第三章 賽は投げられたⅩⅠ
リディアの孤児院と騎士団本部のちょうど中間にある都市――そこの大学施設にて、アナスタシアによる講演会が催されていた。講演会は大学敷地内の大ホールで行われており、老若男女、人種問わず、満席となる盛況ぶりだ。
リディアはそこで賓客として招待され、特等席である四人掛けのバルコニー席でアナスタシアの演説を聞いていた。その隣には、臨時でリディアの護衛に就いたガイウスも座っている。
「彼女、最近この国を中心にして大陸全土で有名になりつつあるの。影響力は大陸諸国の政府関係者や資産家みたいな有力者にも及んでいて、教皇庁も注目している」
ふと、リディアが壇上に目を向けたまま、ガイウスに語り掛けた。
『この混沌とした時代において、世界に必要とされるものとは、いったい何でしょうか?』
スピーカーから流れるアナスタシアの言葉を片耳に、ガイウスは視線を隣のリディアに向けた。
「ただのシスターなのに?」
「それを言ってしまったら、私だってそうでしょ。彼女はまだ若いけど、こんな風に世俗に係る活動に積極的に動いているの」
聖女でもない一介のシスターが、これほどまでに大規模な講演会を開いていることに、ガイウスは護衛をしながらずっと疑問に思っていた。
『それは、間違いなく愛です。争い、貧困、疫病、差別、身分の格差――今の世を惑わすこれらの元凶は、すべて愛によって克服できるものです。しかし、愛というのは形に現れるものではなく、ヒトの心の中にのみ存在するもの』
今回はたまたま別件の行き掛けでリディアを護衛することになっただけだが、これを機に、あのアナスタシアというシスターの正体を知ることができるかもしれない。
「影響力は先生よりも強いのか?」
「実際のところはわからない。けど、少なくとも一般市民は私よりも彼女の言うことに耳を傾けると思う。彼女は、主に社会的な弱者に向けて今みたいなメッセージを各地に飛ばしているから」
リディアは長年シスターとして教会に勤めていたことから、その影響力は多方面に渡っていた。そんな彼女がそこまで言うのだから、ある意味でアナスタシアは政敵になり得る権力者のような存在なのだろう。
『では、どうすれば愛の絆を広げることができるのか――それはとても単純なことです。他者を慈しみ、触れ合い、理解することに他ありません。互いに認め合うことこそが、種族や人種の壁を無くし、世の中に平穏をもたらす最善の手段となりえるのです』
ガイウスはどこか眉唾に眉を顰めた。
「弱者っていうのは、貧困層か? それとも亜人か?」
その問いに、リディアが首を横に振った。
『ですが、ヒトという生き物は欲深い存在でもあります。孤独に苛み、愛を求めることに自制をなくしてしまえば、それは他者の尊厳を踏みにじるものとなります。そのことは、弱肉強食を謳う自然界の野生の営みが証明しています。本能のままに肉体を交わす行為は、我々のような理性と知性を持ち合わせた生物からしてみれば、神への冒涜ともいえる行いでしょう。ゆえに、生殖を目的とした性の交わりは禁忌とも呼べる行為です』
アナスタシアの話の流れが止まった隙に、リディアは口を動かした。
「それもあるけど、メインのターゲットは違うわ」
『特に、そのような蛮行の犠牲になるのは、常に弱者の代表ともいえるべき女性です。子を宿した際、最も理不尽な負担を強いられるのは女性なのです。望まぬ妊娠のみならず、たとえそれが伴侶との間に設けた子であったとしても、女性ばかりが苦労し、虐げられる。子を宿してしまったばかりに、自由に職業を選ぶこともできず、社会に進出することすら憚れる。果たして、そのような世界を許してよいのでしょうか?』
リディアからの回答を得ずとも、アナスタシアの演説がガイウスの問いに答えた。
「女か」
「今の時代、男女差別を起因にした格差は昔ほどではないのだけど、それでも女性が虐げられる場面は多々ある。彼女は、そういった被害を受けた女性層からの支持が厚い」
なるほど、と言って、ガイウスは視線を壇上に戻した。壇上では、アナスタシアが身振り手振りで、どこか表情を恍惚に、観衆へ自身の思いを訴えている。
『答えは否です。何故、女性ばかりがそのような罰を受けなければならないのでしょうか。生殖を伴う愛ではなく、無償の愛こそが、誠に愛と呼べるものでしょう。そして、そのような痛みと苦しみを生まれながらに理解できる女性こそが、世に真の愛を広げることができるのです。強者たちによる一方的な支配を受けているこの世界において、今こそか弱き存在である者たちが団結し、声を上げるべきでしょう。高潔な精神は、そうすることで養われます』
それらしいことは言いつつも、思想的な偏りを隠せない話に、ガイウスは嘆息した。
「あの演説、かなり個人的な思いが強く見えるな。独善的で感情的な判断を煽るような言説だ」
「実際、その強い言葉が世間にウケているの。特に、今言ったような女性に対して。自分たちが苦しめられ、冷遇されているのは、個人の努力不足などではなく、産まれながらの性差のせいだという主張がとても支持されている。男は不純な生き物であり、暴力で社会を支配する存在だと解釈されることもあるわ。でも、彼女の教えの急速な広まりは、正直、不安を覚えるほどに極端」
リディアは無表情ながら、その言葉通りの懸念を声に込めていた。ガイウスは同意して、眉間に皺を寄せる。
「何となくわかる。あの演説の言葉面だけを捉え、横暴な権利と主張を掲げる輩が出てもおかしくない」
「貴方の言う通り、最近は人命や尊厳に係る被害も出ている。彼女の言葉を免罪符に、たとえ合法であっても、娼館、娼婦を不純なものとして、感化された大衆が焼き討ちしたりする事例も出てきている」
「それがどれだけ過激でも、亜人奴隷の解放を例に挙げて盾にしそうだな」
「まったくその通り。でも、亜人奴隷の解放とはまったく別物よ。確かに身を売られて強制的な労働を強いられる悪徳娼館はある。でも実際は、被害を受けているのはそういうお店でもない。自ら望んで娼婦となった女性たちに対しても、その区別なく襲撃している有様なの。酷いときは、その娼婦たちは悪魔に洗脳された人類の裏切り者なんて言われ方をされて、手にかけられることもあった。そのせいで真っ当な商売ができず、逆に違法な人身売買が広がっている傾向も見られている」
「魔女狩りの時代に戻るつもりか」
皮肉まじりに言ったつもりだが、対するリディアの反応はいたって真面目だった。
「冗談抜きに、片足は突っ込んでいると思う。生殖を伴わない同性愛者こそが真なる愛の使徒としてもてはやされ、ひっそりと生きたい当事者たちの意向すらも無視し、大っぴらに宣伝されることすらあった。酷いときは、ただ子供がいるというだけでその夫婦を罵倒したり、危害を加えたり、なんてことも。本末転倒もいいところだわ」
「理性と知性を持っているからこそ高潔な愛を、と謳っていたわりに、自分たちがその理性と知性を失って感情的に暴れ回っているのは、滑稽を通り越して憐れだな。法も秩序もなく、思想を基準に個々人の“気に食わない”を判断に他者を攻撃すれば、いずれ大きな軋轢を生む」
そんなガイウスの見解に、リディアは嘆息した。
「憐れむだけで済めばまだよかった。さっき言ったように、もう実害が――経済的損失だけではなく、死者も出ている。正直、私個人としては彼女の活動が今のままこれ以上大きくなることには賛同しかねるわ。彼女がやっていることは弱者の救済ではなく、感情任せの一方的な価値観の押し付けと排斥に近いもの。それこそ、ただの差別でしかない」
しかし、そんなリディアの憂いに反比例し、会場はここぞとばかりに大きな盛り上がりを見せる。
『皆様、今こそ、その高潔な精神を胸に声を挙げてください。強者による支配の時代は終わりを告げ、結束した弱者こそが真に世の中を良きものにしていく時代になるのです。幸福は、弱き者のためにこそ与えられるものなのですから』
最後の締めくくりの言葉を終え、アナスタシアに向かって観客席から惜しみない拍手が盛大に送られた。
その喧騒の隙間を縫うように、ガイウスたちはさらに話を続ける。
「教会は何も言わないのか? それとも、まだ泳がせている状態とか?」
「教会もその影響力の強さを認識している。だけど、教皇庁は彼女の影響力を利用して大衆のコントロールと経済的な利権掌握に勤しんでいる。騎士団は貴方もご存じの通り、今はそんなことに構っている余裕がない。私は私で、声が大衆に響かない。もう、誰にも止められない状態」
「聖女は?」
「聖女はご高齢で、体力的に難しいと思う。あと何年持つか、とまで言われているくらいには弱っているから」
まるで、ここぞとばかりにあの女に都合の良い状況だと、ガイウスは顔を顰めた。
「なら、その後任は? さすがにそこまで差し迫っている状況なら、後任の候補のシスターがいるだろ」
「それが、彼女――アナスタシアなの」
死刑宣告のように言い放ったリディアに、ガイウスは天井を仰いだ。
「そこまでの力を持っているのか、あのシスターは」
「現行の教会法では聖女になれるのは人間だけだから、私が名乗りを上げて阻止することもできない。彼女が聖女になれば、この状況はさらに苛烈さを増していくと思うわ」
ガイウスは姿勢を正し、リディアを改めて見遣った。
「そんな女が、なんで先生に頻繁に会っているんだ? 教えをどうのこうのと言っていたが」
「そんなものは建前。彼女は、私の影響力に肖りたいだけだと思う。聖女でもないただのシスターである私が、教皇庁や騎士団にいる昔馴染みの面々に顔が利くことに気付いて、近づいてきたんでしょうね」
「先生も難儀だな。長命種のエルフが人間社会に係りたがらない理由がよくわかる。確かに、本当に先生に教えを受けているなら、あんな過激な事をこんな場で言うわけがない」
いよいよ救えない存在だと、ガイウスは辟易して息を吐いた。
「弱者救済を声高に言うわりに、やっていることは大衆扇動と、強者、権力への擦り寄りか。タチの悪い寄生虫のようで、俺は嫌いだな」
そう言ったガイウスの悪態を最後に、観客席の拍手は止み、会場は静けさを取り戻した。
※
講演会を終え、ガイウスとリディアは賓客室に戻った。孤児院から会場までの護衛こそガイウスが担当したが、彼の本来の任務は別にあり、ここで代わりの騎士と交代する予定だ。
特に何をするでもなく、互いに最近の世間話に花を咲かせていた――その時、部屋の扉がノックされる。
ようやく交代の騎士が来たかと、ガイウスはソファから立ち上がった。だが、返事をするまでもなく、先に扉が開かれた。
「あら。ガイウス卿も来てくださっていたのですね」
入ってきたのは、アナスタシアだった。
突然の訪問に、ガイウスは驚きと本能的な嫌悪感を覚えつつ、軽い会釈をして見せた。
「シスター・リディアの護衛です。騎士団本部に帰還するついでに」
「そうでしたの。ですが、わたくしのお話をガイウス卿にも聞いていただけて、大変光栄ですわ。今度是非、ご感想をお聞かせください」
ずけずけとガイウスに近づくアナスタシア――だったが、両者の間に、リディアがすかさず割って入った。
「シスター・アナスタシア、彼は騎士です。騎士は、いかなる思想、政治においても中庸、中立な立場で発言することが求められます。一つの思想に対しての考えを聞くのは、いささか彼の立場に対しての配慮にかけているので、気を付けてください」
ぴしゃりと言いつけたリディアだったが、対するアナスタシアはどこか小馬鹿にしたような微笑を携えた。
「それは失礼いたしました。ですが、わたくしが聞きたいのは、騎士としてではなく、ガイウス卿個人のお考えです。それであれば、何ら問題はないでしょう?」
面倒くさい奴だ――ガイウスは内心そう思いながら、何か言い返してやろうと前に出た。
しかし――
「私は――」
「それは詭弁です。大いなる力を持つ者が公私を分けた発言をするのはとても難しいこと。議席持ちでもある彼が、仮にここで何かを言ってしまったら、受け手によってはそれが騎士団の総意とも捉えられかねない。言葉とは広がりを持つものであり、責任を伴うものです。どうか、ご配慮を」
リディアに目配せで制止され、彼女が先に言い返してくれた。久しぶりに見たリディアのシスターとしての威風堂々たる振る舞いに、ガイウスもたまらず面食らい、息を呑む。
アナスタシアは、すん、と表情を一瞬無にした。その後で、またすぐに笑顔を繕う。
「でしたら――」
「シスター・リディア」
ふと、開けっぱなしだった部屋の扉の方から、リディアに声がかけられた。
部屋に入ってきたのは、二人の騎士だった。一人は、議席Ⅲ番ヴァルター・ハインケル、そしてもう一人は、ガイウスも見たことがない若い男の騎士だった。黒髪で背が高く、冷ややかな印象を受ける若者だ。特に、その黒い瞳には生気らしい輝きはなく、あえて悪い表現をするなら、死んだ魚のような目だった。
「ヴァルター卿」
ガイウスが声をかけると、ヴァルターは少しだけ驚いた反応を見せた。
「お前も来ていたのか、ガイウス」
「ええ。シスター・リディアの護衛です」
そうだったのか、とヴァルターは顎を右手で軽く撫でた。
「シスターが孤児院からここに向かうまでの護衛は別の騎士が宛がわれるとのことだったが、お前だったのか」
どうやら、交代の騎士とはこの二人のようだ。
ガイウスとリディアは互いに顔を見合わせたあと、顔馴染みであったことに安堵する。
「では、帰りの護衛はヴァルター卿たちでしょうか?」
「ええ。私と、弟子のイグナーツが承っております。イグナーツ、シスターたちに挨拶だ」
そう言って、ヴァルターは隣の騎士――イグナーツに目で合図した。
イグナーツは、いたって機械的な所作で、礼を見せてきた。
「イグナーツ・フォン・マンシュタインです。どうか、お見知りおきください」
「シスターのリディアです。道中、どうかよろしくお願いいたします――とは言っても、騎士が護衛するほどの価値なんて私にはありませんよ。一応、エルフなので、こう見えて結構戦えますし」
丁寧な礼を返したリディアが、面を上げてすぐに冗談めいたことを言った。
しかし、ヴァルターは肩を竦めつつ、それを窘めるかのように表情を険しくした。
「そう言わずに。昨今の情勢を鑑みれば、シスターに護衛を付けた騎士団の判断は妥当と思われます」
ヴァルターは一歩リディアに近づき、顔を彼女の耳元に寄せた。一方で、その鋭い視線はアナスタシアに向けられている。
「聖女が亡くなるタイミングで、貴女も一緒に排除しようとする機運が教会内外で高まっています。主にあそこいる女が原因で。どうか、油断なさらずに」
「……留意いたします」
短い内緒話を終えたあと、ヴァルターは今度、ガイウスに向き直った。
「そういえば、ガイウスはイグナーツと会うのは初めてだったか。こいつはお前が失踪していた間に騎士になった。私の弟子だが、今は一人の同僚として一緒に動いている」
ヴァルターの弟子――高名な教会魔術師としても名を馳せる彼に師事するということは、このイグナーツという騎士も、相当な魔術の手練れなのだろう。ガイウスは敬意を込めた眼差しで、イグナーツに向いた。
「ヴァルター卿の弟子ということは、彼も魔術師で?」
「ああ。最近は教会法を無視した魔術の違法利用が多くてな。さっき言ったように、イグナーツはすでに従騎士ではなく一人立ちしているが、取り締まる手が追い付かないせいで今も一緒に動いてもらっている」
「なるほど。ヴァルター卿が目にかけるということは、とても優秀な騎士のようですね」
「優秀は優秀だが、社交性に難ありだ。見ての通り、愛想の一つも振りまけん」
確かに、まるで人形のような佇まいを見せるイグナーツには、ガイウスも近寄りがたい雰囲気を感じた。
そんなことを思っていた時、不意にヴァルターが肩を叩いてくる。
「(このあと暫く、リディアの近くには護衛も兼ねてこいつが付く。彼女に何か知らせたいときは、イグナーツに連絡しろ)」
その言葉は無音だったが、口の動きだけで伝えられた。先ほど盗み聞きした内緒話の続きを、ヴァルターは教えてくれたのだ。密かに護衛を付けることは、おそらくアナスタシア本人には知られたくないのだろう。ガイウスは、ヴァルターが手早くメッセージを伝えた意図を汲み取り、話題を戻すことにした。
ひとまず、イグナーツに握手を求めることにする。
「初めまして、イグナーツ卿。ガイウス・ヴァレンタインだ」
「イグナーツ・フォン・マンシュタインです」
握手こそ握り返してくれたものの、あちらから何か世間話をしてくれる、という感じではなかった。
ガイウスは苦笑いしつつ、大人しくその手を離す。
それを隣で見ていたヴァルターが、苦虫を嚙み潰したような顔で肩を竦めた。
「こいつに人並の挨拶を求めても無駄だぞ。機械の方がまだ可愛げがある」
そんな苦言に、ガイウスはさらに複雑な笑みを顔に宿した。
その一方、リディアが時計を見てそわそわした様子を見せ始める。
「すみません、ヴァルター卿。そろそろ孤児院に向かってもよいでしょうか? 子供たちには今日は日帰りと伝えていて、あまり遅くなると無駄に心配してしまうので……」
見ると、時計はすでに十七時を過ぎていた。ここから孤児院までは、空中戦艦でも使わない限り、最速で四時間はかかる。みんなのお母さんの帰りが遅くなればなるほど、子供たちにかかるストレスも大きなものだろう。
ヴァルターは、失態を恥じるように背筋を伸ばした。
「それは失礼した。では、参りましょうか」
彼の一言を最後に、リディアは二人に連れられて部屋から退室した。
そうして残ったのは、ガイウスとアナスタシアだけになった。
アナスタシアは、何やら不気味な笑みを携えながら、ガイウスの傍らに付く。
「ガイウス卿、もしよければ、これから――」
「申し訳ありませんが、私はこれから別の任務がありますので、これで失礼させていただきます」
しかし、これ以上お前と話すことはないと、ガイウスは露骨な態度を示して断った。リディアたちの後を追うように、ガイウスも早足で部屋を出る。
果たしてその後ろで、アナスタシアがどのような顔をしていたのか――気にはなったが、どうにもあの女は好きになれないと、ガイウスはすぐに存在を忘れて歩みを進めた。




