13 / - 1 東亰市 郊外 セーフハウス
老人が背にしていた古い柱時計が7回の鐘の音を重々しく響かせたのは、灯りもなく静まりかえった室内に、最後の護衛が頭から崩れ落ちてから、数秒ほど後だった。老人は静かなものだった。血溜まりの中に横たわる護衛に目を向けながら、諦めとも、苦々しさともつかぬ意味の溜息をついたかとおもうと、あとは背をしっかりと伸ばして、まっ黒な戦闘装備に身を包んだ「暗殺者」が、ヘルメットと顔の覆いを取るのを律義にも待っていた。
といっても彼には、もう逃げる道はなかったのだが。
遮光バイザー付きの小振りな黒いヘルメットが力んだ両手で押し上げられると、そこに折りたたまれて収められていたのだろう長いブロンドが、いささかのほつれもなくするりと滑り落ちて、背と、漆黒のラバースーツじみた戦闘服の肩に、汗の雫に濡れながらさらりと広がった。
首を振りながら整えられた前髪の下に現れたのは、無表情な女性の顔だった。
白人系の肌に緑色の瞳。
どことなく貴族的な顔立ち。とはいっても足元の遺体に突き立ったままの凶悪なナイフを扱っていたとは思えぬほど、整っているが威圧的なところのない、無害そうな女性だった。
年齢は20代半ばというところだろう。
無表情さを隠すためか、機械的に口元を、やや微笑むように緩ませる。
それがはにかんだような印象を与えた。
「……オルザレットか、君は」
老人は彼女のある特徴に気付き、目を大きく見開きながら言った。無法者となど何も話す気は無かったが、つい、声が出てしまった、という感じだった。
彼女の耳は上部が横に長く伸びており――ピンと先が尖っている。
「……私の任務はあなたと話すことですが……こんな被り物を被っていては、会話どころではありませんよ、閣下」
「日本語の話せるオルザレットは、初めて見たな……」
閣下と呼ばれた老人は状況が呑み込めず、僅かに身じろぎした。
オルザレットという民族名は、それほど知られていない。もともと中央ヨーロッパに流れるオルザ川周辺に住んでいたとされるからこの名がついているだけで、真実のほどは定かではない。伝承によればその故郷は、森の彼方の地であるともいう。現生人類とされてきたわれわれとは別の種族――ホモ・サピエンス・ルゥデンシス――として、唯一ひっそりと現存しているのが彼らだった。
「……人類でありながら、絶滅危惧種一覧に載っている君たちが、何の真似事かね……いや、どこの差し金かな?」
1960年代にレッドデータに記載されてから、国内でも一部の好事家の間では彼らの知名度が上がり、サブカル・アングラ芸術の界隈では現在でも《エルフ》の愛称で親しまれている。ヨーロッパで最も長い歴史を持つという彼ら民族は、しかし宗教経典や歴史書からは無視されてきた。わずかに神話や伝承に登場するだけの種族として残され、学術的な最初の「発見」は1902年とされている。当然、単一の国家は持たない。あるいは持てなかったと言うべきかもしれない。答えない彼女の装備や様子から、老人は彼女の所属を想像し始める。
「CIAか? KGBか? モサドか? 中国……いや、MI6かな?」
老人は顎に指を添えながら、いつのまにか真剣に推察していた。
といっても軍事や諜報活動の素人である彼の想像はやや夢見がちだった。
そもそも海外のどの正規軍も選択肢から外してしまっている。
そして、一番外してはならない選択肢も。
その内容を聞いて、女は苦笑していた。
「私の所属は日本国内ですよ、首相閣下」
「国内? まさか、そんなことが……」
老人の目が泳いだ。
何かを思い出そうとしているようだった。
「国内の《脅威》をお忘れですか? 複合積層学園都市名古屋を……」
「……あの――あの忌まわしい塔か」
老人は目を閉じると、力なく、本当に忌々しそうに呟いた。




