16 / - X 東春日井郡市 ⇒ 名古屋市 case.ζ
ピラミッドは熱するというよりも膿んでいた。
熱力学的死がもたらした等価性――結晶体は階層的とはいえ、死せる有機生命のために生じていた。
「いったいどんな気分だろうか。多次元と接続するというのは? シニフィアンの連鎖の切断――あるいは因果性の〈忘却〉――によって彫刻されるリゾーム、複数の次元への複数のしかたでの無関係の組み変わりが、多様体としての主体のその揺れたり震えたりしたギザギザの輪郭として、要請されているというのは……」
《天使》は鯨峰鮪雫の頭を撫でるようにして彼の髪に触れ、そう訊ねた。
あたりは一面の草原で、やはり水晶のような透明な結晶――ピラミッドどもが満ちていた。
「気分、ですか……」
寂しそうに、本当に淋しそうな表情になって《天使》は(彼)女を見詰め続けていた。
「時間――ものごとの順序に支配され、表面上の見かけに従属させられるわれわれとは、もはや違うのだろうな」
「かも、しれません。僕はあなたをとても遠くに感じますから」
「君にとっては遙か未来、あるいは遠い過去の出来事でもあろうから」
世界でもっとも機械に近しい頭脳を持つ《天使》の表情は、しかし感慨深げで、冷たさなど微塵も存在していなかった。目の前の黒髪の少年のことを、(彼)女は慈しむような視線で撫でているようだった。そこに使命感などなかった。
「ゲーテは言っているね。《――詩人が普遍に対する特殊を求めるか、特殊のうちに普遍を見出すかは大いに異なる。前者からは寓意が生まれる。》そして後者からは文学が――象徴表現が生じる。君は前者をどう思う。君は概念に満たされた器だろうか。つまり君自身は空疎な形骸、あるいは人形になってしまったと、君自身が感じるのだろうか……」
少年は――いや、ここでは性別という概念などすでに意味を持っていなかったし、もともと少年といえる年齢でもない、すべてが少年とは見做せない少年である(彼)女だったが――《天使》の尊敬に応えるようにして、微笑みを浮かべながら目を細めた。
「なるほど――僕は僕でなくともよい存在になったわけですか。僕は今やほとんど概念となって、人間からみれば神と区別が付けられない身となった。しかしそうであれば、あくまで僕は僕にしかできないことを行い、その結果として、にもかかわらず僕以外も僕であることができると示さねばならない、そういった二律背反を、背負うことになるのではないですか――あなたはそうおっしゃりたいのではないですか。つまり僕が、本物の《神》へ至る道へは進めないのかと――」
「いやそこまでは、言っていないさ、だが……」
挑戦的な物言いに、やや戸惑いながら《天使》は続ける。
「だが君は、そう、感覚的でいてはいけない身になった。君は規則を宇宙から学ばなくてはならない。しかしその規則には、次元と連動しなければならないのがなぜ他ならぬ君なのか、説明できる情報については含まれていないだろう。寓意――つまり紋章としての神である君は、象徴としての神にどうしたらなれるのか…………君の口から、そう問いかけられるとは、実際のところ思っていなかったよ」
「僕は、いいえ――――あの世界に象徴としての神はいなかった。そうなろうとする紋章だけが苦しんでいた。すべてが紋章だったのでしょうね。ぷふぃ――失礼、つい笑ってしまいました――あなたやそのオリジナルである者も、また古代の神々も、すべてが寓意でありながら象徴に手を伸ばしていた。寓意の脳髄で象徴の身体を呑み込もうとしていた。ウロボロスの蛇のように――――メビウスの輪の裏表のように、寓意と象徴は循環するのだと。神は動的な平衡機関なのだと」
「動的であるが故に、神でない瞬間を保持したまま神となる、という方法を、だが君は用いることができない。君はすでに動的ではない。この会話も、私の限定的な認知能力が生み出した錯覚にすぎない。君にとって時間は、すでに物質宇宙に量子的に織込まれたホログラフとしてしか、理解できないだろうから」
「あっは、だがそう言うなら、あなたはどうなのですか? 神になる気はない、とでもいう積りですか?」
《少年》は《天使》を大きな目で見つめていた。
(彼)女を永遠に独りにしようという《天使》に対しての、それは密やかなる仕返しだった。少年にとって《天使》はすでに読み終えたテクストに過ぎなかった。見終えた映画に過ぎなかった。遥か昔に書きつけられた譜面から想起され、ずっと前に聴き終えた交響楽に過ぎなかった。その経験に《最初》は、存在しえなかった。
「私は、君とは違う。私は見続けることしかできない。聴き続けることしかできない。私は大脳の処理が速いだけの、単なる人間にすぎない……」
どんな物語であろうと幾度でも読み返すことができる。再び見ることができる。《少年》にとってその事実は本当に淫靡で、《天使》の悲しみも、悔しさも、そして尊敬もすべて偶然であるが故に無限の経験としてホログラフが再現されうることに感じ入る。通り抜けても遥かに連続するその流体が擦り切れることはない。《少年》自身、永遠の中で擦り切れてはいないのだから。




