13 / - 2 東亰市 郊外 セーフハウス
部屋の窓から見わたせる風景は空虚で、眼に入るのは倒壊した壁と瓦礫がほとんどだった。荒涼たる街並み――戦後の復興に取り残された、かつての東亰市街地の外れであった。動くものの姿はどこにも見えなかった。
「クーデタ、ではないか。今回の君たちの行動は……」
瓦礫の中、あたかも崩れたよう偽装された政府要人用の隠れ家の暗い洋間で、老人と美しい《エルフ》が話している。
「……行政システム上、地方から内閣府へのこういった発言ルートはありませんからね。やむにやまれず――ある種のクーデタであることは、こちらとしても否定しかねるのですが……」
悪びれずに金髪のエルフ――オルザレットの女が答える。
はにかんだような不思議な笑みを浮かべ続けていた。
老人は呆れ果て、呟くように言う。
「権力への闘争というわけか……赤い思想背景もなしに、と……?」
到底、納得できぬという顔であった。
「ミス・ヒンドゥクシュ……」
老人――日本国の現首相は相対する女に呼び掛ける。
これも到底本名とは思えない。
ヒンドゥクシュ――ヒマラヤ山脈にある山の名だ。
ダウィネス・クレイヴンス、ゾー・フェアベルン、オリガ・ラリオノーワ、ゼナ・ヘンダースン……生まれてこの方、数々の名前を使用してきた彼女に、すでに《本当の名前》など存在しない。現在はニーカ・ソローミンと名乗っていたが、この場ではそれを名乗る必要もない。
老人は何かを言おうとして、ふと、黒ずくめのエルフの中途半端な笑顔に見入ってしまう。
「…………鬼の面が恐ろしいのは、あの表情が憤怒だからではなく、口角を上げた笑顔だからだという話を思い出した。いや、そうではなく……」
彼は背後の柱時計で振り子が揺れる音を聞きながら、自分はなぜまだ生かされているのだろう、と間抜けにも考えた。彼らに躊躇う理由などあるのか、それすらも自分にはわかっていない。
「中央政府は、120年ほど前の幕府みたいです……」
片眉をついっと引き上げて、オルザレットの女は言った。
「……幕府――?」
老人は首を傾げることもできない。
すべてが謎で、意味不明だった。
「この国の繁栄は、敗戦後の荒れ野における自由主義の安定と――アメリカの文化的軍事的なアジアへの侵略――このふたつの意味合いを持っていたはずですね?」
「………………………………」
「しかし当時、この国は敗戦後の廃墟あるいは荒ら屋から、それこそバラバラになった帝國の所産から、皇國の断片から自らを立て直す必要があった」
彼女は真面目に話しているようでもなかった。
何やら黒いミリタリーグローブの指を気にして、右左の指を目の前に持ってきては、曲げ伸ばししている。
「――でも、そこには西欧の歴史のように、構築的に叙述される何物かは存在できなかった。アメリカを中心にした連合国によって、国家としての主体を解体され、戦前までの歴史的蓄積を棄てて忘却と自壊で御祓し、米ソ冷戦の恩恵を享受しながら成長したこの国には……」
「…………ベンヤミンの言う、《歴史の天使》かね? 積み上がる廃墟から吹く強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ不可抗的に運んでゆく。天使はそこに滞留して死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいが、楽園の方角から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりかその風のいきおいがはげしいせいで、翼を閉じることもできない、という――」
わずかながら、やっと首を捻ることができた老人は腕を組むかどうか迷い、顎に手を当てるだけに留めた。
オルザレットは尖った耳の先端を揺らして、美しい前髪を振り整える。
「それもなかなか素敵です」
でも――と彼女は続けた。
「このことは、畢竟一神教的であるあなたがたの宗教の性格を表していて、神自身、人がそれをつくるものにしかならないことを証明しています。そして諸々の観念は結局その形式においてのみ判断されるのだから、言い得ることは、それは異教世界の起源にあるすばらしい宇宙的伝統の観念をもはやわれわれに授けてはくれないのだし、力と神との分離は、もはや神は、落ちぶれた一種の言葉、最も忌まわしい偶像崇拝に捧げられるただの人形に成り下がってしまったと教えるでしょう」
彼女の唇には、薄い笑いが浮かんでいた。
細められた目は理知的だったが、意地悪な光を宿していた。
「ある宗教が旧ければ旧いほど、われわれは神々についてより恐ろしいイメージを抱くのだし、神々の恐ろしい側面だけがわれわれに神々を理解させることができる、というのを確認するのは非常に楽しい。つまり神々は、創世とカオスのなかの闘いのためだけに価値があるのだから、物質の中に神々はいない。均衡の中に神々はいない。神々は諸力の分離から生まれ、それらの結合によって死に至る」
彼女は抑えきれないというように、ピンと尖った耳の先を演説者特有の興奮で震わせて、プラトンとイアンブリコスの『神秘の書』について話した。神々は少しも身体に含まれてはいないが、神々の神的な生と活動は身体を含んでいる。神々は身体の方に放射しないが、神々が含んでいる身体は神的原因のほうへ向けられている。だから人は古代秘教の道を通り、神々にまで遡ることができる、と。
「――あの複合積層学園都市に手を貸しているのは、われわれアイシス神の黒秘教あるいは最暗黒のキリスト教者――近ごろは単に《金枝》と呼ばれることもありますが――なのですよ……首相閣下」
老人は絶句した。
アイシス神の黒秘教……。
世界的に知られた秘教系秘密結社としては、フリーメイソンや薔薇十字団などが知られている。しかし、それら秘結社の起源は、遡れてもせいぜいが中世である。
それら《新しい》結社を生み出した源流に、その教団は潜んでいるという。
5000年以上の昔より、脈々と受け継がれてきたという魔教。
エルフは、彼を冷ややかに一瞥する。
「信じられないかもしれませんが、あの都市に流入した大資本の多くは、われわれの息の掛かった多国籍連結企業体のものでした。企業以外では、東ヨーロッパ合同原子核研究機関もそのうちのひとつです」
「国を切り取ろうというのか? 秘密結社の、教儀のために……」
「日本列島は東西陣営の最前線なのですよ……脆弱な盾では困りますね。つまり、われわれ合衆国のサンクトペテルブルグにとっても、連邦のワーシンスクにとってもです……」
「ミス・ヒンドゥクシュ、君たちにもわかっているだろう……日本は実質、アメリカの五十二番目の自治共和国だということくらい……。1945年に国家の中枢機能をすべて焼却されたこの国に、いったいどんな選択が出来たと? 《陛下》も、GHQが蘇生させた拡張幻想に過ぎんというのに……」
「われわれは熱田を押さえています。また今回、玉璽を手に入れています」
エルフは、彼を試すよう言い放った。
慈悲のない言い方だった。
「蘇生された《陛下》が拡張幻想なのであれば、この国はその幻想をクラッキングしなければならないでしょう?」
老人は呻いた。
首を振った。
「バカな」
バカな、そんなバカなと、何度も同じ言葉をくり返し零した。
「変奏された、幕末の尊王攘夷というわけかね」
老人は顔全体をギシりと歪ませて言い募った。
「止めておけ。そんなことは無理だ。それはあんまりにも冒涜的だ……」
エルフはそんな彼の様子を目にしても、決して慌てることなく、
「尊王はまだ分かりますが、攘夷とは何でしょうね。私のような異分子を抱える時点ではたしてそんなことを企めるでしょうか?」
と涼し気な表情でゆっくりと言った。




