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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第3章 幻帝の國

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11 / - 1 名古屋市 肆



 そう、人間のことならなんでも知っている。

 彼女は、そんな表情をしている。


 人間が全知なら争いはないでしょう?

 だって現実がただひとつになるんだから――とでも言いたそうだ。


 残念なことだけど(そう、それは非常に残念なことだ)、それは正確じゃない。

 正しく言うなら、もしも人間が全知でかつ無能なら、争いはない。

 現実がひとつでも、自己が別である限り争いは起こる。

 自己は経験を形成(・・)することによってそのつど制作される。

 自己は皮膚によって作動する連鎖的反応アレンジメントで――


 ――そして、《私》そのものは世界のなかの、不連続点にしかなれない。


 エマヌエル・カントによる純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判は、それについて語るために行われたというのは極言だろうか。

 自己は《作動》する。

 全知が自己であっても、全知自体が稼働するだろう。

 相克渦動にその時々で、異なる仕方で。


 とはいっても、それはあまりに自明なことを、言い換えているのみという印象。

 だから、次のような立場にはやや感動さえしてしまう。


 現実が分裂しているのは情報収集と分析能力に限界があるから。

 そう考える決定論的世界と、そんな計算的な――チューリング・マシンに依存したような認識じたいが、精神の旧政体への囚われだと不安になる、自由意志で駆動する形成論的世界。

 稼働した世界はこうして分裂する。

 稼働した自己自体も、分裂しうる。

 全知にして全能であれば、そんな分裂した全知同士でゲームさえできるだろう。


 だが――そんな思考実験に、意味はあるのだろうか。

 いまさら《私》は、ふと、そんな疑問を差し挟んで()()()()()()。目の前の少女のように――バベルの塔のように、統一は「べき」で語られてこそ美しいというのに。

 マニ教の神は、神になったことで袋小路に迷い込んだ不連続点――つまり神になった人間自身のことみたいじゃないか? と書いたSF作家がいた。

 彼はついにフランツ・カフカの幻想譚を肯定しなかった。

 彼の目指した完全なる空虚には、自明性への――過度な――自足はない。

 毒虫はたしかに、グレゴール・ザムザだった。

 彼ならそう言うだろう。

 彼は自己の自明さを《意識》と呼ぶ《ナルシシスム》を、軽蔑していた。

 《私》は、鏡に映る私にもう一つの世界をみるだろうか?

 カフカは、鏡をどう描いていただろうか。


 ところで、シェイクスピアの『ハムレット』にこんなセリフが出てくる。


 「硬果の殻に閉じ込められておりながら、

  無限の空間の王だと思い込んでいるのかもしれぬ」


 でも神には外側というものがないから、神には皮膚もなければ形もない。

 あるていど頭のいい子どもなら、メビウスの輪をつかってこの神を説明できる。メビウスの輪のように、神の内側と外側はひとつのものなんだ――と、光のない眼差しで人間をみながら……。



   ◇◇◇

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