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崑械のアイオーン  作者: gaia-73
第2章 邂逅の塔

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20/60

7 / - 3 名古屋市 參

 


「そうです。その通りですよ!」


 僕は、カナさんに少しずつ話し始めた。


 日本には、元寇として襲い掛かったユーラシア大陸制覇を目論んだ大モンゴル帝國の侵攻は、13世紀ごろ、あわや成就の一歩手前まで達することになる。

 タタールのくびき――東欧にまで達したモンゴル民族の支配は、その後、五世紀にわたって継続されることになった。


「だから、今のソ連がある場所にもともと住んでいたルーシ人をはじめとした多くの人々は、その支配から逃れようと北に、やがて、北の地域を通って東方に向かうことになります――日本、そしてアラスカ――北アメリカ大陸に向かって……」


 こうした長い旅路に人々が耐えられたのは、ローマ帝國の後継指導者たる皇帝(ツァーリ)の存在と、北極圏の東に理想郷――真のアトランティス――の存在を主張していたロシア正教におけるもともとは小さな一派だった北極圏派(アルクトゲイア)の宗教哲学の存在だった――彼らの教義は、やがて形を変え、ナチス・ドイツに受け継がれることになるが、それはまた、別のお話だ。


「――彼らは数十年、数百年を経て、この旅路を完遂しました……」


 ある一派はベーリング海峡を渡り、ある一派は日本列島にも渡った。日本を経由してさらに東に向かった者たちもいたことがわかっている。旅路の果てに彼らは、北アメリカ大陸という彼らの《楽園》に再び集まり、インカ帝國やアステカ帝國と交流しながら、フョートル1世以降強大なロマノフ朝ロシア帝國をその地に築いていくことになる。これは彼方の楽園と神の国を求めた、ロマン主義の帝國だった。だから、後に建国される《アメリカ》の自由主義は、ロシア宗教哲学から発している。彼らにとって資本主義とは、究極的には自由競争の先に存在するはずの、神と真理の領域への到達を想定していた。


「そ、そうかぁ……だからけっこう、ニホンにはいろいろな見た目のひとが入り乱れてたんだ……」


「そうなんです……でも、その反動もあって、江戸時代になると鎖国してしまうので単一文化の国っていう感覚も、もちろんあるんですけどね……」


 感情が揺らいでいるときほど、知識を得ることの嬉しさは大きくなる。

 カナさんは、目をきらきらさせて僕の話を聞いてくれた。


「ソ連は、20世紀にバルティア帝國を革命で打ち倒して出来たんです」


「それは知ってる。研修のときに勉強したんだ」


 カナさんはそこで表情を曇らせて、


「あの、基本的な質問で申し訳ないんだけど、なんで、アメリカ大陸に逃れた人びとの住んでたところにまた国ができていたの? これは、残ったルーシ族の国?」


 と言った。

 僕はできるだけわかりやすいように、


「バルティアは、ペルシアなんかの中央アジアとか、モンゴル以外の放牧民とか、そういった人びとと、18世紀のヨーロッパ市民革命を逃れた王侯貴族たちが集まって立ち上げた国です。やがてさまざまな反対を押しきって、時代に逆行したヨーロッパ民族による頑ななまでの専制君主国家を目指しました――」


「そ、それで、革命? 共産主義革命とかいうのが起こって、それで……」


「そうです。それで、いまのソ連ができました」


 その1922年の革命蜂起の中心にいたのが、チンギス・ハンの直系の子孫であると語った革命家、グルガ・ハン――本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ――だった。帝國を追われた人々の帝國、それを打ち倒した男は、さらに古の帝國の後継者を名乗っていた。その新しい国家は革命者の名をとって《グルガ・ソヴィエト》連条合衆国と呼ばれた。

 それは唯物論と実証主義の帝國だった。

 今でもモスクワは、科学者の聖地だ。

 北の厳しい土地に生きていることで、血を超えて仲間となった人々は、そこに神を信じなかった。土地という生活感覚の共有によって繋がった人々による思想は、周辺国の機械信仰とは微妙に別の発想で展開することになった。形式主義(フォルマリズム)への信仰だ。記号論、構造主義、図像学――実証可能な表象の重視。人々に混迷をもたらす不確実な深層ではなく、人々という装置を構成している構造が読解できるはずの表層に、逃げず踏み止まることの重視。徹底したリアリズムの帝國、それがグルガ・ソヴィエトだった。


 とはいえ、欧州に比べれば工業のない地に成立したソヴィエトは、マルクシズムに起こりえた、最も大きな矛盾だったといえるかもしれない。唯物的に始まってはいても、彼らはその手法の向かう先を措定するために観念論的に考えねばならなかったのだ。

 後にホセ・オルテガ・イ・ガセットは『大衆の叛逆』で書いている。「…………グルガンは未だに独自の掟をもっていないからこそ、マルクスのヨーロッパ的原理を支持するふうを装う必要(・・・・)があったのである。そして若さがあり余っているからこそ、こうしたフィクションで満足することができたのである」――そして、その文章は次のような比喩へと落とし込まれる――「若者というのは、生きるために理由を必要としない。彼らが必要とするのは口実だけである」。


「実は、こうした「装い」は、アメリカ共和国連邦にもあって、彼らは観念論的な目的意識を達成するためには、結局厳密な科学的思考が必要であることをかなり早い時期に理解していました」


「つ、つまり、どういうことなの……?」


「つまり、ゆるやかな冷戦構造を形作っているふたつの勢力は、正反対にみえてじつは共通の部分もあるんですね。ソ連は唯物的な思考に特定のベクトルを与えるために手段としての観念論的な思考を得、逆にアメリカは形而上学的な、観念論的な目的意識から、手段としての唯物的な、科学的な思考に手を伸ばしました……」


「う、うーん……?」


 カナさんの困り続ける表情を見ながら、僕は、ばつの悪い思いをしていた。

 説明の仕方が下手だったんだ、どうしよう……。


「あの、その、じゃ、じゃあ、さ、トーメちゃんは、どっちというか、名古屋ってどっち派なの……?」


 カナさんはとてつもなく鋭い問いを発してきた。

 カナさんは知識はあまりないけれど、頭の切れは予想以上に冴えている。


「それは……まちがいなく、アメリカの側だと思いますね。僕も東欧に留学していたことからもわかる通り……あ、それはどういうことかというと」


 僕は説明不足だったところを補って答えた。

 それは僕とカナさんがどうして出会えたのかに関わるところなのだ。

 なぜ僕がスロヴァキアから隣のソ連に行かなければならなかったのか。

 それは、東欧がソ連とは思想圏が異なるからだ。

 なぜ、カナさんが交換研修隊員にならなければならなかったのか。

 それは、2大大国がそれぞれ、裏返ったように正反対の思想によって国家と文化を稼働させているからだ。それゆえに、それぞれが相手のノウハウの有用性を認めているからだ。

 敵であるという、耐えがたい差異を前にしていたとしても……。


「東欧諸国にはアメリカ大陸に逃れた15世紀以前のルーシ族の文化と、彼らが信仰した正教の名残が未だにはっきりと保存されているんです。だから、ひと目みたときかなり文化は違うんですけど、東欧諸国は、かなりアメリカ連邦の価値観と似ていると思います。あるいはかつての《ロシア》とも……」



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