3-25 調律した日(その2)~音楽一家~
姉ちゃんの弾んだ声がだんだん近づいて来た。ピアノの音が良くなったのが余程嬉しいんだと思う。とにかくなんかとっても嬉しそうな声だ。そして・・・目が覚めた。寝ぼけた状態で声がする方を見ると、ダイニングで姉ちゃんが満面の笑みで俺のマグにコーヒーを注ぎながら、
「翔ちゃん、起きて!、コーヒー入れたから。」
「ありがとう。」
いつの間にか彩香のレッスンは終わっていて、俺の隣で絵本を読んでいる。そう言えば俺が幼稚園の年中組の頃は絵本の文字読めたっけ?・・・彩香は俺よりかなり頭が良いのかも知れない。なんて思っていたら、
「お兄ちゃんこれ読んでくれる?」
「え?、良いけど、読めないのか?」
「うん。数字は解るけど。」
「そっか。でも、後でな、コーヒ冷めるから。」
「うん。」
そこへ姉ちゃんが彩香の牛乳と俺のコーヒーと砂糖入れとミルクとスプーンをトレイに乗せて持って来た。それをローテーブルに置いて、正面に座った。
「それ飲んだら出かけるからね。」
「何処へ?」
「吉祥寺の楽器店」
「ふぅーん。」
俺は生返事をしてマグのコーヒーに砂糖を入れた。そしてスプーンで数回かき混ぜてミルクを入れ、白い渦を確認して、そのマグを口に運んだ。姉ちゃんはその様子をじっと見ていたが、
「翔ちゃん他人事じゃないのよ!、ギター買いに行くんだから。」
俺はコーヒーを口に含んでいた。それを思わず勢いよく飲み込んだせいで、咽そうになりながら正面の姉ちゃんを見た。
「えっ?」
「買って良いって。お父さんが。」
「どう言う事?」
「お母さんがメールして聞いてくれたの。」
「ほんと?」
俺はダイニングの母さんを見た。母さんはにっこり微笑んで、
「今日これから皆で出かけましょう。明日は雨らしいから。」
「やったぁ!」
俺は小さくガッツポーズした。
40分後、親父を除く中西家の4人は吉祥寺の南口から西に5分ほど歩いた楽器店に居た。色々な楽器が所狭しと置いてある。ギターは2階の壁や窓際にずらりと展示してあった。高級品はさすがに手が届かない壁の高い所に展示してある。姉ちゃんも俺も彩香も手が届く範囲のピカピカのギターを恐る恐る手に取って、抱えたり鳴らしたりした。
「ギターって種類沢山あるのね。」
「姉ちゃんが今持ってるの、クラッシックギターだね。」
「どこが違うの?」
「ネックが太い。」
「ネック?」
俺はエアギターの様に左手でネックをしごく様にしながら、右手人差し指でそこを示した。
「ああ、ここね。」
「そう。」
「翔ちゃんはどんなギターが良いの?」
「当然、フォークでしょ。」
「それは何処にあるの?」
「あっちの窓際の辺りだと思う。」
「お兄ちゃん、これサヤには重いけど、赤くて薄くて持ちやすそうだよ。」
「サヤ、それはエレキだ。」
「ツマミが付いててカッコいいのに!」
「バンドする人が買うんだ!」
「バンドって?」
「うん。軽音とかね。」
「軽音?」
「ああ、学校のサークル。4人くらいで演奏するグループを組むんだ。」
「ふぅーん。・・・良くわかんない。」
すると姉ちゃんが、
「アコギみたいなのにほら、ツマミが付いてるのもあるよ!」
「ああ、ギターマイクが付いてるからね。エレアコギって云うのかも。」
「なにそれ?」
「正式に言えば、エレクトリック・アコースティック・ギター」
「まんまだわ!」
「だね。」
その時、母さんの携帯にメールが来たみたいだった。それを読んで、何やら店員さんと話をしている。そのイケメンの店員さんは、
「はい、あちらにあります。」
と言って窓際の一角を指さした。そこには『MORRUS』というブランドのギターが並んでいる。良く見かけるギターだ。そこへ近ずくと、母さんが、
「翔ちゃん、お父さんがね、このギターが良いって。」
「親父が?」
「そう。お父さんは学生の頃このギターが欲しかったんだって。」
「へー、じゃあこれにすっか。」
俺はその中のどちらかというと安くて白くて明るい木目の『エントリーモデル』を手に取った。すると、さっきのイケメン店員さんが近付いてきて、
「それはエントリー過ぎるから、飽きるかも知れない。こっちがお勧め。」
そう言って、少しダークブラウンに仕上げられたのを渡してくれた。そう言われればそんな気もする。俺がそれを持つと、店員さんはストラップを肩にかけてくれた。
「カッコいい!」
姉ちゃんが目を輝かせて俺を見ている。店員さんが説明してくれる。
「お兄さんは背が高いから、やっぱりこれ位の胴の色合いが馴染むんじゃないかな。」
「そうなんですか?」
「さっきのエントリーのと変えてみてください。」
俺は言われるままに持ち替えてみた。即座に彩香の感想が飛んで来た。
「さっきのが良い。」
「白すぎて、キモイ感じになるでしょ!」
なるほど。さすがは店員さんだ。初心者って事が判ってるから、音よりも見かけ優先でアドバイスしてくれている様だ。ファッション性も重要って事かと感心した。それで、もう一度お勧めのギターに持ち替えた。すると、姉ちゃんが、
「何か弾いて!」
「それじゃあ・・・って、弾けるわけ無いでしょ!」
「そっか。残念。」
「どうしようかなあ?」
俺は実は値段が気になって、安いエントリーの方でもまあ良いかと迷っていた。そこに俺の背中を押す姉ちゃんの言葉が投げかけられた。
「それが良いんじゃない!、店員さんもお勧めだし。」
「サヤもそれで良いよ!」
「あれ?、彩ちゃんはもうお下がり貰うつもり?」
「えへへ!」
俺は意を決した。
「母さん、これ・・・良い?」
「えっと、幾らかしら?」
ネットで予想していたのよりかなり高いので、ねだるには少し申し訳なくて、
「とても言い難いのではありますが・・・2万円ちょい。」
「あら、案外リーズナブルなのを選んでくれたんじゃないかしら?」
姉ちゃんが援護射撃してくれた。
「こっちの20万円もするわ!」
「そう云うのはプロになってから買うよ!」
「え!、翔ちゃんプロになるの?」
「今はそのつもりなんだけど!」
すると店員さんが、笑いながら、
「その気持ちが一番大切です。」
すると母さんが、
「あら?、彩ちゃんは何処かしら?」
「ここに居るよ!」
彩香はいつのまにか反対側のキッズギターコナーで小さめのギターを抱えている。別の店員さんにストラップを肩にかけてもらって。彩香がギターを抱えると、コミックに出てきそうな、木製の盾に隠れた幼女剣士の様で微笑ましい。
「彩ちゃんもギター欲しいの?」
母さんがそう言うと、
「欲しいけど、今はまだ要らない。」
「どうして?」
「ピアノがいい。」
すると近くにいた女の店員さんが、
「ピアノでしたら、1階になります。」
彩香はそう言ってくれた店員さんに向いて、今にも『あっかんべー』でもしそうな勢いで、
「ピアノはもうお家にあるよ!」
とにかく、母さんは彩香の所在が判ったので、また俺の方を向いて、
「それじゃあ、それにしましょうか!・・・他にも小物が要るんじゃないかしら。」
結局、チューニンググッズ、カポ、消音器、ピック、お手入れセット、ソフトケース、コードブック、初心者練習本などなど、1式お買い上げと言う事になって、今年の俺の誕生日プレゼントは例年になく豪華で嬉しいものになった。その後俺達は駅舎の1階のスーパーで夕食の買い物をして帰った。買い物に付き合ってる間ソフトケースに入れたギターを背負って、俺は嬉しくてずっとニヤニヤしてたと思う。帰りがけには、姉ちゃんお気に入りのカエルのキャラの買い物袋を持たされたが、その時は全然OKだった。今思い返すと、黒いソフトケースを背負った『イケメンの』青年がカエルのキャラの買い物袋だ!。気が付いていたらハズくて電車になんか乗れなかっただろう。
夕食前後は当然の事だが、コンペで特別自慢できる成果が無いまま帰って来た親父の残念そうな溜息に同情する家族は1人も無く、今日の調律とギターについての報告会と品評会になった。彩香と姉ちゃんの機関銃の様な囀りをひとしきり聴いた後で、『ちょっと貸してみろ』と言ってギターを抱えた親父が、なんと意外な事に結構弾けるのに驚いた。もっとも、弾き始めた頃はかなり引っかかって、コードを手探りしていた。30分もすると指と体が思い出したみていで、演奏が滑らかになった。『禁じられた遊び』と『なごり雪』以外は俺達姉弟妹の良く知らない昔のフォークソングだった。そして、何曲か母さんと親父が弾き語りでデュエットした。親父のこんな楽しそうな顔を生まれて初めて見た。ひょっとしたら、親父と綾香母さんは俺達が生まれるずっと前にこんな楽しい時間を共にしていたのかも知れないとさえ思えた。
俺は入浴後部屋に上がって早速ギターを弾いてみた。当然だが消音器で弦を挟んで。だいたい肝心な事は後から気が付くものだが、練習本の見開の解説によると、風呂上がりは爪が柔らかくなっていて、痛めるので弾かない方が良いらしい。ともかく、買って貰ったばかりのギターを触るのはなんか嬉しい。ひとまず、一番上のポジションマークを使った解放弦のチューニングの方法を熱心に覚える事から始めた。理科で習った音の干渉の『ウネリ』って現象がギターのチューニングに役立ってるなんて、ちっとも知らなかった。そこへ姉ちゃんが入って来た。
「あ、さっそく練習してる。」
「いや、チューニングのやり方を覚えてるんだ。」
「へぇー、そっか、ギターは自分で調律するんだね。」
「まあ、そうだよね。ギターの調律師なんて聞いたことが無いから。」
「どうするの?」
「一番上のポジションマークの所を抑えると、次の弦の解放弦と同じ音になるんだ。」
「へぇー」
「ただし5番目の弦は『シ』で半音だから4番目の弦は1フレットずれるって事らしい。」
おれは実際に弾いて見せた。
「本当だ。つまり、フレット1つが半音なんだね。」
「お、流石は姉ちゃん。ご名答。」
「まあね。尊敬に値する賢さだと思うわ!」
顔を上げると姉ちゃんが得意そうに微笑んでいた。だけど、ここからがきっと姉ちゃんも知らない、覚えたての新知識だ。
「へいへい。・・・でね、同じ高さの音だから、周波数が少し違うと干渉で『ウネリ』が聴こえる。」
俺はペグを少し回してウネリを出してみた。
「あ、ピアノと同じだわ!」
「うん、今日調律を見てて気が付いたんだけど、ピアノって、弦が3本ずつ張ってあるんだね。」
「そうよ、私は知ってたわ!」
「だから、そのうちの1本が少し狂ったら、『ウネリ』になるのかも。」
「なるほど。翔ちゃんって賢いね。」
「ありがとうございます。でも、今頃お気付きなんですか?」
「前から知ってます。安心して!」
姉ちゃんと俺の視線がまた重なった。微笑んでる姉ちゃんがなんか可愛い。俺達は少しの間見詰め合った。
「・・・翔ちゃん、良かったね。」
「うん。」
「あのね・・・お父さんとお母さん楽しそうだった。」
「俺、あんなカッコいい親父初めて見たよ。弾けたんだね。」
「うん私もあんなお母さん初めて見たわ!・・・ねえ、ちょっと貸して!」
「ああ、良いよ!」
姉ちゃんはギターを抱えて座った。そしてポロンと鳴らした。消音器が付いているから、なんか間が抜けた音だ。
「ねえ、私達もユニットしない?、お母さん達みたいに。」
「いいね。姉ちゃんがボーカル?」
「あ、私は歌じゃなくて、できれば演奏で。」
「どう言う事?」
「わたし、ピアノかリコーダーするわ!」
「ふーん。どうなるか判らないけど、良いよ。ただし、俺がギター弾けるようになるには・・・」
「そうね。慌てなくても、ゆっくりで良いわ!」
「彩香も仲間に入れないと拗ねるよねきっと。」
「そうね。彩ちゃんがボーカルなら良いわね。」
「って事は、結局、演奏できるようになるまで何年かかるやら。」
「その方が楽しみだわ!」
「まあそうだね。」
姉ちゃんと俺はこの日から、なんか母さんと親父の姿が楽しそうだったので、それが理想の姿みたいに思うようになった。そしてそれが当面の目標になったような気がする。俺は俺の伴奏で姉ちゃんが歌ってくれるのが本当は嬉しいのだが、姉ちゃん自身は歌があまり上手くないと思い込んでいるらしく、積極的には歌ってくれないだろうから、俺の理想の姿に至るのはかなり遠い道のりの様な気がする。おっと、姉ちゃんのせいだけにしちゃいけない。肝心の俺がちゃんと伴奏できるようになるのにどれくらい掛かるのかさっぱり見当が着かない状況だ。
姉ちゃんと俺の中学卒業後の虚脱した場所に、こうして音楽一家っぽい充実しそうな環境と言うか目標が出来た。つまり、俺達が次の段階に踏み出す方向と準備が整った。・・・なんかそんな開けた未来が見えたような気がして嬉しかった。それはたぶん半分以上は幻想なのだが、その時は姉ちゃんと俺は『2人でプロになる』みたいな気がしていた。どんなプロかは・・・はっきりしないまま。まったく根拠のない事だが、なんか湧き上がる自信に心が躍った。




