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辺獄の黒騎士  作者: シベハス
第四部
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第三章 賽は投げられたⅩⅨ

 教会が管理する刑場は、アウソニア連邦南西部に位置する辺境の山岳地帯にあった。通常、受刑者は騎士団管轄の監獄から刑場まで、専用の蒸気機関車に乗せられて移動する。その際、蒸気機関車には、受刑者のほか衛兵が数人、それに刑の執行を担当する騎士が同伴する。

 マリアの処刑を執行する騎士は、一般の騎士が二人と――議席持ちの騎士であるガイウスだった。無論、ガイウスはマリアを逃がすため、自ら執行人の役を買って出たのだ。


 刑の執行は移動日の翌日正午――巨大な墓石を彷彿とさせる灰色の尖塔が、重たい雨を降らす暗い雲に突き刺さり、その時を静かに待っていた。


 刑場に着いた騎士たちは、執行時間が来るまで、ただ待機することが通例だった。普段、多忙を極める騎士たちにとっては手持ち無沙汰となる時間であり、慣れない暇に不満を漏らす者も多い。

 だが、ガイウスは違った。彼にはこの時間が刹那とも思えるほどに短く、儚かった。マリアを逃がすチャンスは一瞬、絶対に失敗は赦されない――頭の中で延々と響くその囁きが、今までにこなしたどんな任務よりも大きな重圧になっていた。


 そして――


「こちらに」


 定刻通り、マリアを収監する部屋の扉が開けられた。マリアは二人の衛兵に促され、大人しく指示に従う。


 受刑者の部屋から刑が執行される場所に向かうには、一度屋外に出ることになる。刑場は大きく二つの建造物で構築されており、その間には長い橋が一本架けられていた。橋の下は流れの速い大河であり、今日が悪天候であったため、身も竦むような濁流が轟音を立てていた。


 マリアが橋の中央に差し掛かった時、そこにはガイウスを含めた三人の騎士が立っていた。

 衛兵たちからマリアを引き渡された三人の騎士は、豪雨の中、あたかも巡礼のようにして、また静かに目の前に建つ巨大な墓石に向かって歩み出す。


 それから間もなくして尖塔の扉の前に着き、前を歩いていたガイウスが開けた。


 中は広大な円状の部屋で、尖塔の天井まで吹き抜けだった。床、天井、壁のすべてが白い石造りで、装飾などは一切施されていない。頼りない燭台の灯が照らしたのは、床一面に描かれた巨大な印章だけで――これこそが刑具だった。


 教会が執行する刑に、物理的な道具は用いられない。この印章が発動すると、受刑者の肉体は分子レベルで崩壊し、消滅する。魔術理論としては痛みも苦しみもないらしく、罪を犯した者へのせめてもの慈悲として使われる処刑方法だった。


 マリアは、騎士に何かを言われるまでもなく、当然のようにしてその印章の中央に立った。

 それを確認したガイウスを除いた二人の騎士が、印章の左右の端に対面で立つ。


 そして、徐に口を開き、受刑者への最後の言葉を紡ぎ始めた。


「我らは主と聖王の御名によって、かの者のすべての罪を赦す」

「主よ、かの者に永遠の安息を与え、絶えざる光を照らしたまえ。そして、安らかに眠ることを我らは願う」

「主よ、かの魂に慈悲を与えたまえ」


 淡々と二人の騎士が儀礼的に話す傍ら、ガイウスはマリアと向き合ったまま動かないでいた。


「ガイウス卿?」


 それに気づいた騎士の一人が声をかけるが、反応はない。

 騎士たちは怪訝に眉を顰め、ガイウスに足を向けた。


「ガイウス卿――」


 一歩踏み出そうと足を動かした、その瞬間だった。

 ガイウスが両腕を左右に伸ばすと同時に、二人の騎士が光の柱に包まれる。瞬き一回もない間に光が消えると、そこに騎士二人の姿はなかった。


 ガイウスの突然の行動に、マリアは驚きと嘆きで表情を歪める。


「ガイウス……」


 困惑するマリアの手をガイウスは取った。


「ここから逃げるぞ! そのあとすぐにエレオノーラを――」


 しかし、マリアはその場から動こうとしなかった。


「どうして!?」


 マリアには、もう生への執着が微塵も見られなかった。それを悟ったガイウスが、激昂したように吠える。


「どうして自分から死を選ぼうとする! これが最後のチャンスなんだ! ここには他に騎士はいない! 今なら君を助け出せる!」

「アタシはね――」


 マリアは、やんわりとガイウスの手を解いた。


「多分、長く生きすぎたのかもしれない。まあ、百歳近いから当然なんだけど」


 悲嘆するガイウスとは対照的に、マリアは自嘲した。


「このままここから逃げ出して、エレオノーラを迎えに行って、この大陸じゃないどこか別の世界を見つけて、そこでアンタと三人で新しい人生を始めるっていうのは、すごく幸せなことだと思う。できることなら、そうした方がいいんじゃないかって、思うよ」

「だったら!」

「でもね――アタシだけがこんなに幸せだと、どうにも歯痒くてさ。ずっと昔に、混血の自分の最期はきっと碌でもない死に方をするんだろうって、リディアと覚悟してたのに、気が引けちゃって」

「何を言い出してるんだ、誰にだって幸せになる権利はある! 今までさんざん迫害されてきたんだろ! 虐げられてきたんだろ! だったらなおの事、君には幸せになる権利がある! いや、幸せにならなければならない!」


 ガイウスの説得に、マリアは力なく首を横に振った。


「それはさ、もう充分堪能した――もちろん、もっとガイウスとエレオノーラと一緒にいたいって思うよ。でもね――」


 徐にマリアは天井を仰いだ。


「その幸せを感じるたびに、そうはならなかったヒトたちの事が頭をよぎるの。今まで生きてきた中で、色んなヒトの不幸を見てきた。多分、アンタより、ずっと多く。なんでだろう、なんでこのヒトたちはこんな目に遭わなければならないんだろうって、見るたびに思った。でも、考えれば考えるほど、悲しくなって、苛立った。何故なら、そのどれもがただの理不尽でしかなかったから」

「だからって、君が自分からその理不尽に苦しむことはないだろう。マリア、君は選ばれたんだ。神の巡り合わせが、そんな理不尽から君を救ってくれたんだ」

「アタシを救ってくれたのはアンタだよ、ガイウス。神なんかじゃない」


 そう言われたガイウスは、虚を突かれたように固まった。


「初めて会った時は、自分でも何でこんな面倒な人間の男を拾っちゃったんだろうって思った。しかも騎士だし。でも、アンタの看病してるうちに、段々とアタシの中で諦めていた色んなものがまた温まってきてさ。その時初めて、この世界に生まれてよかったって思えてきたんだ」


 そして、次第にマリアの身体が青白く発光し始めた。突然の魔術の実行反応に驚くガイウス――マリアが、自分で自分の刑を執行したのだ。


「ガイウスと一緒になってからは毎日がすごく楽しくて、居心地がよくて、ようやく幸せって言葉の意味を理解した。そして同時に――過去、現在、未来、この幸せを感じることなく、理不尽に散っていったヒトが何人いるんだろうって思った。そのたびに心が痛んだ。だけど、ガイウスなら、アタシを救ってくれた騎士様なら、この世界を変えてくれるんじゃないかって思うようにもなった」

「……やめてくれ」


 頼りない足取りで、ガイウスはマリアに近づいていった。


「ガイウス、アンタはこのまま教会で偉くなって、この世界を変えて。アタシたちの幸せ、アタシたちが夢見た世界を実現して。アンタなら、絶対にそれができる」

「やめてくれ」

「アンタが作ったその世界なら、きっとエレオノーラも幸せになれる。アタシやリディアみたいに、毎日を怯えて暮らすような目に遭わなくて済む。これは、アタシの最後の我儘。混血として、母親として、ガイウスの妻としての」

「やめてくれ!」

「だからさ、こんな理不尽はアタシで最後」


 ガイウスがマリアの身体を抱き締めようとしたが――すでに彼女は実体を失いかけており、触れ合う温もりはなかった。


「どこにも行かないでくれ……頼むから……!」

「ごめんね……」


 肌に感覚がない状態でも、ガイウスはマリアの身体に両腕を纏わせた。


「ガイウスとエレオノーラのこと、ずっと愛してる――」


 マリアは最後にそう言い残し、光の塵と化した。

 ガイウスは、両腕をマリアの身体を抱き締めた形のままに立ち尽くした。


 それからどれだけの時間が経ったのか――自身は、いつの間にか床に両膝を付いて座り込んでおり、ただひたすらに項垂れていた。


 やがて尖塔の扉が開き、


「……ガイウス卿? その、処刑は? 御付きの騎士の姿も見当たりませんが?」


 衛兵がガイウスの背に声をかけた。


「ガイウス卿?」


 だが、それには答えず、ガイウスは覚束ない足取りで外に出る。


「――世界を、変える……」


 うわ言のように一つ呟き、一人歩みを進めた。


 空には、分厚い雨雲の裂け目から、天使の梯子が伸びていた。

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