第四章 騎士たちの矜持Ⅰ
アルクノイアの街には、冷たい霧が澱のように積もっていた。夕闇に照らされた石畳の大通りは人の喧騒で賑わっており、車と馬車が人ごみの間を縫うように慎重に走行している。市街を流れる海へと続く大きな河川には、ボートが大勢の客を乗せて優雅に浮かんでいた。
そんな景色を一望できる高層ビル内のレストランの一角――ガラス張りのテラスにあるテーブル席に、三人の男女が座っていた。豪奢な内装に相応しく、全員が礼服に身を包んでいた。スーツからズボン、果てはシャツとネクタイまで白で統一されており、色の違いがあるとすれば、髪と瞳の色くらいだった。
「あいつ、本当にこの街に来るのか?」
テーブルに頬杖を突きながら、一人の男が独り言のように言った。銀縁フレームの細長い眼鏡に卓上の料理を映しながら、オールバックにまとめた金髪の前髪を軽く整える。
「わからないが、イグナーツ卿が言うのであればその確度は高いだろう。つい数日前に、リズトーンを徒歩で出発したそうだ」
金髪オールバックの男の目の前にいた別の青年が、落ち着いた様子で答えた。鳶色の髪を携えた容姿は端正に整っており、美青年という言葉をそのまま体現したかのようだった。鳶色の髪の男は、空になった食事の皿に視線を落としながら、何か思いつめるようにしてさらに言葉を紡ぐ。
「まさか、処刑場への移送中に逃がしてしまうことになるとは。天災とはいえ、我々騎士団としてはあまり公にできない失態だな」
「なに、今度こそしっかり地獄に送ってやるさ」
「やけに楽しそうだな、ユリウス」
眼鏡の男――ユリウスは鼻で笑い、ワインを一気に飲み干した。
「まあな。ところで、アルバート。お前は円卓の議席持ちだろ? 同じ議席持ち同士、やりづらかったりすんじゃないのか?」
ユリウスに言われて、鳶色の髪の男――アルバートは小さく嘆息した。
「私の心配は無用だよ。任務とあらば、知己であろうとその命を屠る覚悟はできている」
「伊達にⅦ番の議席持ちじゃねえってか」
揶揄うユリウスの言葉に若干辟易しつつ、アルバートはもう一人――小柄な女へ視線を馳せた。
「それよりも、プリシラ、キミはどうだ? この三人の中で、彼と最も関りが深かったのはキミのはずだ」
白い絹のような銀髪はうなじの辺りの長さで短く切られており、横一線に揃えられた前髪は目元をすっぽりと覆い隠していた。
プリシラは、食事の手を止め、ナプキンで軽く口を拭きとる。
「問題ない」
一切の抑揚を感じさせない回答をした後で、また食事の手を再開した。
その様子を見たユリウスの口元が面白そうに歪む。
「その言葉が本当だといいな。お前、あいつの――」
「ユリウス。余計なことは訊くな」
アルバートの静止を受けて、ユリウスは肩を竦めてそれきり黙る。一方で、プリシラは特に気にした様子もなく、淡々と食事を続けるだけだった。
アルバートはそんな二人を一瞥した後、窓から見える景色に視線を送る。
「黒騎士シオン――大人しく、捕まってくれればいいのだがな」
※
リズトーンを発ってから丸一日が経過したころ、一向に山脈地帯を抜けられない状況に、シオンたち三人は疲労を募らせていた。
それからさらに一日が経った二日目の早朝――山脈地帯の街道に、一台の貨物用トラックがシオンたちの近場を通りかかった。これを逃す機会はないと、シオンたちは半ば強引にトラックを止め、山脈地帯を抜けるまで同乗させてもらえないかを運転手と交渉した。
結果、十万フローリンを支払うことで荷台に乗せてもらうことができた。あまりにも足元を見たぼったくりだと、支払い担当のエレオノーラが喚くように値切り交渉をしたが、トラックの目的地が都合よくアルクノイアだったこともあり、最終的には大人しく運転手の言い値での交渉成立となった。
そうして、トラックに揺られて六時間が経過したころ――不意に、エレオノーラがシオンを見て、怪訝に眉を顰めた。
いつものシオンなら、険しい顔をして気を張り詰めているのだが、今は違った。荷台の壁に体重を預けるような姿勢で、どこかぐったりした様子で座っている。
「ねえ、シオン。アンタ、本当に大丈夫?」
「何が?」
エレオノーラが気遣って声をかけると、シオンの表情から弱々しさが消え、引き締まったものになった。
「リズトーンを出てから、ずっと調子悪そうに見えるけど」
「少し疲れただけだ。こうして車に乗せてもらえたし、それなりに休めているから心配いらない。俺のことより――」
シオンがそこで区切って、視線を横に向けた。
「ステラ、お前は大丈夫なのか?」
そこにいたのは、顔を青くし、今にも白目をむいて倒れそうなステラだった。シオンの呼びかけにもすぐには気づかず、数秒遅れてから振り向いた。
「あ、はい……い、いえ、やっぱり駄目そうで……」
そう言って、ステラは両手を口で塞いだ。
エレオノーラが苦笑し、肩を竦める。
「車酔い? アンタ、汽車は大丈夫そうだったじゃん」
「こ、このトラック、かなり揺れません? 私からしてみれば、お二人が平気な顔して乗っていられるのが不思議で……」
言われてみればと、シオンが揺れの強さを確認するように荷台の中を見渡した。
「確かにな。山脈地帯は舗装されていない道も多いはずだ。そのせいで揺れが酷いんだろう」
「き、気持ち悪い……!」
シオンが冷静に分析する傍らで、ステラがいよいよ我慢の限界といった様子で呻いた。その背を、エレオノーラが軽く摩る。
「潮の臭いがしてきたし、もうちょっとでアルクノイアに着くはずだから。アンタのゲロで荷台の中汚したりでもしたら、また追加料金取られるかもしれないし、我慢しな」
「え、エレオノーラ様……魔術でトイレを作っていただけないでしょうか……!」
「作れるか」
エレオノーラが顔を顰めながら即答した。
すかさず、ステラが真面目な表情になって振り返る。
「え、できないんですか?」
「アンタ、魔術を何だと思ってんの?」
「ほとんど何も知らないです……ウッ!」
そこまで言って、ステラは再度口を両手で塞いで黙り込んだ。そんな有様の王女を見て、エレオノーラは憐れむように溜め息を吐く。
「じゃあ、車酔いの気が紛れることを期待して、教えてあげる。まず、魔術の基本原則は、“意志に応じて変化を起こす科学であり、理の業である”――これに尽きるの。要は、人の意思で何らかの事象を引き起こす術だと思えばいい。よくある勘違いとしては、魔術は何でも意のままに叶えることのできる魔法だと思われていること。今アンタが言ったみたいにね。でも実際は、化学や物理学みたいな世の基本法則に則った範囲のことしかできない。あとは、術者が理解できていない仕組みや、複雑な構造の物を作ったりもできないかな」
「そ、それはどういうことなんでしょうか……?」
「アンタ、化学とか物理学は得意?」
「超苦手です……」
エレオノーラは苦しそうにするステラの目の前に、水の入ったボトルを一本置いた。
「水が何からできているかは知っている?」
「水素と酸素、でしたっけ?」
「そうそう。例えば、魔術で水を操ろうとすれば、水そのものか、水の材料が必要になるの。水素と酸素もない場所、空気の湿度がゼロ、地面に水気なしの状態とかだと、何をどう頑張っても水を操ることはできない」
「なるほどー」
ステラは、少しだけ顔色がよくなった様子で、ふむふむと相槌を打った。
「あと、魔術を行使する際には対象となる物質の他に、変化をもたらすためのエネルギーが必要になる。これについては魔術師の間でも意見が割れていて、今のところはっきりとしたことは何もわかっていないんだ。マナやらエーテルやらオドやら、学説によって色んな呼び方をされているけど、共通するのは人が視覚的に認知することのできない不可視のエネルギー体がそこらへんに溢れているということ。まあ、ここはアタシもよく理解してないから、知りたかったら自分で勉強して」
「よくわかっていないのに使えるなんて、何か不思議ですね」
「そうでもないと思うけど? 物がなんで焼けるかよくわかってなくても、火を使えば物を焼くことはできるでしょ。魔術のエネルギー問題の不透明さに関しては、アタシはその程度くらいにしか考えてないけどね」
「確かに、言われてみれば」
一本取られた、といった表情でステラは納得する。
「それと大事なのが、魔術には印章が必要なこと。魔術を建築に例えるなら、変化させる物質や事象は木材や釘といった材料で、行使する人間は金槌や鋸、印章は設計図に相当するかな。アタシの場合は、すぐに使いたい魔術の印章は銃に刻んでる。ちなみに、あの銃に装填してるのは弾丸じゃなくて、可燃物になる炭素と水の塊。これに弾頭はなくて、口塞いだ薬莢に可燃物詰め込んだだけなんだ」
エレオノーラがそう言って、太ももに巻き付けている弾丸――もとい、可燃物の入れ物を見せてきた。
こんな小さなものから、火炎放射さながらの火球を生み出すのだから、彼女たち教会魔術師が人間兵器と畏れられるのも納得すると、ステラは思った。
「何となく、魔術についてわかった気がします。ありがとうございました」
「どう? 少しは気が紛れて楽になった?」
しかし、エレオノーラの一言を聞いて、ステラは思い出したかのように再度顔を青ざめさせた。
「え、エレオノーラ様、バケツを作っていただけな――」
そこで力尽き、一国の王女の口から、胃の内容物が盛大に逆噴射された。
エレオノーラが、悲鳴を上げる。
「何やってんだお前ら……あと少しでアルクノイアに着くぞ」
それを傍目で見ていたシオンが、眉を顰めながら呆れていた。




