第三章 賽は投げられたⅩⅩⅠ
「案の定、アナスタシアが聖女になってからというものの、大陸の情勢は混沌の一途をたどっているな……」
心労を孕んだ息を吐きながら、ユーグは顔を顰めた。
“円卓の間”に座るのは、ユーグとヴァルター、それにガイウスだ。連日、三人は教皇庁とガリア公国の動向に目を光らせつつ、今後の騎士団の方向性について会話を続けていた。
とりわけ、直近の大きな悩みの種となっているのは、アナスタシアが聖女に就任してからの大陸情勢だった。
アナスタシアが聖女になってから、それまで普遍的だった社会の価値観が急速に変えられようとしていたのだ。生きるために労働し、愛する者と結ばれ、子を残し、それを受け継いでいく――こういった、ヒトという生き物の一般的な人生の営みが、過剰な幸福として糾弾される事例が増えたことが発端だった。
労働に就けない男、理想の相手に出会えなかった女、用済みとされた老人などが、アナスタシアの思想を後ろ盾に、ここぞとばかりに大陸各地で自らの境遇を嘆き、訴えを声高に叫び出した。それらは行き場のない鬱憤となり、敵意に変わり――矛先は、何の変哲もない、ただの一般家庭にまで及ぶこともあった。
はじめは小さな小競り合い、しかし、時が経つにつれてその規模は日増しに大きくなり、国によっては地元の治安維持組織との衝突にまで発展する状況だった。
本来であればそのような事態は教皇庁が率先して収束に努めるはずだが、あろうことか、奴らはそれを、ガリア公国と結託し、利用する方向に舵を切っていた。大陸各国が国内の争いで疲弊し、動きが鈍る隙を突き、大陸同盟の締結を一気に推し進める算段を見せていたのだ。
教皇庁はアナスタシアの行動と思想を咎めず、その間にガリア公国はメディアを通じて人々のプロパガンダ扇動を図る――負の感情は際限なく積もり、やがて大陸全土にその機運が高まる事態となった。
「これまでの社会常識――いや、生物的な本能を真っ向から否定する思想だ。加えて、これまで冷遇されていた弱者を扇動するタチの悪さよ。どれだけ建設的で論理的な話をしても、気に食わないと判断されればすべて主観的な感情論で押し通される。正論を返せば非情と罵られ、相手をさらに感情的にさせてしまう」
ユーグの隣に座るヴァルターはそう言って、各地の騎士たちがまとめた報告書を一枚手に取った。
「ガリアがこの混乱を見逃すはずもなく、すでに多くの工作に乗り出している。自分たちの亜人の扱いを棚に上げながら、他の国の貧困層を焚きつけ、各国の既存体制の弱体化を図っているのがいい例だ。教皇庁は当然、黙認している。大陸同盟が締結されるまでの布石を一気に打つ腹積もりだろうな」
ヴァルターの言葉に、ユーグは眉間を手で押さえた。
「ログレスとグリンシュタットはどうだ?」
「ログレスはスタンスを変えていない。亜人の奴隷制に対しては引き続き批判的な立場を示し、ガリアに圧をかけ続けている。だが、最近のアナスタシアの声が大きすぎて、前ほどのプレゼンスが発揮できていない。グリンシュタットも同じようなものだ。ログレスの力ありきで動くあの国が、ここから何か単独で事を起こすとは思えん」
ヴァルターの見解に、ユーグは頷く。
「ログレスの女王陛下があとどれだけご存命されるかも心配だな。ご高齢なだけではなく、最近は彼女の周辺の動きも怪しい。陛下の身の安全にも気を配る必要がある。しかも、次の後継者はまだ幼いステラ王女だ。政治家たちの傀儡にされるのが目に見えている」
「会議のたびに頭が痛くなる課題ばかりだな。とりわけ、急いで対応しなければならない事としては――」
「パルドラーナの暴動だな」
ユーグはため息混じりに言った。
パルドラーナ――アウソニア連邦の中部に位置する都市で、聖都セフィロニアに近いことから、教会の影響を受けやすい土地柄でもあった。
「あそこはアウソニア連邦の中でも貧富の格差が激しい属州だ。アナスタシアが聖女に就任したことで貧困層の勢いが高まり、数週間前から地元当局との衝突が頻発している。このままでは、ラグナ・ロイウの二の舞だ」
ユーグのその懸念にヴァルターも同意する。
「数日後にはあそこにアナスタシアが巡礼に赴く予定がある。おまけに、講演も控えている。火に油を注ぐようなイベントだ」
「アナスタシアにはあの街への巡礼を控えるように言ってみたが、聞く耳をまったく持ってくれなかった」
「行けば自分の支持層にもてはやされると勘違いしているのだろう。暴動に巻き込まれて殺されるリスクなど、微塵も考えていないぞ、あの女は」
「厄介な存在だが、死なれてもらっても困る。そんな我々の微妙な立場を察してか、教皇庁からもお達しだ。聖女を秘密裏に護衛しろとな」
「教皇庁め、ここぞとばかりに面倒な仕事を騎士団に押し付けてくるな。我々の動きを鈍らせたい意図を露骨に見せてきたか」
ユーグは書類をテーブルに置き、椅子に深く座りなおした。
「だが、無視することもできない。さて、誰を護衛に付かせるか。回せる人員はそう多くな――」
「私が行きます」
それまで石像のように動かないでいたガイウスが、ぼそりと言った。低く、小さい声量だったが、部屋の中に重々しく響いた。
ユーグが怪訝に眉を顰める。
「ガイウス卿?」
「今なら余裕があります。それに、あの女の影響力が実際どれほどのものか、この目で直接確認するいい機会です」
妙な気迫が込められたガイウスの雰囲気に、ユーグとヴァルターは互いに顔を見合わせる。
「能力的には充分すぎるほどだが――大丈夫か? ここ最近、疲労が溜まっているようにも見えるが……」
二人から気遣いの視線を向けられたものの――
「問題ありません」
ガイウスは静かに立ち上がった。
※
アナスタシアの巡礼は予定通り実施され、ほどなくその流れで講演会も開催された。講演会はパルドラーナ市街の中央区にある噴水広場で催され、晴天の下、大勢の住民が集まった。
壇上に立つアナスタシアは、いつものように身振り手振りで自身の教え――もとい、思想を声高に唱え、住民からの注目を一身に集めた。集まった聴衆は、人間、亜人を問わず、彼女の支持基盤となる貧困層が多く、その誰もが彼女の口から放たれる言葉一つ一つに感銘し、中には涙を流す者さえいた。
騎士団が懸念していた暴動もこの瞬間は落ち着いており、このまま何事もなく今日を終えられるのでは――そう、誰もが思った時だった。
講演会が終わりに差し掛かり、惜しみない拍手がアナスタシアに向けられた頃――ふと、みすぼらしい身なりをした男が数人、アナスタシアの足元に駆け込んできた。
「聖女様! 見てください!」
そう言って男たちは、何者かを地面に放り出した。それは三十代くらいの、どこにでもいそうな人間の男性だった。だが、何があったのか、その顔には激しい暴行を加えられたような傷が幾つもあり、意識もほぼなく、ぐったりとしていた。
男たちは、嬉々として、どこか誇らしげな様子で壇上のアナスタシアを見上げる。
「こいつ、最近街に店を開いて金儲けをしていた奴なんです! しかも子供まで作って、国から色んな優遇を受けていたんですよ! 赦せませんよ!」
突然、何のことかわからない話を聞かされ、アナスタシアは笑顔を繕いつつも困惑に固まった。
「……何のことですか? 落ち着いてください。いったいどういう――」
「そうよ! こういう奴らが私たちから搾取しているのよ! 自分たちだけ幸せになって、嫌なことを全部私たちに押し付ける!」
事情を聞こうとしたが、今度は聴衆の中にいた小太りの中年の女が、いきなり吠えた。
ますます混乱するアナスタシアだったが、彼女のことなどいざ知らず、現場には妙なざわつきが生まれる。
そして、
「ふざけるな! そんなの勝手な被害妄想だろうが!」
「お前らの怠慢にどうして無関係なヒトが巻き込まれなきゃならないんだ!」
聴衆の外れから、また別の住民が怒りの形相で声を荒げた。
「無関係なもんか! 俺たち弱者のことを考えないで利益を貪ってるお前らが元凶だろうが!」
「子供がうるさいのよ! 子供がいないヒトの事も考えなさいよ! 毎日毎日、子供を連れながら夫婦そろってイチャイチャされてホント目障り!」
小さなざわつきが、瞬く間に大きな喧騒へと変わっていく。
「そんなのただの僻みじゃない! 誰にも相手にされなかった自分が悪いだけでしょ!」
「文句言う元気があるなら働け、怠け者共が! 弱者を都合の良いように利用して搾取してるのはお前らみたいな奴らだろ!」
次第に人々の非難の応酬は言葉から拳へと変わり、市街地に待機していた治安維持組織も加わったことで、五分と経たず武器を伴う争いへと発展した。
銃弾に催涙ガス、挙句にガソリンを使った火炎瓶などが飛び交う光景に変わり果てる。
「きゃあ!」
爆発物の破片が、アナスタシアの顔のすぐ横を通り過ぎる。頬に赤い線を残したアナスタシアは、堪らずその場で腰を抜かした。
「聖女! 御下がりください! 暴動の波がここまで――」
治安維持組織の隊員がアナスタシアに駆け寄るが、間もなく暴徒にその背中を刃物で貫かれ命を落とした。
隊員の胸から突き出た刃物の切っ先、そこから吹き出る返り血を浴びたアナスタシアが悲鳴を上げる。
「だ、誰か……! 誰か、助けて!」
力の入らない足腰で、地を這いながら助けを求めるアナスタシア――だが、その声は誰にも届かなかった。争いの音が、彼女の救いを求める声を無情に掻き消してしまう。
「誰か!」
争いに狂う住民たちの隙間を縫いながら、アナスタシアは必死に叫んだ。
その時、ふと、彼女の前に騎士が一人、現れる。
「が、ガイウス……!」
アナスタシアの護衛を密かに任されていたガイウスが、彼女の眼前に立った。
混沌としたこの場に、突如として現れた強大な力に、アナスタシアの心は完全に奪われる。
しかし――
「ガイウス! ガイウス! ああ、やはり、わたくしの救い主となるのは貴方――」
「いつまでも安全な場所で無責任なことを一方的に言えると思うなよ」
彼女を一瞥したガイウスの金色の双眸には、身の毛もよだつ殺意が込められていた。
※
パルドラーナで暴動が勃発してから二時間後――聖女の滞在時に起こったこの事態に、教皇庁と騎士団は共同でアウソニア連邦国内に非常事態宣言を発令した。パルドラーナ近隣にいた騎士を可能な限りかき集め、即座に空中戦艦を用いて事態収束に取り掛かろうとしたのである。
リディアの護衛が主任務であったイグナーツもその一人であり、緊急性の高さから動員に駆り出されることになった。
「これは……何が起こった……?」
暴動が起きたとされる市街地の中央に空中戦艦のドローンが一隻着陸し、そこからイグナーツを含めた数名の騎士が降りる。
そして、全員が言葉を失い、呆然とした。
文字通り、街が無くなっていたのだ。瓦礫の一つもない。消滅という言葉をまさにその通りにしたかのように、中央区と呼ばれていた地域が、丸ごとなくなっていた。
そんなただの更地には、数えられるだけの住民のみがぱらぱらといるだけだ。その誰もが、まるで悪魔の凶行を目の当たりにしたかのように、憔悴し、怯え、放心状態だった。
そこには、聖女の姿もあった。
「イグナーツ卿、聖女を見つけました」
騎士の一人がそう言って、地べたに身を縮こまらせて座るアナスタシアの姿を指し示す。
イグナーツは駆け足でアナスタシアの傍らに付いた。
「ご無事で何よりです、聖女アナスタシア。いったい、ここで何があったのですか?」
だが、呼びかけに反応がない。アナスタシアは、声を失ったように、ただただその場で小さく震えるだけだった。
「聖女?」
イグナーツが数回声をかけてみるも、アナスタシアは人形のように動かない。
ふと、更地の中央を覆っていた砂埃が晴れ、そこから何者かの姿が露になった。
「ガイウス卿……」
ガイウスは、整然と並ぶ騎士たちのことなど意にも介さず、淡々と一人歩みを進める。その両腕には、重傷を負った男性を一人抱きかかえていた。
「ガイウス卿、これはいったいどういうことですか?」
どう考えても、街のこの変わりようはガイウスの手によるもの――イグナーツは、冷や汗を滴らせながら彼に声をかけた。
「ここで何があったのですか?」
ガイウスはそれを無視し、騎士たちの脇を通り過ぎる。
「ガイウス卿!」
イグナーツが呼び止めると、ガイウスは足を止めて意識のない男性を地面に下ろした。
それから、徐に振り返る。
「――何も起きなかった。ここには何もなかったからな」




