第一章 再臨Ⅸ
イグナーツの指示を受け、リリアンはすぐさま翻った。対シオンとの戦線を離脱し、不意に腰を低く落とす。直後、彼女の周辺に白い閃光と共に紫電が迸った。空気を爆ぜさせるような破裂音――転瞬、リリアンの身体が、ステラが滞在するホテルの方角に向かって勢いよく射出される。身体能力だけでは到底実現できないこの芸当は、“天使化”時のシオンと同様、電磁気力を利用した斥力の操作によって可能としているリリアンの魔術だ。少女の華奢な身体が、銀の弾丸の如く宙へと突進していく。
それからリリアンがホテルに到着したのは、ほんの数秒の出来事だった。勢い余ってホテルの屋上近くの外壁に衝突しそうになるが、すぐさま進行方向とは逆の斥力と引力を生み出して威力を相殺させる。外壁に対して垂直に着地し、衝撃を緩和するように両膝を曲げた。ずんっ、という重低音が建物全体を鳴らし、外壁にはリリアンを中心に蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。
息を吐く間もなく、リリアンはそのままステラの部屋がある屋上バルコニーへと向かう。魔術で発生させた強力な磁場と、自身の体に纏わせた磁気によって空中浮遊を可能にし、不可視の回廊を渡るかのように移動した。
「ステラ様!」
バルコニーに到着したリリアンが声を張った。だがステラからの応答はなく、そこにあったのは、気絶して床に伏す護衛の騎士たちだけだった。
リリアンはすぐに上空へと飛び上がる。ステラがこの部屋からいなくなったタイミングは、恐らくシオンが広場に姿を現してからのはず――となれば、時間はそれほど経っていない。上空から見渡して捕捉できる程度の場所にまだ留まっているはずだと、リリアンは眼下に広がる景色を一望した。
リリアンの灰色の双眸に映るのは、聖王教総本山教皇庁ルーデリア大聖堂が御座すアウソニア連邦聖都セフィロニア――大陸史の始まりから中世期に建てられた建築物が数多く現存し、歴史的な価値が高い世界的にも由緒ある大都市である。一方で、近年の急速な近代化に伴うインフラ整備により、アスファルトの舗装道路や線路が、歴史の狭間に食い込むかのように敷き詰められていた。
そこを忙しなく行き交う無数の車――蟻の行軍のような車列が街の至る所で延びていたが、ふと、それを乱すように蛇行する一台の車がリリアンの目に留まる。
そしてリリアンは、その車に向かって一気に降下していった。
※
ルーデリア大聖堂近くのホテルを慌ただしく出発してから十分が経とうとしていたが――ステラは、すでにそのことを少しだけ後悔し始めていた。激しく揺れる車体に合わせて自身の体も左右前後に大きく振られ、彼女の三半規管はすでに限界を迎えようとしている。屋根のないオープンタイプの車であるために走行中の風圧をもろに受け、深呼吸をして落ち着かせることすら難しい状況だった。
そんなことを考えていた矢先、車がまた急ハンドルを切られる。ステラは後部座席で一人転がりながら、口から戻しそうになった朝食を必死になって両手で押さえ込んでいた。
「おい、王女! しっかり掴まってろ! 振り落とされんなよ!」
運転席から荒々しい忠告が投げかけられた。ステラは、助手席の椅子にしがみつくような有様になって、運転手へと目を馳せる。
「あ、あの……もう少し、安全運転を――」
「あ!? なんだって!? 風の音で何言ってんのか全然聞こえねぇ!」
運転手の男はそう言ってステラの注文を断ったが、もとより、言ったところで聞き入れてもらえそうな感じもしなかった。
ステラは諦めて、別の質問をすることにする。
「あの! 貴方についていったらシオンさんに会わせてくれるんじゃなかったんですか!? なんで広場と逆方向に車走らせてるんですか!? えっと、お名前、何でしたっけ!?」
風の音に負けないようにステラが声を張った。間髪入れず、車がまた急ハンドルを切られる。一方向四車線の広大な車道で、他の車の合間を縫うようにして爆走する彼女たちの車からは、常にタイヤがアスファルトを擦る音が悲鳴のようにして響いていた。
「ユリウス・マイヤーだ! ユリウスでいい!」
運転手の男――ユリウスが、一瞬だけステラの方を振り返って名乗った。三ヶ月前の旅では、黒騎士であるシオンを追跡していた騎士の一人である。
「今の広場はシオンと議席持ちの騎士たちがぶつかり合っているはずだ! そんなところに割って入ってみろ! てめぇなんざ一秒ももたねえぞ!」
ユリウスの回答を受けている間に、ステラは助手席の椅子に再度しがみつき直した。
「じゃ、じゃあ! 今はどこに向かってるんですか!?」
「この先で線路沿いの道路に出る! そこで合流する汽車に飛び移って、そのまま聖都を出るぞ! シオンに会えるのはそれからだ!」
汽車に飛び移って――その言葉を耳にして、ステラは嫌な記憶が蘇る。確か、三ヶ月前の旅でもアルクノイアで同じようなことをしたはずだ。何故、騎士という生き物はこうもハチャメチャな移動手段を取ろうとするのだろうか――そんなことを考えながらげんなりしていた時、偶然、車のサイドミラーが目に入る。
そしてステラは目を疑った。そこに映っていたのは、まさかと思うような光景――信じられずに振り返るが、受け入れがたい現実を目の当たりにしてさらに吃驚した。
時速八〇キロ以上で走っているであろうステラたちの車を、リリアンが後ろから追跡しているのだ。しかも、空を飛んで。
ステラは口を小刻みに開閉させながら、ユリウスの肩をバンバンと叩く。
「ゆ、ゆゆゆ、ユリウスさん! り、リリアンさんが空飛んでます! 飛んで私たちを追いかけています!」
ユリウスは軽くサイドミラーを見遣り、忌々しげに舌打ちした。
「やっぱりリリアンがついてくるか。存外に気付かれるの早かったな。あの野郎、碌に足止めできてねえじゃねえか」
意外にも落ち着いた様子を見せるユリウスだったが、ステラは未だに動揺を隠せないでいた。
「い、いや、あの! 人が飛んでるんですよ! 驚かないんですか!?」
「そりゃ飛ぶだろ。リリアンだぞ」
「えぇ……」
当然のように言い放たれた一切理解できない理由を聞いて、ステラは困惑気味に青ざめる。その表情のまま、再度現実を確認する目的でリリアンの方を振り返るが――何やら彼女が不穏な動きを見せていた。
リリアンは、飛行を維持したまま、不意に両掌を合わせるように自身の顔の前に腕を持っていく。すると、その間に光の粒のようなものが収束し、白く発行する球体ができあがった。
強烈に嫌な予感がすると、ステラの本能が呼びかける。それは、ユリウスも同じだったようで、サイドミラー越しにリリアンの様子を見た彼が、焦った表情で目を見開いた。
「王女、伏せろ!」
それが何かの合図であったかのように、リリアンが抱える光の球体から無数の光線が進行方向に向かって放たれた。光線はステラたちの乗る車に延びていき、タイヤを焼き切ろうと道路を焦がしながら迫っていく。ユリウスが小刻みにハンドルを回し、矢のように放たれる光線を間一髪のところで避け切るが――
「クソったれが! こんなこといつまでもやってられねぇぞ!」
そうやってユリウスが悪態をついた頃には、リリアンの両掌にはすでに二個目の光の球体が用意されていた。
「王女、お喋りはここまでだ! 汽車との合流地点に到着するにはまだ時間がかかる! それまで身を屈めて隠れてろ! 振り落とされんなよ!」
ユリウスに言われ、ステラは急いで後部座席のフットスペースに蹲るように身を潜めた。
まさに人智を超えた能力で追跡を図るリリアン。こんな化け物染みた力を持つ騎士を相手に、果たして無事振り切ることができるのか――シオンに会えるかもしれないという微かな期待だけが、この状況におけるステラを耐え忍ばせる力だった。




