第三章 賽は投げられたⅩⅤ
リディアがアナスタシアを次の聖女に推薦してから数日後、それは教会内でほぼ確定事項になった。女子修道会に異を唱える者はほぼおらず、残るは教皇庁の承認のみとなっていた。今の聖女の寿命が近いと言われていることからも、教会としては早期に候補が決定することは渡りに船であり、その準備はとんとん拍子で進む勢いだった。
今日も、ルーデリア大聖堂では次期聖女の就任に係る議論が進められ、教皇、枢機卿団、女子修道会、そして騎士団に所属する多くの要職の面々が集められた。
「先生、やはり今からでもアナスタシアが聖女になるのを反対した方がいい。あの女が聖女になれば、その権力を使って好き放題に自分の思想を大陸中に押し付けるのは目に見えている」
議論を終えた会議室から最後に出たのはガイウスだった。回廊に小さく響いた彼の声は、前を歩いていたリディアの背にかけられる。
「あの女の危険性は先生が一番よくわかっているだろう? 男女の恋愛を不純なものとして規制し、子供を下等な生き物と宣うなんて馬鹿げている。個人で思う分には勝手にすればいいが、それが大陸社会全土に崇高な思想として広められたら溜まったものじゃないぞ」
この時点で、騎士団だけはアナスタシアが次の聖女に就任することに反対の立場であった。主な理由としては、やはり極端に偏った思想を持っていることであり、影響力に歯止めが利かなくなることだ。弱者を扇動、利用し、救済を謳ったプロパガンダ――一歩間違えれば、現行の大陸社会の体制を根底から覆すことになってしまう、それを最も危惧した。体制転覆の際に世が混沌とするのは常であり、真っ先に犠牲になるのは、それこそ弱者なのだから。
「先生!」
その懸念を孕んだ声で、ガイウスが何度もリディアに呼びかける。
しかし、彼女は意気消沈といった面持ちで、覇気を失っていた。
「……私にはもう、貴方に先生と呼ばれる資格なんてないわ」
ぽつりと言ったリディアに、ガイウスは眉根を寄せた。
「……どういう意味だ?」
今までに聞いたこともない恩師の声――怯えるような、悔いるようなリディアに、ガイウスの胸中も穏やかではいられなかった。
疫病のように広がった不穏が二人の空間を満たした時、リディアがガイウスに振り返る。
「……ガイウス。アナスタシアは、私とマリアの――」
「ガイウス様!」
リディアが何かを言いかけた時、若い男の声が回廊の空気を震わせた。
声の元を見ると、一人の若い騎士が血相を変えてこちらに駆け寄っているところだった。その騎士は数年前に騎士になったばかりの青年であり、ガイウスの弟子であった。
「ここにいらっしゃったんですね。探しました」
「ランスロットか、どうした?」
ガイウスの弟子――ランスロットは、懐から一枚の紙を取り出した。それは教皇庁から発行された勅書であり、騎士を指名しての任務内容が書かれてあった。
「ガイウス様を指名しての任務です。教皇庁から、至急にと」
「教皇庁から?」
本来、教皇庁から騎士団に向けて個別の任務が出されることは、騎士団の独立性の観点から、異例ともいえることであった。ゆえに、それは無条件で火急かつ重大な案件として扱われる任務であることを証明していた。
ガイウスは取り上げるように勅書を受け取り、内容を確認する。
そして、固まった。
「数年前にガイウス様が取り逃した混血の所在がわかりました。匿名での密告があったようです」
マリアの捕縛命令が、そこには書かれてあった。
※
「アナスタシア!」
マリアの捕縛命令がガイウスに出された瞬間、リディアはアナスタシアのもとへ一目散に駆け出した。アナスタシアの住居であるルーデリア大聖堂近くの修道院に押し入り、彼女の私室をノックなしに開ける。先ほどの怒号は、それと同時に発せられたものであった。
端正に整ったリディアの顔は、この時ばかりは怒り狂う悪魔のように酷く歪んでいた。
「あら、シスター・リディアからお会いに来てくださるなんて、珍しいですわね」
アナスタシアは、私室窓際のテーブルで優雅にお茶を嗜んでいた。鬼気迫る剣幕で入室したリディアを見ても意に介した様子をまったく見せず、あまつさえ、どこか嗤笑したような顔をしている。
リディアはそれに、掴みかかる勢いで迫った。
「何故マリアのことを教皇庁に伝えたの!」
「マリア? 何のことでしょうか?」
カップを口に近づけるアナスタシアに、リディアは上下左右の犬歯を剥き出しにした。
「とぼけないで! マリアの居場所を知っているヒトなんて限られている! 私の手紙を見た貴女以外に考えられない!」
「わたくしには何のことか。そもそもとして、マリアというのはどなたのことでしょうか?」
「私の姉よ!」
今にも殴りかかりそうなほどに怒り狂ったリディアを前にしても、アナスタシアは余裕を崩さなかった。カップを口から離し、恍惚とした表情で一息つく。
「あら、そうでしたの。ということは、貴女のお姉さまも混血――ハーフエルフということになりますわね。であれば、騎士団に排除してもらわなければなりません。混血の存在は教会が認めていないので」
そんなアナスタシアの態度に、リディアは得体のしれない獣を見るような目で見下した。
「……どうしてあんなことをしたの。私は言われた通り、貴女を聖女に推薦したというのに!」
「それは貴女の処遇を不問にする代わりに取引したお願いごとですわ。貴女の姉については、何も触れられなかったもの」
「屁理屈を……!」
低く唸るリディアを見たアナスタシアが、したり顔で椅子から立ち上がる。
「シスター・リディア、ご自身が混血であることは百歩譲って置いとくとして――まさか、教会が禁忌としている混血の存在を擁護するおつもりですか? シスターともあろうものが。それに、教皇庁に密告したのは本当にわたくしではありません。不正を許せないどこかの誰かが、義憤に駆られて――」
刹那、リディアの右手がアナスタシアの頬を打った。乾いた音が響いた次の瞬間には、アナスタシアが怒りに変えた顔を正面に戻す。
「何をするのですか!」
怒るアナスタシアに、リディアは拳を握りしめ、荒い息遣いで応えた。
「……私の命だけの話であれば、貴女を聖女に推薦なんかせず、自分から身を捧げるつもりだった。だけど、それを察した貴女は、孤児院の子供たちにまで危害を及ぼすと言ってきた! 大事な家族を守れるならと、だから貴女の言うことに従ったのに……!」
怒りと悔しさに目元を滲ませるリディアに、アナスタシアは侮蔑の視線を送った。
「大袈裟な。家族ごっこをしているだけでしょう。どこぞの愚か者たちが生殖本能に任せて自分勝手に産んだ忌み子を育てるなんて、考えただけで身の毛がよだつ。男の被害を受けたか弱い女性たちに対する冒涜的な象徴でしかないというのに」
リディアは俯いたまま、上目遣いでアナスタシアを睨んだ。
「……哀れね。貴女は今まで誰にも愛されたことがなかったのでしょう。だからそんな風に自分の価値観でしか物事を語れず、誰にも受け入れられないのよ」
怨嗟を込めたリディアの皮肉に、アナスタシアは目を見開いた。
「混血風情がなんて事を! そういうお前こそ、体を売るしか能のないクソビッチだろうが! こっちは日記も見たんだぞ!」
罵声で吠えるアナスタシア――それを見るリディアの目は、ヒトを見るものではなかった。
「どうした! 言い返してみろよ、負け犬が! 自分で認めたな!」
もはや怒りすら沸いてこないと、リディアは弱々しく踵を返す。
「……貴女の知性と理性は獣以下よ、アナスタシア。もう話すことに意味を見出せない」
その声色は、どんな言葉よりも失望と嘆き、憐れみを表していた。かけられた方は、なまじ罵倒される以上に惨めに感じ、見下された思いになるだろう。
アナスタシアは暫く歯ぎしりをしたまま震えていたが、リディアが部屋から出ようとした間際――
「――そういえば、密告された混血には子供もいるらしいですわね」
背中に小石を投げつけるように、そう言ってきた。
亡霊のようになっていたリディアの背筋が凍る。
「密告の対象は母親だけですが、見つかればきっと子供も騎士団に処分されるでしょうね」
瞬間、リディアは駆け出した。廊下にいた他の修道女たちを突き飛ばし、人目も憚らず全力で走る。
「馬鹿が! 教会が認めていない存在なんてこの世から全員死んでしまえ! 売春修道女が!」
そんなアナスタシアの罵詈雑言は、リディアにはすでに聞こえていなかった。
※
リディアが外に出た時、空は酷い雨だった。時刻はすでに十八時を回っており、星明りもなく、街灯なしでは暗闇同然の状態だ。
だが、それでもリディアはマリアのもとへ向かって走るしかなかった。足が付く可能性があるため、鉄道のような公共機関は下手に使えない。どれだけ苦しかろうが、前が見えなかろうが、リディアには走るしか手段がなかった。聖都セフィロニアを出て、辺りに道と呼べるものがなくなっても。せめて、マリアとガイウスの子供だけでも助け出さなければ――その一心だけが、彼女の足を動かしていた。
しかし、マリアたちのいる場所――オルタまでは、どう見積もって丸一日以上かかる。その間、この全力疾走を維持できるはずもない。ハーフエルフの体力を以てしても、リディアは走り出してから三時間ほどで限界に達した。
気づけば、周囲は人気のないどこかの森の中だった。雨はさらに激しさを増し、木々の傘の間を抜けてリディアの身体を容赦なく打つ。
やがて、意思に反して足が動かなくなり、リディアは泥飛沫を上げながら地面に前から倒れた。
歯を食いしばり、拳を握りしめ、腕の力だけで前に進もうとするが、雨を吸った土が体にまとわりつき、その行く手を阻む。
どうにもならない無力感、そして自分の犯した過ちから来る罪の意識に、リディアは悲鳴のような嗚咽を漏らした。
もうどうにもならないのなら、いっそこのまま惨めに独り死んでしまおうか。その先で、マリアに謝れば――そんな考えが頭をよぎった、その時だった。
リディアの前に、誰かが立っていた。
「貴方は……」
地面に突っ伏した顔を上げた先にいたのは、一人の騎士――イグナーツ・フォン・マンシュタインだった。リディアの身辺警護として、ヴァルターが秘密裏に配備させた騎士だ。
「シスター・リディア、どこへ向かわれるのですか? こんな悪天候の夜では、まともに歩くことも難しいでしょう。早くお戻りください」
イグナーツは人形のような顔つきのまま、冷たい視線で言ってきた。
対し、リディアの顔に、ほんの少しばかりの生気が戻る。
この男に、賭けるしかない。
「……この国の西の方に、どの属州も管理していない、オルタという小さな村があります」
リディアは地を這いずりながらイグナーツに近づいた。
「そこに、七歳くらいの小さな女の子がいるんです。その子を、保護していただけませんか」
「わかりました。しかし、私は貴女の身辺警護を任されているため、別の騎士を――」
「騎士団には言わないで!」
雨風を掻き消す勢いで声を発したリディアに、イグナーツが眉を顰めた。
「この事は誰にも言わないで! 子供のことも、私に依頼されたことも!」
「承服しかねます。せめて、理由をお聞かせください」
淡々と事務的に口を動かすイグナーツ――彼の足元に辿り着いたリディアは、藁にも縋る思いで彼の服の裾を握りしめる。
「お願いします……私にできることなら、なんでもしますから……!」
「シスター?」
死にきれない屍のような動きをするリディアを見て、さすがのイグナーツも困惑に表情を崩した。
「何も聞かないで……! お願いだから……!」
ただただ、リディアは泣きじゃくった。
「お願いします……お願いします……! あの子を助けて……! どんな罰でも受けるから……!」
その有様は、まさしく罪の告白、そのものだった。
次回更新ですが遅れてしまっています。申し訳ないです。
早ければ明日にも。




