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辺獄の黒騎士  作者: シベハス
第四部
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第三章 賽は投げられたⅩⅡ

 ガイウスが騎士団に戻ってから数年が経った。

 教皇庁とガリア公国の企みを裁ける兆しは依然として見つからず、騎士団の捜査は難航の一途を辿っている。

 しかし、それでもガイウスは妻子の存在を胸に秘め、懸命に働き続けた。いつの日か、世界の不義を白日の下に晒し、それを糧に己の理想を叶えるため――


 ガイウスが従来の任務とは別件で呼び出されたのは、騎士団本部の周りに雪解け水がなくなった四月だった。


「ラグナ・ロイウの暴動?」


 円卓の間に座したガイウスが訊くと、副総長のユーグは頭の痛そうな顔で頷いた。


「ああ。属州総督ロドリゴ・アルボーニの汚職が少し前にスキャンダルされたことは知っているな? それが民間人の怒りを買ってしまったらしい。もう半年以上続いているが、鎮静化するどころか、激しさを増している。都市はすでに陥落、総督も三ヶ月前に殺された」

「その件、私が任されている例の件と何か係わりが? 私を呼び出したということは、何かしらの関連があると考えますが」


 ガイウスの疑問に、ユーグは卓上の書類を見るように促してきた。


「暴徒化した民間人に拘束された者の中に、あの件と係わりの深い要人の存在が確認された。事業規制融通の見返りに、枢機卿団に多額の資金を提供していた。その資金が例の件に使われていたらしい。暴動を機に、教皇庁が口封じのため始末する可能性がある」

「なるほど。その要人が生きている内に、暴動を鎮圧、要人を保護すると」

「そういうことだ。急な話で申し訳ないが、行ってくれるか?」


 ガイウスは手元の書類に一通り目を通したあと、静かに首を縦に振った。


「その任、拝命しました」


 快諾したガイウスだったが、対するユーグの反応はどこか痛ましそうであった。


「突然の話で面倒をかけて申し訳ない。そのお詫びというわけではないが、君には騎士を何人か付ける。武装放棄に従わない反政権派の民間人は即時拘束、場合によっては斬り捨ててしまっても構わない。現場はそれほどまでに切迫していると認識してくれ」


 書類からある程度の惨状は察していたが、副総長自らがそこまで言うとなれば、言葉以上に現場は凄惨なものなのだろう。ユーグに釣られ、ガイウスは滅入った様子でため息を吐いた。


「……大陸屈指の観光地が、なんとも嘆かわしいことですね」

「同感だ。歴史は何度こんなことを繰り返すのか」


 暴動――その言葉自体は、歴史の中で嫌というほど目にする。実際にそれが起こった時、ユーグのように嘆かずにはいられないのは、ガイウスもまったくもって同意だった。







 ラグナ・ロイウの暴動鎮圧に取り掛かったガイウスの手腕は、同行した騎士すらも舌を巻くほどであった。現地に到着してからわずか三時間、そのうちに、武装した暴徒を必要最低限の犠牲に留めつつ、瞬く間に戦場を治め、要人のほとんどを保護したのだ。


 彼の活躍には現地住民からも惜しみない喝采が送られ、本来持つ観光地としての活気が目に見えて取り戻されていた。


 都市の九割以上を鎮圧し、残りは総督住居である宮殿付近のみとなった。残存する武装勢力が最後の砦としてそこで抵抗しており、未だに予断を許さない状況である。


「ガイウス卿、都市の東西南北の鎮圧と、一人を除いて要人の保護が完了しました。残るはこの宮殿周辺のみです」


 宮殿を目と鼻の先にした場所で、騎士の一人がガイウスに嬉々として報告した。

 ガイウスは険しい表情のまま、宮殿の様子を騎士の探知能力で静かに確認する。


「……ありがとう。であれば、拘束されている最後の要人は宮殿にいる総督の娘だけになったか」


 宮殿周辺にいる暴徒をどうにかできれば、暴動を治めることができる。最後の要人は必須な保護対象ではないが、ここまで来て見過ごすこともできない。最悪、暴徒によって盾にされる可能性もある。


「人質に使われる可能性もあります。当該要人の保護を最優先に動くことが肝要かと」


 ガイウスの考えを悟ったのか、騎士がそう申し出た。ガイウスは頷き、一人、宮殿の正面を避ける方角に足を向ける。


「そうだな。私が先行して宮殿に入る。君たちには周囲に展開された反政権派の鎮圧を任せたい」

「了解です。この暴動が終わった暁には、貴方はまた英雄として名を馳せることになるでしょう。どうかご武運を、ガイウス卿」


 そんな賛辞と激励を背に受け、ガイウスは一気に駆け出した。

 騎士の身体能力をフル活用した高速移動――“帰天”を使わずとも、その速度は常人では目で追うことすら叶わない。ガイウスは宮殿の裏口方面に回りながら、内部の様子を注意深く探った。


 どうやら、総督の娘は宮殿内の自室にいるようだ。そこの気配だけ、暴徒たちのような慌ただしい様子がまったくない。


 そうとわかればと、ガイウスは頭の中に叩き込んだ宮殿地図を頼りに、跳躍を繰り返した。いくつもの壁を越え、総督の娘がいる場所へと疾走する。


 壁伝いに渡った先――部屋のベランダに降り立つと、ガイウスは徐にガラス窓を開けた。幸い鍵はかかっておらず、すんなりと中に侵入することができた。


 音を立てずに薄暗い部屋の中に足を入れると、だだっ広い豪奢な空間の片隅に置かれた天蓋付きのベッドの上で、一つの人影がもぞもぞと動き出す。


 ガイウスは慎重に前に進み、その正体を確認した。


「君が総督の娘――イザベラ・アルボーニか?」


 それに人影が回答する前に、窓から差し込んだ月明かりが部屋の中を徐々に照らした。見ると、周囲には空になった酒瓶や食い散らかした料理が散乱しており、まるで何かの宴が開催されたあとのような有様だった。


 そして、少しずつ伸びる月光が明かした人影の鮮明な形は――妊婦だった。

 一糸まとわぬ姿でベッドの上に横たわり、人形のように覇気がない。髪はまったく手入れされておらず、表皮には青痣や歯形など、激しい暴行を受けた痕が痛々しく残されている。


 ここで何が起こっていたのか、察したガイウスが怒りに目を剥いた時――


「……お腹の子の父親は、貴方でしょうか?」


 ベッドから上体を起こした妊婦が、虚ろな瞳でそう問いかけてきた。


 間違いなく、この娘がイザベラ・アルボーニなのだろう。彼女の放たれた言葉が、まるで心臓を貫くような痛みをもたらした。


「――もう大丈夫だ。貴女も、お腹の子も、これで救われる」


 ガイウスは、イザベラを刺激しないようにそっと近づき、自身のケープマントを静かに羽織らせた。彼女の身体は酷くやせ細っており、お腹に宿す子供の重みもあって、まともに動くことすらままならない状態だった。


「ああ……よかった……」


 イザベラはそう言って、ガイウスに力なくもたれかかった。その両目からうっすらと涙を流し、自身の膨らんだお腹を愛おしそうに撫でる。


 行き過ぎた正義の結末がこれか――ガイウスは、筆舌に尽くし難い感情を胸に、イザベラの身体を抱きかかえて部屋を後にした。







 ガイウスが鎮圧したラグナ・ロイウの暴動は、後世に“ラグナ・ロイウの四月暴動”として知れ渡ることになる。当時においては、現場が大陸有数の大都市観光地であったこともあり、現代史において稀に見る大規模な内乱という認識であった。それゆえ、それまで教会内部でのみ英雄と称されていたガイウスの名声は瞬く間に大陸中に響き渡り、彼の名は長く語り継がれることになった。大陸で暗躍する騎士の働きが普段公にならないことを鑑みれば、その影響力と功績は、異例ともいえる出来事だ。


 きっかけとなったメディアの報道――暴動鎮圧の翌朝に発行された朝刊には、その歴史的大事件が大々的に掲載された。

 “英雄ガイウス”――その見出しが、大衆の目に焼き付くことになったのだ。


 リディアもまた、その記事に目を奪われた。孤児院の私室にて、“客”を待つ間に目を通した新聞を手に――かつての子であり、よき友であり、そして、義理の兄でもあるガイウスの活躍を静かに讃えた。


「ラグナ・ロイウの暴動に騎士団が介入。一夜にして暴徒を鎮圧――死傷者がいるせいで素直に喜べない結果だけれど、治まってくれて本当によかった。さすが、ガイウスね……」


 リディアは、朝刊と同時に受け取った姉からの封筒もそっちのけで、ただただガイウスの働きに感嘆するばかりだった。

 掲載された記事を詳細に読み込み、この喜びを返信の手紙でマリアと分かち合おうと意気込む――矢先だった。


 不意に、部屋の扉がノックされる。出鼻を挫かれたようにリディアはハッとし、慌てて新聞と封筒をテーブルの脇に置いて立ち上がった。

 扉を開けた先にいたのは、アナスタシアだった。


「失礼します、シスター・リディア。予定より早く着いてしまいましたが、今、大丈夫でしょうか?」


 今日も今日とて、アナスタシアが教えを乞いに来たのだ。

 彼女の影響力は日を追うごとに増していき、もはや聖王教の正道派とは別の宗派になるのではと思わせるほどの勢いだった。

 しかし、それでもなおリディアに近づくということは、まだ彼女が成し遂げたいことが実現できていないのだろう。事実として、最近は教皇庁がついにアナスタシアを危険視したきらいもある。おそらく彼女は、影響力が高止まりし、それを打開するために自分に接近しているのだと、リディアは考えていた。


 ここ数年はお互いに腹の探り合いのような会話が続いており、リディアも辟易している状態だった。だが、表向きは先輩シスターからの説教という形であるため、無下にするわけにもいかない。


 リディアは、これも仕事の一つと割り切り、笑みを顔に繕った。


「ああ、シスター・アナスタシア。ごめんなさい、ちょっと散らかっているけど、問題ないわ。どうぞ、入って」


 リディアの許可を得て、アナスタシアは一礼の後に入室した。それからテーブルの椅子に座り――脇に追いやられた新聞に気付く。


「今日の朝刊ですか? ラグナ・ロイウでもガイウス卿はご活躍だったそうですわね」


 もてなしのお茶の用意をしていたリディアの背に、アナスタシアがそう言った。

 リディアは手を止めずに小さく笑う。


「そうですね。教会に従事する者として、そして養母としても、誇らしい限りです」

「シスター・リディアが羨ましいですわ」


 アナスタシアの言葉に、リディアは軽く振り返った。


「羨ましい?」

「ガイウス卿のような騎士の鑑とも呼べる御方と懇意にされていることが」


 二つのティーカップを乗せたトレイを手に、リディアはアナスタシアの対面に座る。カップをそれぞれの手前に置きながら、肩を竦めた。


「古い付き合いですから」

「シスター・リディアはエルフでありながら、人間に対してとても好意的に接されますね。種族の壁を超越した慈愛の精神、大変すばらしいと思います」

「私は変わり者なので。それに、エルフだって皆が皆人間や教会に敵意を持っているわけではありません。人間もエルフも、互いの価値観や思想に隔たりがあるだけで、ヒトとして他者を慈しむ想いに大きな違いはないはずですから」


 シスターらしい見解をリディアが言うと、アナスタシアは口元に冷ややかな笑みを浮かべた。


「ですが、相互に理解を深めるには、両者の時間感覚があまりにも違う――亜人であっても、ライカンスロープは人間の社会に違和感なく溶け込み、共生ができていますから」


 妙に棘のある言葉に、リディアは眉を顰めた。怒りは覚えなかったが、何故、敢えてそんな言い方をしたのかと、疑問に思った。


「人間とエルフの共生は無理だと仰りたいのですか?」

「無理とまでは申しません。ですが、エルフが持つ優位性は我々人間にとって時に大きな脅威となりえます。生まれながらに脅威である存在に、好んで近づく者はそういないでしょう」

「……優位性?」

「誰もが見惚れる美貌を持ち、寿命は人間の三倍近く、それでいていつまでも若々しくいられる――ただ生きているだけでその価値が認められる存在というのは、私のような人間からしてみればとても羨ましくもあり、脅威とさえ思えます――妬ましいほどに」


 確かに、アナスタシアの言うことは長命種の宿命であった。いつまでも老いることなく、それでいて長い時を生きる――人間からしてみれば、妬ましい存在であることに違いはない。

 リディアはカップのお茶を一口飲んだ。


「そういいことばかりではないです。育てた子供が自分より早く老い、天に還る様を見送るのは、いつまで経っても慣れません」

「ですが、育てた子供が有力者になった時、その恩恵に肖ることができるのも事実では?」


 その言葉には、さすがのリディアも腹を立てた。喉を通るお茶の熱さが無ければ、反射的に声を荒げていたかもしれない。


「今の言葉はいささか傷つきました。それ以上は控えてください」

「失礼いたしました。ですが、産まれた瞬間に種族という括りが個人の能力に格差を生むことは事実です。太古から今の時代にかけ、人間とエルフは互いに距離を取り続けていることが何よりの証左でしょう」


 アナスタシアは悪びれた様子もなく、そう言い返してきた。

 リディアは自身を落ち着かせるように深い息を吐く。


「……貴女の言うことにも一理あります。しかし、私のような存在がいることもまた事実です。生まれもった生物としての能力に優劣が出ることは仕方のないこと。ですが、それに甘んじて相互理解を諦めるのはとても危険なことです。行き着く果ては、一方の存在による蹂躙と支配であることは、歴史が証明しています」

「そうなった際は、人間が亜人に支配されるのでしょうね」

「いいえ。ヒトがヒトを支配するのです。生まれもっての血ではありません。その土地や文化、社会で培われた生き方が極端な偏りを見せ、他者を慈しむことができなくなった時に、軋轢ができるのです」

「その思想や生き方を決めるものこそが、血ではないのでしょうか?」


 妙に食って掛かるアナスタシアに、リディアは微かに顔を顰める。


「貴女は先ほどこう言いました。ライカンスロープは人間の社会に違和感なく溶け込んでいると。そして、エルフの私もそこにいます。手を取り合うことに、種族の壁は何ら障害にはなりえません。注目すべきは、国、組織、宗教のような社会に属することで後天的に与えられる思想と立場です」

「シスターの身でありながら、宗教を否定するのですか?」

「必要とあれば。それを犠牲にすることで救われる存在がいるのなら、それも結構。優先するべきは、ヒトの尊厳と生命ですから」


 リディアが答えると、アナスタシアはお茶を飲んだ後に微笑んだ。


「なかなか興味深いお考えですわ。では、ガリア公国と亜人の件はどうお考えでしょうか?」

「ガリア公国と亜人の件?」

「ご存じの通り、ガリアは亜人に対して人権を認めておらず、奴隷制を今なお合法としております。しかし、その現状に心を痛めたほかならぬ貴女が、長い年月をかけて大陸中に亜人の人権を認めるよう働きかけ、かの国に圧力を強めました」

「それが何か?」

「しかしながら、ガリアは依然として亜人の扱いを改めておりません。それに耐えかねた奴隷の亜人達は、年々、他国への亡命を積極的に行うようになりました。そういった亜人達は移民として他国へ生活圏を移すことになるのですが――彼らがそこでも迫害を受けている事実はご存じでしょうか?」


 いったい何を言いたいのだろうか――リディアはそんな懸念を密かに抱きながら、答えることにした。


「知っています。ですが、それだけを事実という言葉で済ませるのはあまりにも一辺倒で抽象的です。仰る通り、理不尽に迫害される事例があることも本当の事でしょう。しかし、そうした問題が取り上げられる影に隠れているのは、移民による現地での違法行為です。郷に入っては郷に従え――自らその土地を選び、人権を得て受け入れられたにも係わらず、そこの法に従わず、傍若無人に振る舞うことで糾弾されるのは当然のことでしょう。何より、一部の無法者のせいで、現地の法を順守する善良な移民がその煽りを受けてしまう。その家にはその家のルールがある――土足を禁ずる家に靴を履いたまま上がり込むことを責められるのは、何ら理不尽ではありません」


 すると、アナスタシアは不敵な笑みを浮かべるようになった。それまでの柔和な表情ではなく、何か悪だくみをするような顔だ。


「あら。それはシスターの功績を自ら否定することになるのでは? ガリア公国の奴隷制――かの国のルールを変えようとしているではありませんか。土足を禁じる家に、靴を履いて歩かせろと仰っているようなものでは?」

「土足を禁じることにヒトとしての尊厳と生命、権利が保たれるのであれば、そもそも論じていません。何の落ち度も、罪もないヒトを家畜のように扱う――問答無用で他者を排斥する奴隷制を認めることは、ヒトである限り誰にも許されないでしょう。それに、私一人の感情論で至った行為でもないです。ヒトとしての最低限の倫理観に民意を委ねた結果であり、教会の総意として動いています」

「然るべき手続きと倫理的な正当性を得た行為であると。では、移民が移住先の法を破ることとの違いは?」


 まるで鬼の首を取ったような物言いに、リディアも溜まらず眉根を寄せる。今日はやけに噛みついてくる――早く切り上げたい思いを抑えつつ、改めてアナスタシアを見遣った。


「移り住んだ先で容認されない主張を押し通し、先住者を蹂躙することは、共生ではなく侵略と呼びます。共生を求めるなら、自分の主張の前に、先住者を認めることが先です。かつての場所で生きることを諦め、受け入れられた先で生きることを選んだのは、ほかならぬ自分なのですから。気に食わないのであれば、また別の場所を探せばいいだけのこと。もっとも――」


 リディアがそこで区切ると、アナスタシアの目が細められた。


「自分の我儘をすべて押し通せる都合の良い世界など、この世のどこにもありはしないと思いますが」

「なかなか過激な事を仰いますのね」


 リディアは首を横に振った。


「過激ではありません。当たり前のことです」

「では、そのような弱者は滅びるべきと?」

「何故、弱者になるのですか? それは弱者ではなく、愚か者です。淘汰されて仕方のない存在かと。環境に適応することができない生物が滅ぶのは自然の摂理が証明しています。だからこそ、ヒトは相互に理解し、認め合う努力を怠ることができないのです。それを放棄した存在は、独裁的な支配者か、無法者――いずれにせよ愚か者です。そして、奴隷制というのはその選択肢すら与えられないもの。平等性と公平性を欠いた法が認められないのは必然かと。そもそもとして、家のルールを論じる壇上に上がることすら許されないのですから」


 毅然と言い放ったリディアだったが、アナスタシアは納得していない面持ちで――しかし、頷きながら顎に手を添える。


「なるほど。だから、貴女の功績と、移民の主張は違うと。シスター・リディア、貴女にはこれまで多くの教えを乞いましたが――やはり、わたくしとは根本的なところで考えが合わないようですね」


 これ以上の不毛な押し問答は腹に据えかねると、リディアが殊更に不快感を込めて頷いた。


「私もそう思います」


 その回答を聞いたアナスタシアは、笑顔を携えたままリディアを睨んだ。


「社会に迎合できない弱者は滅ぶべき――わたくしは、この考えは非常に嫌いです」

「ですから、そこまでの事を言った覚えはありません。少々解釈が誇張されているかと」


 リディアは遠回しに訂正を求めたが、アナスタシアはすでにそんなことなどに関心を寄せていなかった。


「シスター・リディアは一方的な主張を控えるべきと仰いましたが、主張することで救われる存在がいるのも事実です。既存の枠組みを破壊し、新たな常識を作ることこそが、人類をより知性的かつ理性的な存在にするものと、わたくしは考えます」

「シスター・アナスタシア。ひとつ忠告をしておきます。具体性を伴わない理想論は、個人の感情による独自の偏見と解釈を生み、不和と混乱をもたらします」

「そう、仰る通りです。そこで必要になるのが、理想を叶えることのできる力と、象徴となるべき存在――まさに、ラグナ・ロイウの暴動を沈めたガイウス卿のような御方です」


 いきなりガイウスの名前が出たことに、リディアは呆けた顔になる。


「……何を言っているの?」

「ガイウス卿は人類のお手本となるような存在です。容姿端麗、頭脳明晰、質実剛健、いかなる暴力にも屈しない確かな信念と力――人間の身でありながら、ヒトが目指すべきすべての要素を若くして持ち合わせています。しかも、それでいて聖職者であり、本能的な性を不純なものとして扱う立場にいらっしゃる」


 一方的にガイウスの人物像を仕立て上げるアナスタシアに、リディアは得体のしれない焦りを覚えた。


「待ってください。騎士は――彼はそのような存在ではありません」

「いいえ。ガイウス卿はすべての人類が目指すべき高次の存在です。貴女だって、すべてのヒトが彼のような存在になれば、世界はより良いものになると思うでしょう?」


 まるで聞く耳を持たないアナスタシアに、リディアは徐々に語気を強める。


「まったく思いません。そうなってしまっては、人類である必要すらなくなります。ヒトをヒトたらしめるのは個々人です。全員が同じような存在になるなんて――」

「では、貴女は先ほど仰ったことを自ら否定するのですか? 軋轢を生むのが、後天的な思想や立場なのでしょう? そして、移民は先住者に迎合しなければならない。この考えこそ、すべての存在を同一にするということでは?」

「それは極端に大きな視点で見た考えです。ヒトの違いは多種多様に渡ります。互いに認められること、認められないことを見出し、理解し、それでいて共生と棲み分けをすることが人類の――いいえ、生き物としての正しい歩み方です。一度に最適化され、一緒くたに適用できる万能な思想などはないのです。過去、現在、未来、すべてを見通し、現実に向き合った選択が必要なのです」


 リディアの考えを聞いたアナスタシアは、今度こそ、明らかに小馬鹿にした笑いを見せた。


「長命種ならではの考えですね。人間の命は短い。そんな悠長な考えを持っていては、いつまで経っても不和はなくなりません」

「他者を尊重しない一方的な同化は、それこそ争いを生みますよ」


 そんな警告にも、アナスタシアはやれやれと首を横に振る。


「他者を尊重しない一方的な同化? それこそ貴女がガリアに仕掛けた行為では?」

「先ほど言った通りです。ガリアの奴隷制というのは、尊重を論ずることすら――いいえ、秩序を順守することすらできない者たちを生み出してしまう。対話という権利を皆に与えられなければ、共生も棲み分けも叶わない。その果ては混沌とした排斥と争いです」

「詭弁ですね。わたくしの目には、貴女が一番都合の良いことを仰っているように見えます」

「詭弁で結構。私には私の考えがあるのですから。それと、忠告をもう一つ。貴女はガイウスを神格化しているようですが、彼は貴女の理想になりえる存在ではありません。くれぐれも、本人の前でそのような振る舞いをしないようにしてください。最悪、ガイウスを怒らせることになります」


 最後のリディアの発言を耳にしたアナスタシア――ついに彼女にも、怒りの色が表情に表れた。それまで口元に浮かべていた笑みは消え失せ、双眸に確かな敵意を宿している。


「シスター・リディア。少々思い上がりが過ぎませんか? 彼の養母でしかない貴女が、いったい彼の何を――」


 アナスタシアが椅子から立ち上がった時、部屋の扉がノックされた。

 リディアが返事をするまでもなく開けられると、そこには小さな孤児が一人立っていた。


「せんせー」


 純粋無垢な子供な呼びかけに、それまで強張っていたリディアの顔が元に戻る。


「またユリウスとシオンが喧嘩してる」


 子供はそう言って、廊下の先を指差した。

 ユリウスとシオン――歳の近い二人の男児だ。どちらもここの孤児だが、ユリウスは騎士を目指して数年前に小姓になったばかりだ。そのため、今は騎士団の養成施設にいるはずだが――


「ユリウス? あの子、また騎士団の施設から抜け出して来たの?」


 彼は時々、こうして孤児院に顔を出すことがあった。そして、そのたびにシオンと喧嘩しているのである。

 いつもはリディアの頭痛の種になる出来事であるが、今回ばかりは、それに助けられた気がしてならない。自ずと、小さく笑っていた。


「たぶん」

「あの子、もう小姓なのに……」


 呆れの溜め息の中にも、嬉しさが隠し切れない。

 リディアは、ここぞとばかりに椅子から立ち上がった。


「シスター・アナスタシア、少しここで待っていただけますか? 子供たちの喧嘩を仲裁しに行くので」


 そして、そそくさと早足にアナスタシアから離れる。


 しかし、リディアは気付かなかった。

 新聞の下に隠していたマリアからの手紙に、アナスタシアの視線が移っていたことに――

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