第三章 賽は投げられたⅩⅣ
「先生!」
とある日の昼下がり、ルーデリア大聖堂の回廊にガイウスの声が響いた。慌ただしい靴音が床を鳴らした先にいたのは、リディアだ。
「いったい何があった? 何故、アナスタシアを聖女に推薦した? 先生の推薦でほぼ決まったようなものだぞ」
ガイウスの呼びかけにリディアは足を止めたが、振り返ってはくれなかった。
「先生!」
「……ごめんなさい、貴方には何も言えない」
リディアはそれだけを言って俯いた。今までに見たことがない、らしくない恩師の反応に、ガイウスは眉根を寄せる。
その時だった。
「あら、ガイウス卿ではありませんか」
後ろから、やけに浮き立った女の声がかかった。
ガイウスが振り返ると、そこにはアナスタシアが立っていた。いつ見ても腹黒く厭らしい顔をしている――今日は一段と、それが際立って見えた。
「わたくしの聖女就任、その前祝いに来ていただけたのでしょうか?」
アナスタシアの戯言に、ガイウスは威嚇するように顔を顰める。
「シスター・アナスタシア、先生に何をした?」
「何をした、とは?」
そう言って、アナスタシアが殊更に惚けた様子で首を傾げる。ガイウスは苛立ちを抑えながら口を動かした。
「先生が貴女を支持するとは考えられない。貴女が聖女になることに、先生は否定的な立場でいたはずだ。それが、どうして突然」
「さあ。シスター・リディアも一人のヒトです。考えの一つや二つ、変わることもあるかと」
絶対に何かある――アナスタシアの振る舞いは、ガイウスでなくともそう感じられるほどに演技がかっていた。
猜疑心任せにますます眉間の皺を深くするガイウスだったが、
「それよりもガイウス卿――」
不意にアナスタシアが話題を切り替えてきた。
「ラグナ・ロイウでの暴動鎮圧のご活躍、お見事でした。今や貴方の名を知らぬヒトはこの大陸にいないことでしょう。わたくしもシスターとして、そして個人としても尊敬いたしますわ」
「……何を企んでいる?」
嫌悪感を剥き出しにしているにも係わらず、アナスタシアはずけずけと押し入るように賛辞の言葉をかけてきた。ガイウスが低い声で訊いても、その顔には不自然とすら思えるくらいの余裕が満ち溢れている。
「心外ですわ。今の言葉に何も裏はありません。若くして目覚ましい功績を残した方に心を奪われ、敬意を払うのは当たり前のことです。この分だと、長年空席となっている騎士団総長の座が埋まるのも、時間の問題ですわね」
「貴女には関係のないことだ。誰を総長にするのかは、騎士団内部の採決で決められる」
不躾に騎士団の内情に干渉されたような気がして、ガイウスは今度こそはっきりと突き放す口調で言った。
しかし、それでもアナスタシアは臆することはなかった。
「ガイウス卿、貴方は世界に必要なお方です。貴方ならきっと、この世の不条理を変え、苦しむ弱者を救済する存在になれます」
「要らぬ期待だ。俺は俺の目指すもののために務めを果たすまで」
「まあ、頼もしい」
アナスタシアが口元を押さえて笑う様は、嘲笑しているようにも見て取れた。彼女はその表情のまま、修道服の裾を優雅に翻して踵を返す。
「もっとお話ししたいのですが、あいにくこれからとある要人との面会がありますので、これで失礼いたします。今度は是非、ちゃんとお時間を設けてお話ししたいものです」
もう二度と目にしたくない――そんなガイウスの胸中などいざ知らず、アナスタシアは意気揚々とした足取りで回廊の奥へと消えていった。
「――貴方の栄光を阻むものは、わたくしが排除してさしあげますわ」
※
アウソニア連邦の西部、山と湖を挟んだ位置にオルタと呼ばれる小さな村がある。村から山に向かって数時間歩いた先には木造建ての民家が一つ建っており、当時、そこには変わり者のエルフの女と、その養子の少女が住んでいた。
しかし、両者の本当の関係は血の繋がった母娘であり、エルフと人間の血を引く混血だった。二人は一部の村民を除いて正体を偽りながら暮らし、決して裕福ではない生活でありながらも、仲睦まじく、穏やかな年月を過ごしていた。
今日もそんな平凡な毎日が訪れる――母親のマリアは、日課の買い出しから帰って早々、テーブル上に何気なく広げた朝刊の一面に釘付けになった。その顔には隠し切れない嬉しさが滲み出ており――娘のエレオノーラが、不思議そうに小首を傾げてきた。
「お母さん、どうしたの?」
エレオノーラが身体を倒し、テーブルの横から覗き込んできた。
マリアは新聞を一度たたみ、愛娘を自身の膝の上に座らせる。
「うん? 何が?」
「うれしそうな顔してたから」
「ちょっとねー」
マリアが誤魔化すようにエレオノーラの両頬を撫でる。すると、エレオノーラは少しだけ不満そうな顔になった。
「なに? なに? エルも知りたい!」
「どうしよっかなー」
「お願いー!」
ついには足をばたつかせ、マリアの膝の上で小さく暴れ出した。
マリアは苦笑いしつつ、エレオノーラを後ろからぎゅっと抱き締める。
「エレオノーラは、お母さんの言うことちゃんと聞けるかな?」
「聞ける!」
「お母さんとの秘密、守れる?」
「守れる!」
元気よく答えたエレオノーラの頭を、マリアは優しく撫でた。
「じゃあ、これから話すことは、お母さんとエレオノーラの秘密ね。絶対、他のヒトに言ったら駄目だよ」
そう言ってマリアは、再度テーブルに新聞を広げた。そこには、ラグナ・ロイウの暴動について詳細に書かれた記事が載っており――中央には、勇ましい顔で指揮を執る一人の騎士の姿があった。
「エレオノーラのお父さんがね、大活躍したんだよ」
マリアがそう言うと、エレオノーラは物探しするような所作で新聞を見遣った。
「どれー?」
「このヒト」
マリアが新聞の騎士を人差し指で示した。
エレオノーラは、数秒まじまじと写真を見た後で、驚いたような、不可解そうな、なんとも言えない表情で振り返ってきた。
「このヒトがエルのお父さん?」
「そうだよー。かっこいいでしょ」
「ふーん」
初めて見た父親の顔にも係わらず、エレオノーラの反応は薄かった。マリアが肩透かしを食らって顔を渋くしていると、
「どんなヒトなの?」
エレオノーラはまた無邪気に質問をしてきた。
「強くて、頭がよくて、とっても頼りになるヒト」
エレオノーラは今度、何かを考えるような顔になった。暫くじっと新聞を眺めたあと、再度振り返る。
「どうしてお父さんはここにいないの?」
その質問に、マリアは少しだけ胸を痛めた。強くて、頭がよくて、頼りになるヒト――そんなヒトなのに、どうして一緒に生活していないのかを、子供ながらに疑問に思ったのだろう。
マリアは、エレオノーラを抱え直した。
「お父さんはね、お仕事頑張ってるの。みんなが幸せになれるようにって」
「お母さんは、お父さんに会ったことがあるの?」
「あるよー。お仕事が終わったら、お母さんとエルと一緒に三人で暮らそうって言ってた」
マリアの言葉に、エレオノーラは嬉々として目を輝かせた。
「ほんとう!? いつ会えるの!?」
「いつかなー。エルがいい子にしてたら、お仕事が早く終わって会いに来てくれるかもねー」
途端、エレオノーラの表情が悲しそうに曇った。何気なくお茶を濁す台詞を選んだが、この子はそれを想像以上に真に受けてしまったらしい。
「エル、いい子じゃないの?」
涙目になってきた愛娘を前に、マリアも思わず怯んでしまう。慌ててエレオノーラを正面に抱え直し、愛情いっぱいに抱き締めてあげた。
「いい子だよー! エルはいい子、いい子。だから、もっといい子にしてようね」
椅子から立ち上がり、赤子をあやすように大袈裟に振る舞うと、エレオノーラはすぐに機嫌を直してくれた。声を挙げながらはしゃぎ、満面の笑みを見せてくれる。
「うん!」
それからマリアとエレオノーラは、もう一度、新聞に写る騎士――ガイウス・ヴァレンタインの姿を目に焼き付けた。
「エルもお父さんに会いたいなー」
期待と寂しさを孕んだその声色に、マリアは力なく笑った。
※
混血の母娘が、夫、父親との再会を密かに望んでいた時と同じくして――ラグナ・ロイウの総督府宮殿では、二人の女が密会を進めていた。
日が傾き、薄暗くなった部屋で――亡き父の後を継いで現代の総督となったイザベラ・アルボーニと、次期聖女となったアナスタシアが、優雅にお茶を嗜んでいる。
「それが、貴女のお子さんですか。イザベラ・アルボーニ総督」
カップを口から離したアナスタシアが、イザベラに抱かれる赤子見て訊いた。
イザベラは、産まれたばかりの赤子に愛情深く頬ずりしながら頷く。
「ええ。先月産まれたばかりなの。父親に似て、とっても利発そうな顔をしているでしょ?」
父親――その言葉を聞いて、アナスタシアは気付かれないように鼻で笑う。
「父親……貴女はこの子の父親を、騎士のガイウス・ヴァレンタイン卿であると、周りに仰っているようですわね」
そんなわけはないだろうと、内心小馬鹿にしながら言った。
対して、イザベラは微塵の疑いもない様子で誇らしげに赤子を見せびらかしつつ、少し驚いた顔になった。
「あら、よくご存じで。そうよ、この街と、私を救い出してくれた英雄の血を継ぐ子よ。母親として誇らしい限りだわ」
この時のイザベラは、暴動時に受けた暴行のショックから精神に異常をきたしており、自身に都合の良いことを事実として捉えるようになっていた。そのもっともたる事例こそが、この赤子である。いつ、誰に孕まされたのかもわからない子供――その父親が、自分を救い出してくれた英雄であると思い込んでいた。
そのことはアナスタシアも承知していたが――彼女はそれを、利用するつもりでこの場を設けたのだ。
「しかし、本来騎士とは家庭を持つことが許されない身分――にわかに信じられませんわ」
大袈裟に、嘆くようにアナスタシアが言うと、イザベラは負け惜しみを聞かされたように肩を竦める。
「なんと言われても結構。世間では私の事を頭のいかれた狂人などと吹聴する輩もいますが、ほかならぬこの子を産んだ私が言うのです。父親を間違えることなんてありえません」
「あくまで、ガイウス卿の妻は自分である、そう仰いますのね」
「当然」
自信満々に言い切ったイザベラを見て、アナスタシアは利用できることを“確信”した。
「では、次に話すことは貴女にとって、とても残酷な事実になりますわね」
「何の話かしら?」
わざとらしく声を不穏にして言うと、イザベラは飢えた魚のように食らいついた。
アナスタシアがほくそ笑む。
「実は、イザベラ様のほかに、自分こそがガイウス卿の妻であると宣う女がおりますの」
「どういうこと?」
イザベラの顔から余裕の笑みが消え、アナスタシアはさらに口元を緩めた。
「しかもその女、よりにもよって、教会が認めていない混血であるとの噂が……」
リディアの手紙、そして、そこに書かれていたガイウスの妻子の存在――アナスタシアは、イザベラを利用してそれらの始末を企てていた。
すべては、自身の理想の中で描かれるガイウスのために――




