第三章 賽は投げられたⅩⅥ
だいぶ遅くなり申し訳ないです。
その日、アウソニア連邦は広範囲に渡って大雨に見舞われていた。幸い、土砂崩れや洪水などの被害はどの地域も確認されなかったが、国民たちは不要不急の外出を控えざるを得ない状況だった。
西部辺境の村のオルタも例外ではなく、マリアとエレオノーラは今日一日、家の中に籠りっぱなしだった。
日が沈み、分厚い雨雲と相まって外が深い闇に包まれた頃、不意に玄関の扉が音を鳴らした。雨風の音ではなく、間違いなくヒトによるものだ。
こんな悪天候にいったい誰が――マリアは怪訝に思いながら、慎重に扉を開けた。
「ああ、カーラさん。どうしたの、こんな雨の中?」
外にいたのは、黒いレインコートを頭から被った中年の女性だった。彼女はオルタの居住区に住んでおり、マリアとエレオノーラが混血であることを知る村で唯一の存在だ。赤子の世話になれていないマリアを親身になって支えてくれた恩人でもあり、それがきっかけで今では正体を明かしたうえでの付き合いがある。
カーラは手に持っていた籠から、拳一つ分くらい大きさのなめし皮で包まれた何かを差し出してきた。
「いいお肉もらったからちょっとおすそ分けしようと思って。この村じゃあ肉を手に入れるのも一苦労だろう?」
マリアは嬉々とした表情で肉を受け取った。その後で、玄関わきに除けてあった野菜の入った籠をカーラに渡す。
「いつもありがとうね。よかったらこの野菜もらってよ」
「ああ、ありがとうね」
村社会によくある何気ない物々交換――しかし、カーラの顔はどこか不安げで、落ち着きがなかった。
「どうしたの?」
違和感を抱いたマリアが訊くと、カーラは周囲を気にしながら家の中に入って扉を閉めた。
「ちょっといいかい」
そう断りを入れたあと、神妙な面持ちでマリアに近づく。
「最近、村で妙な奴らを見かけるようになったって話、聞いてるだろ?」
「うん。この辺のヒトじゃないんでしょ? それがどうしたの?」
「少し前に、村のヒトがそいつらに質問されたみたいなんだ。『混血がここに住んでいないか?』って」
マリアが眉を顰めると、カーラはさらに声を潜めた。
「アンタたちが混血だって知っているのはアタシしかいないはずだから、質問された奴もいないって答えたらしいんだけど……」
「けど?」
「そいつ、余計なこと言っちまったみたいなんだ。『エルフなら少し離れた場所に住んでる』って。しかもその怪しい奴ら、噂によるとラグナ・ロイウの総督、イザベラ・アルボーニのことを喋っていたって」
マリアは、自身が混血であることを伏せ、村ではエルフとして過ごしていた。そして、エルフの外見的な特徴がない娘のエレオノーラは、血の繋がっていない人間の子供だと周囲に説明していた。七年以上、その嘘を突き通すことができていたため、完全に油断していた。カーラの言葉に、マリアは電気を通されたようなショックを覚える。
「マリアさん、ちょっと警戒した方がいい。もしかすると、総督がアンタの事を探しているのかもしれない」
「ラグナ・ロイウの総督が? なんでまた……」
「わからないけど、とにかく用心しておくに越したことはないよ。すごく嫌な予感がする」
ラグナ・ロイウの総督とは何の接点もない。だが、この村で混血を探しているということは、間違いなく自分を探しているのだろうと、マリアは容易に結論付けた。
カーラの言った嫌な予感は、間違いない。
「……ねえ、カーラさん」
「何だい?」
マリアは、もらったばかりの肉をカーラに返した。
「エレオノーラのこと、少しの間、預かってもらっていいかな?」
「アタシは別に構わないけど……どうしたんだい?」
「ちょっとね。カーラさんが言った通り、念のために備えておこうかと思って」
「マリアさん……」
覚悟を決めたマリアの顔を見たカーラは、沈痛な面持ちで声のトーンを落とした。
「エレオノーラ」
それを尻目に、マリアはエレオノーラを呼んだ。
家の奥から、ぱたぱたと可愛らしい足音が忙しそうに響いてくる。
「はーい」
エレオノーラは、母親に呼ばれた嬉しさから無意味にマリアの足に抱き着いた。
マリアは、そんな我が子の頭を優しく撫でる。
「ちょっと悪いんだけど、今日はカーラおばさんのところに泊まりに行ってくれるかな? お母さん、一人でやらないと駄目なことがあって」
すると、エレオノーラの表情は驚きと失望に変わった。
「えー! お母さん、このあとお勉強教えてくれるって言ってたのに!」
「それはまた今度。カーラおばさんだって教えてくれるから」
マリアが柔和に諭すが、エレオノーラは駄々っ子するように何度も小さくその場で跳ねた。
「やだ! お母さんがいい!」
子供らしい我儘を言うエレオノーラに、カーラが苦笑しながらしゃがんで視線を合わせる。
「エレオノーラちゃん、おばさんじゃ頼りないかもしれないけど、今日だけ我慢しないかい? お母さん、大事なお仕事があるんだって」
「やだ!」
エレオノーラは断固として受け入れる姿勢を見せず、マリアにべったりとくっついた。
しかし――
「エレオノーラ!」
突然、マリアが声を張り上げた。
今まで一度もエレオノーラの事を叱ったことのないマリア――急に出たその容赦のない振る舞いに、エレオノーラは身を竦める。
「お母さんの言うこと聞けないなら、アンタはうちの子じゃないよ」
しばしの沈黙、エレオノーラが呆然として固まる。だが、次第に言葉の意味を理解したのか、大声で泣き始めた。マリアから逃げるように離れ、代わりにカーラに抱き着く。
「あーよしよし。エレオノーラちゃんはいい子だから、ちゃんとお母さんの子供だよ。だから泣かないで」
カーラがあやすも、エレオノーラは相当なショックを受けたようで、外の雨音を掻き消すほどの声量で泣き続ける。
マリアは、酷いことを言ってしまった後悔と、今すぐに謝って抱きしめたい衝動を必死に抑え、
「……カーラさん、申し訳ないけど、その子のこと、お願いします」
頼りない声で、カーラに頭を下げた。
カーラは、すべてを察し、受け入れた様子で、エレオノーラを抱えて立ち上がる。
「……何も起きないことを祈ってるよ、マリアさん」
それから、カーラはエレオノーラを連れて家の外に出て行った。
暗闇の中で、マリアは我が子の“最後”の姿を見送り――“準備”を始めた。
家の中には、自分と、エレオノーラが生活していた痕跡がある。彼女は、エレオノーラに係るありとあらゆる物の処分を始めた。ラグナ・ロイウの総督が捜索している混血が自分だけなら、エレオノーラの事は隠すことができるはず――子供服、可愛らしい絵柄の陶器など、我が子が使ってきた思い出の品を、マリアは胸が張り裂ける思いで次々と破壊し、窯に入れて燃やした。
次に、昔から付けていた日記と、リディアとの手紙を取り出す。手紙はすべて焼却し、次に日記を中に入れようとしたが――
「……さすがにこれは焼けないな」
日記から落ちた写真を見て、小さく笑った。エレオノーラが生まれたばかりの時に、ガイウス、リディアの四人で撮った写真だ。
マリアは写真に一筆添えてそれを日記に挟むと、布と袋で包み、台所の床下倉庫に入れた。蓋を占めたあと、紙とペンを手に取り、手早く印章を描いて魔術を発動させる。日記を入れた倉庫の蓋は石畳に覆われ、ぱっと見では元々そこに倉庫があったことがわからないようになった。
とりあえずはこれで大丈夫だろう――マリアは人心地が付いたように、ホッと息を吐く。
直後、家の玄関がノックされた。
開けると、そこには数人の騎士を引き連れたガイウスが立っていた。
※
カーラの家に引き取られたエレオノーラはひとしきり泣きじゃくったあと、疲れてそのまま眠りに付いていた。だが、雨風に混じって聞こえた聞きなれない音に、妙な胸騒ぎを覚えて目を覚ます。
カーテンを開けて外を見ると、村の少し外れたところに見たこともない大きな機械があった。いつか見た新聞の記憶を辿ると、空中戦艦と呼ばれる代物のはず。それにしては小さかったが、恐らくは子機に相当するドローンなのだろう。
しかし、エレオノーラにとってそんなことはどうでもよく――目を疑ったのは、複数人の騎士に囲まれ、今まさに連れていこうとされている母親マリアの姿だった。
その瞬間、エレオノーラは理解した。マリアは、騎士に連れていかれないように怒ってでも自分をここに隠したのだと。
一気に覚醒したエレオノーラは、雨具を付けることもなく家の外に飛び出した。
それを見たカーラが、慌てて後を追う。
「お母さん! 待っ――」
「駄目!」
カーラが、エレオノーラの小さな背中に覆いかぶさるようにして抱きかかえた。
「エレオノーラちゃん、駄目だ! 今出たら、アンタまで捕まっちまう!」
カーラが必死に押さえ付けるも、エレオノーラは手足を全力でバタつかせて抵抗する。
「放して!」
「駄目だ! 言うことをお聞き!」
一喝したカーラは、エレオノーラを正面に向き直らせた。
「マリアさんは――お母さんはね、アンタの事を逃がしたんだよ!」
エレオノーラは、涙を流しながら悔しさに唇を噛み締めるカーラを見て、動きを止めた。
「だから、言うことを聞いておくれ……!」
懇願するカーラの声に、エレオノーラは少しだけ我を取り戻した。
しかしその直後、轟音が周囲に鳴り響く。見ると、空中戦艦のドローンが、徐々に高度を上げているところだった。
それを見たエレオノーラの頭の中は、再び母親のことでいっぱいになった。
「お母さん! お母さん!」
「エレオノーラちゃん!」
エレオノーラはカーラの腕を振りほどき、ドローンが飛び去った方に走り出した。混血特有の高い身体能力は瞬く間にカーラを置き去りにし、エレオノーラを暗闇の中に一人にする。
だが、はじめは全力疾走だったものの、雨風が容赦なく少女の華奢な体を打ち、体力を奪って言った。
「お母さん……お母さん……!」
それからどれだけ走ったのだろう。
周囲には人影どころか、獣の気配すら感じられない。一心不乱に走り続けたせいで、自分がどこにいるのかもわからない。悪天候の夜、周りが森なのか、はたまた川か海の近くなのか――急激な疲労のせいで、それを認識する意識すらも保っていられない。
「おかあ、さん……」
やがて歩くことも立つこともできず、エレオノーラは倒れた。
もはやできることと言えば、母親を求めることだけ――
「――驚きました。まさか、本当に“行けばわかる”とは」
意識を完全に失う直前のエレオノーラの記憶は、誰かが近くでそう言ったことだけだった。




