第二章 おかあさんⅥ
シオンは刀を鞘から引き抜き、目にも止まらぬ速さでネヴィルへと肉薄した。剣閃がネヴィルの首元へとまっすぐに伸びるが、
「ま、待ってください、シオン殿! 今の僕は貴方と敵対するつもりはないですよ!」
ネヴィルが両手を小さく挙げて抵抗の意思がないことを示す。すると、首の皮膚まであと数ミリというところで、刃がぴたりと止められた。ネヴィルの首元に冷や汗が伝い落ち、刀身に雫が乗る。
「議席持ちの騎士が黒騎士を目の前にして放っておくことはあり得ないだろ。黒騎士討伐よりも優先する任務があるっていうのか?」
唸るようにシオンが低い声で言うと、ネヴィルは一度唾を飲み込んで喉を鳴らした。
「あ、あるんですよ、それが! 今の僕の任務は騎士団の中でも最重要任務として扱われていて――イグナーツ殿にも、何よりも最優先に取り組むよう言われています!」
シオンは目つきの鋭さを保ったまま、静かに刀を納めた。
ネヴィルが、どっと疲れたように大きな息を吐く。
「第一、貴方と戦って僕が勝てるわけないでしょう。議席持ち最弱なんですよ、僕は。正直、なんで議席に座らされることになったのか、未だに理解できないくらいです」
人生最大の悲劇に遭遇したかのような口ぶりだった。
円卓に選ばれる限り、その戦闘力は騎士団の中でも上位であることが前提である。ゆえに、議席持ちの騎士たちは自身の強さにそれなりの矜持を抱いていることが常とされているが、このネヴィルに関してはそうでもなかった。
確か、昔からこの男はどこかやる気のない奴だったなと、シオンは思い出した。強い弱いは別にして、極端に自己評価が低かったことを覚えている。所謂、出世をしたくないタイプというのが表現として妥当だろう。いつも気だるげで、仕事も必要最低限の事しかやらない――レティシアのような血気盛んな騎士からは、日常的に何かしらの小言を向けられていたような男だ。
シオンが、従騎士から騎士になりたての十六歳だった頃――彼もまた、当時は高い志を持った騎士であったため、ネヴィルのような腑抜けた騎士には、軽蔑に似た嫌悪感を示したものである。
だが、そんな事情など今のシオンにとってはどうでもよいことであり、
「そんな話はどうでもいい。それより、アンタはここで何をしている? 現地の人間にボスと呼ばれるような振る舞いをして、何が目的だ? ここの連中はアンタが騎士だって知っているのか?」
と、辛辣に言い放った。
ネヴィルは軽く咳払いをして眼鏡のブリッジを上げ直す。
「ここの住民は僕が騎士だってわかってて住まわせてくれています。ここで何をしているかについてですが――ちょっと貴方には言い辛いですね」
「なんで?」
「それは――」
ネヴィルが答えようとした時、不意にソーヤーが二人の間に割って入ってきた。
「ちょっと待った! ボス、兄貴、いったんこの場、どうにかしない?」
そう言って苦笑したソーヤー――あたりを見渡すと、そこには死屍累々といった様子で荒れ果てた惨状の酒場の光景があった。無論、シオンがキレて暴れた結果である。
シオンが眉根を寄せて顔を顰める一方で、ネヴィルは肩を竦めて嘆息した。
「そうですね。とりあえず、怪我人がいないかだけ、さっさと見てしまいますか。シオン殿は、内装の後片付けをお願いします」
仕方がない、と、シオンは諦めて言う通りにすることにした。
※
一通り酒場の後片付けが済んだのは、水平線に太陽が接し始めた時だった。シオンに叩きのめされた客の中に幸い重傷者はおらず、皆自力で家に帰らせることができた。内装も最低限整理した状態で、ようやく人心地がつく。
酒場はこのまま臨時で閉店となり、従業員たちもいなくなった。
静かなホールでテーブルを囲うのは、シオンとネヴィル、それとソーヤーだ。街の路地裏で出会ってからずっとついてきているライカンスロープの二人組はというと、店の出入り口前で見張りをしてくれている。
「さて、まずは再会を祝して」
そう言って、ネヴィルが瓶ビールの栓を開けてシオンに渡す。子供のソーヤーには、オレンジジュースだ。
しかし、
「あれ、ビール嫌いですか?」
シオンは瓶を手に取らず、仏頂面のままネヴィルを睨むだけだった。
店内の静けさも相俟って、空気が妙に張り詰める。
「酒はあまり好きじゃない。それより、さっき訊いたことをさっさと答えろ」
「ちょっと待ってください。喉が渇いちゃって」
苛立ち気味に催促するシオンに対し、ネヴィルはマイペースに瓶ビールを飲み始めた。一気に半分以上飲み干したところで、ぷはー、と大きな息を吐く。
「僕がここで何をしているかって話なんですが、当然、騎士団の任務でここに駐在しています」
「何の任務だ?」
「シオン殿は、このアウソニア連邦の各州を治める偉い人が総督と呼ばれているのはご存じですか? まあ、知っていて当然ですよね。で、このラグナ・ロイウにも総督がいるんですが――」
そこでいきなり、ソーヤーが飲んでいたオレンジジュースを勢いく口から離して立ち上がった。
「イザベラっていうクソババアさ!」
件の総督を口汚く罵ったソーヤーを、ネヴィルがまあまあと落ち着かせて座らせる。
その傍らで、シオンが眉間に皺を寄せながら首を傾げた。
「それが何だ?」
「シオン殿は、この街を見てどう思います?」
唐突にそう訊き返され、シオンは少しだけ虚を突かれた。どう思うかと問われたところで、まだ着いて間もない上に、碌に街の情報を仕入れることもできていない。
強いて言うならば、
「大陸屈指の観光地という評判に違わない綺麗な景観だったが、それに反してまさかこんなスラム街が存在しているとは予想もしていなかった」
というのが、率直な感想だった。
すると、ネヴィルが瓶を口に近づけながら人差し指を立てる。
「それです」
そこで一度ビールを口に含み、喉を鳴らした。
「僕は今まさに、この異様な貧困問題をどうにかするために騎士団から派遣されたんです。ゆえに、このスラム街の人たちは僕のことを騎士だとわかってて、好意的に迎え入れてくれているんです」
「くだらない嘘は吐くなよ」
間髪入れずにシオンが否定すると、ネヴィルがずっこけたように椅子から落ちそうになった。
「い、いや、嘘じゃないですって。確かに、それが最終目的ではないですが……」
「その最終目的っていうのはなんだ?」
ネヴィルが眼鏡を上げたあとで、不意にソーヤーへと視線を馳せた。
「ソーヤー、少しだけ席を外してもらっていいです? ちょっと内緒話をしたいので」
「りょーかい」
意外にもソーヤーは聞き分けよくテーブルから立ち上がり、店の外へと向かって行った。てっきり、駄々をこねるような反応を見せると思っていたのだが――
「ここの人たちとは契約しているんですよ。“この街を解放する”代わりに、僕のやることには必要以上に首を突っ込まないって」
シオンが何かを問う前に、ネヴィルが答えた。
しかし、シオンの表情は新たな疑問によってますます歪められる。
「“街の解放”?」
「先ほど話に出たこの州の総督――イザベラが、この貧富の差を生みだしている諸悪の根源なんです。僕は、彼女をどうにかして総督の座から引きずり降ろし、このスラム街の人たちを貧困から解放することを目的としています」
「それが表向きの目的だな? じゃあ、本当の目的はなんだ?」
「その前に、また僕からひとつ質問をさせてください」
ネヴィルは少しだけ表情を険しくして、テーブルの上に両肘をついた。
「シオン殿、貴方は何故この街に来たのですか? と、訊いて、その答えが返ってくるとは思っていないので、僕から言い当てますね。“紅焔の魔女”、エレオノーラ・コーゼルとの接触が目的でしょう?」
シオンの眉が、ぴくりと動く。
「貴方の予想は当たっています。どこでその情報を手に入れたのかは知りませんが、エレオノーラ・コーゼルはこの街にいます」
「どこにいる?」
「イザベラの隣です」
回答になっているようで、期待しているようなものではなかったことに、シオンは口を半開きにして首を傾げる。
「隣って……どういうことだ?」
「あの二人、母娘なんですよ」
「……は?」
思いがけない言葉に、シオンはただただ呆けることしかできなかった。




