思う。」
「・・・久しぶりに翔ちゃんの禅問答ね。」
「そうだね。」
そう言って、線路側を歩いている姉ちゃんを見た。姉ちゃんが微笑んでいた。神田川と井の頭線を吹き抜けて来る生暖かい風が姉ちゃんの前髪を撫でて通って行くのが見えた。ハッとする程可愛く見えた。心地良い風だった。
4時頃家に着いた。彩香が待ち構えていた。
「おかえりー」
「おお、ただいま。」
「ただいまサヤちゃん。」
「お姉ちゃん。どうだった?」
「うん。楽しかったよー。」
「いいなあ。彩香もモデルしたいなぁ。」
「そうだね。大きくなったらきっとできるよ。」
俺達はリビングのソファーに座った。
「お母さん、ただいま。」
「お帰り。どうだった?」
「面白かったわ!」
「どんな風に?」
母さんのこの質問で姉ちゃんの囀りに火が付いた。
「あのね、学校みたいなスタジオなの。」
「どういうこと?」
「スタジオが学校そっくりの廊下や教室になってて、学校を借りて撮影してるみたいなの。」
「へえー、そうなの。」
「翔ちゃんが先輩で私が後輩役だったんだよ!」
「あら、そうなの。演技もあるのね。」
「うん。そんな雰囲気でって。ネ、先輩!」
「それ、もう止めてくれ!」
「あなた達の他にもモデルさんが居たの?」
「ううん。2人だけよ!」
「学校なんでしょ?」
「授業中っていう設定ならそんな事もあるかも知れないわ。」
「じゃあ今日は?」
「えっと、放課後よね。」
「うん。」
姉ちゃんのハイテンションはまだ続く。
「でね、カメラマンの山内さんが、何をしても、良いイイって褒めちぎるんだよ!」
「あーぁ、彩香も行きたかった。」
「うん。うん。いつか一緒に行こうね!。」
「それでね。わたし初めてセラー服着たの。翔ちゃんは学生服着たんだよ。」
「それはお母さんも見てみたいわ。」
「翔ちゃん、カッコよかった。」
姉ちゃんは俺を見た。俺にも感想を述べろという視線だ!
「姉ちゃんも・・・可愛かった。」
「あらら、ご馳走様。」
「でね。」
そう言うと姉ちゃんはまた俺を見た。何か言いたくて仕方が無いって様子だが、俺には嫌な予感だ。だから俺は身構えた。
「翔ちゃんたら、私の胸覗こうとしたの。」
「おい!、そんな事してねーよ!」
「あら、そうだった?」
「事故だよ、事故。」
俺は少し狼狽したが、母さんはさすがに大人だ。
「2人とも、楽しそうで良かったわ!」
この肩透かしでようやく姉ちゃんのテンションが通常時状態になるかと期待したが、駄目だった。
「でね、でね、その間ずうーっと山内さんがパシャパシャってシャッター切るの。」
「ものすごい数の写真だよね。」
「あれ後で全部見るのかなあ?」
「見るだけでたいへんだね。きっと。」
「はい、ジュース」
「あっ、ありがと 母さん。」
「ありがと」
「彩香も要る?」
「要る。」
「はいはい。」
その時思い出して、姉ちゃんは俺の肩を軽くたたいた。
「あっ。翔ちゃん。あれ!」
「お、そうだね。」
「サヤちゃん。ちょっと早いけど、お誕生日おめでとー、お兄ちゃんとお姉ちゃんからだよー」
姉ちゃんはポーチを開けてプレゼントを取り出して、それを彩香に渡した。
「あら、よかったねー彩香ちゃん。」
「あー、ありがとう。何かなあ?」
「開けてみて!」
彩香は包みを丁寧に開けた。
「ワー、綺麗。ブローチだ。」
「そうだよー。この前写真撮った時の服に合うと思うよ!」
「ありがとう。お姉ちゃん。」
「い、一応お兄ちゃんも分担してるんだけどね。」
「ありがとう。お兄ちゃん。」
彩香は俺に抱き着いて左の頬にチューをした。なんか、彩香の嬉しそうな顔を見ると『お小遣い』にしなくて良かったと思った。
「良かったね、翔ちゃん。」
「ああ。喜んでくれた。」
「ちがうよ。チューだよ。」
「まあね。」
「翔ちゃんが一番嬉しそう。」
「好きに言って!」
彩香のこの行動でようやく姉ちゃんのテンションが通常時のレベルに落ち着いたと思う。やっぱり俺達は何かと彩香が要なんだとう。
「そうだ、姉ちゃん、あれ。」
「なに?」
俺は吉村さんが姉ちゃんに封筒を渡す仕草を真似して見せた。
「あ、謝礼ね。」
「うん。」
姉ちゃんはポーチから吉村さんに貰った封筒を取り出した。
「お母さん、今日の撮影の謝礼を貰ったの。」
そう言って母さんに封筒を渡した。母さんはそれを受け取って、
「あら、1万円も?」
「そうなの。」
「それ、俺と折半。」
「そうね。でもお父さんに見せてからね。」
「やっぱりそうなりますか。」
「あら、私は当然だと思うけど?」
と姉ちゃんは正論を言うけど、俺は別の流れを想像していた。
「なんか、分け前が無くなりそうな予感が・・・」
「そんな事無いわよ!」
「そう願います。」
母さんは俺達のやり取りをいつもの様に笑顔で聞き流して、
「ところであなた達2人共、汗かいたんじゃない?」
「うん。いっぱい。」
「じゃあ、お風呂ね。」
「はい。翔ちゃんお先にどうぞ!」
「えっと、湧かす?」
「ううん、シャワーで良いわ。」
「じゃあ俺が先の方が速いね。」
「サヤも!」
「おお、良いぞ!」
「彩ちゃんはお姉ちゃんと入ろ!」
「うん、良いよ!」
「そうですか。」
姉ちゃんはニヤリとして俺を睨んだ。
「か、勘ぐり過ぎですから。」
「そうかしら?」
「へいへい、1人で入りますから、ご安心を。」
俺がシャワーを浴びて部屋着に着替えて出て来るのと入れ替わりに姉ちゃんと彩香がシャワーに向かった。それを見送って、冷たい牛乳を飲みながら、ホッとしてテレビをつけようとリビングに行くと、電話が鳴った。俺は仕方なく牛乳をローテーブルに置いて、テレビの左横の子機を取った。
「もしもし」
「あ、中西さんですか?」
1度覚えると忘れられない野太い声だ。
「あ、吉村さん。翔太です。」
「採用が決まりました。おめでとう!」
「ヤッタ、そうですか!」
思わず左腕にガッツポーズが出た。俺の弾んだ声で母さんがこっちを見た。
「お父さんはまだお帰りでは?」
「まだです。」
「お母さんは?」
「はい居ます。代わりましょうか?」
「お願いします。」
俺はこっちを見ている母さんに
「吉村さんから電話。」
「そう。」
俺は母さんに子機を渡してソファーに座った。そして牛乳を手前に移動した。危うくこぼしそうになった。母さんは吉村さんと電話で何かの予定と時刻を決めた様だった。
・・・・・
7時過ぎに親父が帰って来ると再び今日の出来事の報告会になった。親父は心配してたみたいだが、俺達が楽しそうに話をするので、安心したみたいだった。この日はいつもに増して賑やかな夕食になった。心配していた謝礼はあっさりと折半でOKになった。俺はなんか親の特権で没収になるような予感がしてたから、ホッとした。
「ほらね、ちゃんと見せた方が良いでしょ!」
「まあね。」
「何だ?なんか問題があるのか?」
「いや、何でもない。」
「とにかく、こんな簡単にお金が稼げるなんて普通無い事だから世の中を甘く見るんじゃあないぞ。」
「判ってますって。それより親の特権行使の方が心配だったよ。」
「なんだ?その親の特権って。」
「だから、『とりあえず預かっておく』ってやつさ。帰ってきた例が無いアレ。」
「無駄使いが目に余るようだったらそれも仕方ない。」
「俺は必要な無駄使いしかしませんから。」
「翔ちゃん、それこの前も言ってたけど、なんか変!」
「ムズい話になりますが、人間には無駄も必要と言う事です。」
「翔太、それ以上の説明は空しくなるぞ!」
「へい。その通り!」
「ばかね。」
「はい、麦茶。」
「ありがとう母さん。」
「サヤも要る。」
「はいはい。」
夕食後母さんはリビングに掃除機をかけた。姉ちゃんも散らかっていた新聞や広告を片づけた。それから、姉ちゃんも俺もジーンズにTシャツの格好に着替えた。そして、8時半頃雑誌社の吉村さんが来た。リビングで本契約をするらしい。
「これが契約書と保護者同意書です。」
親父は契約書を手に取って読みながら、
「私どもの条件はちゃんと記載されてますよね。」
「はい。一通り要点を申しますと、撮影では2人一緒、水着無し、下着無し、過渡な露出も無し。それから、付帯事項といたしまして、本誌のプライバシーの保護努力が主題です。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「契約内容につきましてご了解頂けましたら、ここにお父様とご本人様達の署名捺印をお願いします。2部あります。」
「契約書類はこれだけですか?」
吉村さんは鞄からもう一つ種類を取り出してテーブルに置いた。
「契約書の主体は以上ですが、こちらに報酬に関する覚書別紙があります。」
「どういう事ですか?」
「報酬、つまり『ギャラ』については今後の状況で変化しますので、本契約書と別に取り交わす事になっています。」
「つまり、同意なしでも変えられると?」
「いえ、被支払者が未成年ですから、変更の都度、関係者全員つまりご本人様と保護者であるお父様と弊社の同意署名を取り交わす事になっています。疑義が生じた場合は遠慮なく申し出てください。双方誠実に話し合うことが記載されています。それでも争議に発展する場合の裁判所は武蔵野地方裁判所となります。」
「そうですか。」
「今回は、年間契約料がお1人30万円で、日給がお1人4万円です。」
「思っていた金額よりずいぶん良い条件ですね。」
「実はそれ程でもありません。お2人の評価はもっと良くなると思われますが、ここからスタートさせてください。」
「そうですか。・・・いいかい2人共。」
「うん、俺は良いと思う。」
「わたしも良いわ!」
「年間契約料をお支払いいたしますので、本誌専属と言う事になります。」
「あ、例の件ですね。わかりました。」
「それから、お2人共お父様の扶養ご家族ですから、必要になった場合は証明書類をお届けしますので、お父様は御面倒でも年末調整か確定申告をお願いします。お2人は弊社社員ではありませんし源泉徴収の対象でもありませんので。」
「わかりました。」
「それでは、ご一読していただきまして、ここにお2人それぞれの振込銀行名、口座名義、講座番号と署名捺印をお願いします。」
俺達は契約書と覚書別紙に必要事項を記入し、署名捺印した。普段からもっと綺麗な字が書けるように練習しておくべきだと思ったが、時既に遅い。ちょっとハズい字を書いてしまった。吉村さんは鞄からまた書類を取り出して確認し、それをテーブルに置いた。
「最後に、学校にこの届出書を提出する必要があります。」
「そうなんですか。」
「都立ですから、この様式で校外活動の届け出をする必要があります。」
俺達はその書類を初めて見た。
A4用紙1枚にどんな事をするのか、つまり、要するに、『雑誌モデル』をすると書いてあった。
「本誌が関係する部分は記入済みですので、ご一読いただきまして、問題がありませんでしたら、宛先を校長先生にして、お父様とご本人の署名捺印をしていただき、担任の先生に提出してください。1人1部必要になります。」
「判りました。」
「あ、提出前の物のコピーが頂けると助かります。」
「では、そうします。」
「そうか、提出前に私に連絡してください。コピーを取ります。」
「コピーなら私の方でもとれます。」
「どちらでも結構ですので、よろしくお願いいたします。」
「判りました。」
「何かご質問はありませんか?」
俺はその言葉を待っていた。
「早速ですが、ちょっと良いですか?」
「はい、何なりと。」
「撮影はどれくらいの頻度ですか?」
「そうですね、毎月1日か2日です。なるべく土曜日1日で済ませる予定ですが、撮り直しと言う事もあります。その時はあと半日か1日延長になります。特集号などの企画もありますから、その都度事前にご相談させて頂きます。」
「判りました。」
数秒の沈黙が流れた。
「何か判らないことが出て来ましたら、どんな事でも結構ですので、ご遠慮なく私に言ってください。・・・それではこれで失礼いたします。」
「ご苦労様でした。」
「今後ともよろしくお願いいたします。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「カメラの山内も編集の長谷も本当に良いモデルさんに出会えたと喜んでいます。」
吉村さんはそう言って、氷が解けてしまった麦茶を一気飲みして帰った。
親父と綾香母さんはローテーブルに置いてある契約書類を読みながら、
「契約って大変ね。」
「まあね。だけど、これで相手のレベルが分かるんだ。」
「そうね。結構しっかりした会社の様だわ。」
「しかも、こちらの言い分をほとんど反映してくれているしね。」
「ところで、親父、契約金とギャラは俺達が貰っていいんだよね。」
「どうしようか、高校生にしては大金だ。」
俺は全額は無理でも、半分くらいはと期待した。
親父は少し考えていたが、
「まあ、お前達がした仕事の報酬だから好きに使えばいい。」
「やったー、ありがとう親父!」
「ただし、そうだな、1万円を超えるような買い物をする時は事前に話し合おう。」
「ええー、1万円?」
「なんだ、不満か?」
「姉ちゃんはいいの?」
「いいよ!、これまで1度に1万円も買い物したこと無いし。」
「仕方がない。そこからスタートで。」
その時、その会話を嬉しそうに聞いていた母さんが、
「だけど、契約金はちゃんと貯金しとこうね。」
「そうするわ。翔ちゃんもね!」
「へい、了解しました。」
「お兄ちゃん、サヤにも何か買ってね。」
「ああ、もちろん。」
「わーい!」
ちゃっかり彩香に早速ピンハネの約束をさせられてしまった。
・・・・・
その夜の9時頃、俺は気になる事があって、姉ちゃんの部屋に行った。
「姉ちゃん、入っていいか?」
「・・・・・」
寝ちゃったのか返事が無い。
「仕方がない。明日にするか!」
そう呟いて自分の部屋に帰ろうとして振り返ると、姉ちゃんが居た。
「わ!、びっくりした。・・・トイレ?」
「そんなのどうでもいいでしょ!、何か用?」
「いや、ちょっと。」
「入って。」
おれは部屋の真ん中に座った。姉ちゃんはベットに座った。
「どうしたの?」
「今日さ、姉ちゃん怒ってたから。ちゃんと謝ろうと思って。」
「なんの事?」
「そのー・・・胸の事で。」
「なんで?、怒ってないって言ったでしょ!」
「声は怒ってた。」
「そっか。わかるんだ。」
「わかるよ。」
「そうね、あの時はたぶん、山内さんが言ったみたいな翔ちゃんになって欲しくなかったの。」
「『見て見ない振り』の事?」
「そうよ。そんなむっつりスケベのキモオヤジは嫌だから。」
「俺、ならない。・・・と思うよ!」
「そう思うわ!・・・でも影響されやすいでしょ!、山内さんに比べたら私達まだ子供だから。」
「まあね。いつのまにか業界人って事にね。」
姉ちゃんがなんか思いつめたような真顔になった。
「翔ちゃん。ちょっと動かないでね。」
そう言うと、姉ちゃんは俺の後ろに来て、膝をついて、両手を俺の両肩に置いた。そして、俺に少し体重をかけて、耳元でこう言った。
「動かないでね、絶対だからね。」
俺はどう反応すればいいんだ?
「姉ちゃん、どうしたの?」
「あのね、翔ちゃん。・・・わたし、本当の事言うね。」
「・・・うん。」
姉ちゃんは大きく息をして何か決意したみたいだ。
「わたし、翔ちゃんに裸を見られても、たぶん嫌じゃないの。・・・でも、恥ずかしいよ。・・・だから見ないで欲しいわ!。」
「・・・えっと、聞いてもいい?」
「なに?」
「俺じゃ無かったら?」
「たとえば、順平君だったらたぶん嫌だわ。絶対見られたくない。」
「事故でも?」
「事故なら仕方ないわね。」
「事故なら仕方ない・・・か。」
「なんか妄想してない?」
「してません。」
「あのね、事故でも嫌な人は居るのよ!、誰とは言わないけど。」
「えっと、つまり、そのー、話をまとめると、」
「わたし、翔ちゃんが好きだから。だからお願い。これからもずっと大好きな翔ちゃんで居てください。」
「わかった。俺も姉ちゃんが大好きです。」
「ありがとう。」
「俺の方こそ、ありがとう。姉ちゃん。」
今日は本当に姉ちゃんには驚かされてばかりだった。カッコ良かったし、可愛かったし、そして今はものすごく大人に見える。姉ちゃんはなんか俺よりずっと先を行ってるんだなあと思った。俺は姉ちゃんをずっと好きで居る事には自信がある。恩人だから。でもこの時、姉ちゃんにずっと好きで居て欲しいと思っている自分に気がついた。




