16 / - 2 名古屋市 × 東春日井郡市 case.γ
中央の赤い円が太陽であるというのなら、それ以外を塗り潰しているあの白さは何だというのだろう。空であれば青の方が自然だし、雲であったとすれば、どこから見ている構図なのか判然としない。雲が太陽を覆ってしまえば地上からは光が遮られた灰色が見えるだけであろう。白い雲を背景として太陽が存在する景色など自然界にあり得るだろうか?
であれば、あの図はやはり具体的な景色を表現しているというより、抽象的な概念の表象であるといわれた方が納得できるだろう。
では、あの白地は何なのだろう?
むろん、あれが空白や空洞の類でないことは明らかだ。
かつての皇国が太陽とともに掲げていたあの白色は、中央以外の地を塗りつぶすための色だったのであり、それは明らかに土着の権力と支配構造を書き換え、塗り換えるために帝国の毛穴や口腔からひっきりなしに分泌されていた、いわば修正液であったことは疑いえない。
手にはまだ、岩肌を貫いた感触が痺れとともに残っていた。
背から腹の底にかけて熱が渦巻いているのもたしかに感じ取れる。
鼻孔を空気が通過する規則的な音を第8脳神経枝が正確に伝達していることをたしかに確認しながら、更也は、両腕から突出したブレードの切っ先を敵の方に向けたまま後方へと距離を取った。
《靑騎士》は正常に稼働しているとしか思えず、搭乗した彼自身の肉体も異常があるようには思えなかった。
(なら、いま俺と目が合っているコイツは何だ?)
おそろしく整った少女の顔が、外界からの入力を絶っているはずの彼の視覚に、真っ白な視界に映じていた。血の気を感じさせない陶磁のような肌、宇宙を煮詰めたような黒い長髪――戦場で幽霊に出会うことはありえないことではない。だが、今まさに敵と戦っている只中に幽霊と出会うなどという逸話は、長い人類の歴史のなかにも見出すことができなかった。
(殺すなということか……?)
更也は、そんな疑念を抱きつつ、外部カメラからの視覚情報に脳を再度接続しようとしたが、それができなくなっていることに気がついた。
取り戻すべき入力が、機体内のどこにも見つけることができなかった。
戦闘を継続することは、それでもできるだろう。
これまでの敵の反応を見ても、互角以上に戦うことはおそらく可能に違いない。だがそれができたとしても、そのあいだ中、この少女と目が合いつづけるのは必至であろうと思われた。うっすらと笑みを浮かべた少女の瞳は大きく見開かれ、水揚げされたばかりのように瑞々しい。
整いすぎて彫刻のようだった少女の頬が、目じりが、口もとが、とたんに柔らかくそばめられ、にわかに親しげさを感じさせる表情が現われた。
艶やかだった。
それにともなって、血色のよい唇が濡れたようになめらかであることを思い出し、急に流暢さをみせて滑り出したようだった。
『殺せ』
深い声で、少女は短く言った。
その声は、いまもし少女が本当に存在しているとすれば、そこであろうという位置からはっきりと聴こえたので更也は背筋に寒気を憶えた。
少女が本当にいまここに《いる》のだということを、突き付けられたと思った。
「なら黙っていろ。亡霊に言われなくともその積りだった。心配しなくとももうすぐお前の仲間にしてやるさ……」
懸命に口を動かすことで、彼は落ち着きを取り戻そうと努めた。
成功したかどうかは疑わしい。少女と違ってふくらみのない声が、咽喉にひっかかりながら吐き出されただけかもしれない。
少女の口の両端がにゅうんっと上方に延びた。
もう幽かとは言えないほどはっきりと笑んでいた。
『このままやっても、お前はあれに勝てはしないのよ。だから助けてあげよう、というの。お前は弱いのだから』
「何……?」
『だってそうでしょう? お前はまだあれのことが怖いのだから』
身を震わせて、少女は笑った。
黒い髪が揺れるたびに、リラの花のような、マロニエの花のような、あるいはミモザのような匂いが、ほのかに焚き染めた香のように彼の鼻へと浸みた。その深いところまで。
「怯えていても、銃を撃つことはできる」
弾が当たれば恐れている者は倒れる。戦場では皆恐れながら戦う。総力戦が生まれて以降は、特にそうだ……更也は言い募る。
『お前は私にさえ怯えている』
蛇に睨まれた何とやら――無限にも思える緊張の持続の中、更也の頬だけが面白げに歪む。
(……怯えない方がどうかしている)
更也は、この幽霊が美しい顔を自分に見せた意味を考えた。
それは幽霊の恐ろしさを隠すためだろうか? それとも美しさによって俺を魅了しようというのだろうか? 現象が、顔を持つことによって対面することができる経験としてわれわれに到来するとき、自然という捉えようのない曖昧なものは、表情という由来が空白であるにもかかわらずその深淵の存在を予感させる装置として主体の面前に遭遇する。
森は、たびたび笑ったり、押し黙ったり、悲し気に啼いたりするという。
幽霊とは、他者であることを引き受けるかのように見えて、にもかかわらずわれわれを他者との対面から遠ざける「顔を持った現象」のことに他ならない。
「怯えが生理現象であると理解したところで、それを退けるのは難しい」
更也はたとえ自分が何らかの錯覚を――たとえば、壁の模様が人の顔に見えるのと同じような脳の誤作動によって――起こしているのだとしても、それならそれで、それは自らの生み出したすなわち幻想なのだから、いってみればそれは自分自身に怯えていることに等しい。
「……俺はあいつを倒したい。どうすればいい?」
更也は永遠の白夜を思わせる奥行きのない白い場所に浮かぶ少女の顔を、強い眼差しで見返す。お前が俺の誤作動自体であるなら、対面できたことは僥倖に違いない。自分との対話など、道化としても幼稚な部類に過ぎないだろうが。
『そう、おりこうさんね――』
少女の相貌からは表情が溶け落ち、能面のように整う。
同時刻、電子機器は更也の呟きしか記録していない。送信していない。
彼の声だけを聴いている柳條 香流は、靑騎士から送られてくる代月 更也のバイタルデータに困惑している。
「おい……誰と話してるんだ?」
軍用の電子バイザーを装着し、黒いローブのようなマントで身を覆っている彼女は、長い長い廊下を歩きながら部下の異常に不安を覚える。
つい、立ち止まりそうになる彼女の気配を察したのか、少し前を歩いている同じような恰好をした長身の女性が、歩く速度を落とさずに振り返る。同格の士官のように見えた。
「――もうすぐ着くぞ」
立ち止まるな、と言外に忠告する。
「ああ……」
柳條は、前を行く背中に離されないよう、歩くことに集中しようとした。
たしかに、いま彼女が行っていることは公式的に認められた行為ではない。
自重するべきだろう。
更也の精神状態が気に掛ったが、自分にも仕事のときが迫っている。バイザーの横面にある小さなツマミに右手を伸ばし、音を切ろうと回す。
回転に伴って、バイザーの画面に僅かな揺らぎが起る。
耳を覆っている通信用音響機にも音声が消えるかわりに小波のようなノイズが聴こえ始める。息を整えるように呼吸し、前にいる仲間の背中に目を向けようと柳條は視線を伸ばした。
「うん?」
だが、彼女の眼は見ようよしたものを見ることはできなかった。
それは、液体とも固体とも判然としない重い奔流であり、闇とも永遠に連なった透明とも思えた。視覚を覆いつくす永遠の白夜。奥行きのない、遥かな太陽黒点の陰画だけが広がっていた。
赤い点のようなものが、遠くからゆっくりと歩くような速さで近づいてくる。
火星がみるみる大きくなって月を追い越し、地上を絶滅させるさまを、柳條は意味もわからずに想起した。




