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辺獄の黒騎士  作者: シベハス
第四部
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第三章 賽は投げられたⅨ

「――生きててよかった、ガイウス」


 来客はリディアだった。十年以上ぶりに見た彼女を前に、ガイウスは自身の時を止めてしまう。


 リディアは何も変わっていなかった。長命種の血を引いているがゆえ、その姿は、ガイウスが幼い時に記憶した若々しい姿と、何一つ変わっていない。


 ガイウスは、自分の生存に心から安堵し、笑顔を向けてくれるリディアに対し、形容しがたい罪悪感を覚えた。


「先生……」


 言い淀み、顔を俯ける。


「すみません、俺――」

「久しぶりー、リディア」


 玄関の空気が重たくなってきたところで、マリアがハツラツとした声を上げた。それにガイウスが少しだけ驚くと、リディアはそれを見て、くすりと笑った。

 それに気づいたガイウスが気恥ずかしさでリディアを見遣ると、彼女は肩を竦めた。それから彼女は家の中に招かれ、姉のマリアと対面する。


「久しぶり、マリア。って――」


 そして、すぐに目を丸くさせた。

 何故なら――


「もうかなりお腹大きくなってるじゃない。出産を手伝ってほしいって、そんな喫緊の話だったの?」


 マリアのお腹にはガイウスとの間に生まれた新しい命が宿っており、すでに臨月を迎えている大きさだったからだ。

 驚くリディアと再会の抱擁を軽く済ませたあと、マリアはガイウスを恨めしそうに睨んだ。


「そうなのさ。そこのムッツリが、なかなかアンタを呼ぶのをオーケーしてくれなくて」

「……悪かったな」


 言われて、ガイウスはバツが悪そうに姉妹から視線を外す。


 リディアが二人の家に訪れたのは、マリアの言う通り、彼女の出産を手伝うためだ。本来であれば、入院、もしくは訪問医の手を借りるところだが――今回に限っては、見ず知らずの第三者を頼ることはできないと、ガイウスとマリアは判断した。

 理由は、産まれてくる子供が混血だからだ。もし、マリアと同じく、混血でもエルフと同じ特徴を持っていると確定していれば、医者などに頼ることもできただろう。しかし、彼女のお腹に宿る子は人間であるガイウスの血を引いているため、もしかするとエルフの特徴を持たない可能性がある。妊婦がエルフの容姿で、産まれた子供が人間の姿かたちをしていたとなれば、それだけで大事件になってしまう。そのため、秘密を守れる身内のリディアに分娩の介助を頼むことにしたのだ。

 なお、分娩の知識がガイウスにまったくなかったことも理由の一つである。


「もしかしたら、半年も休みはいらなかったかもね」


 呆れ半分、喜び半分の顔で、リディアは小さく笑った。


「教会には何て言って休み取ったの?」

「ん? 孤児院開いてから今まで何年も休んだことないから、そろそろ長い休みをくださいって。そしたら、あっさり了承してくれた」

「それはそうだろうね。みんなのママにも休みは必要でしょ。そういえば、リディアはガイウスのちっちゃい時のことも知ってるんでしょ? どんな子だった?」


 夫の幼少期を嬉々として質問するマリアに、リディアは答え辛そうに苦笑した。ガイウスを横目で見て、言っていいかを目で確認する。


 しかし、ガイウスはそれよりも気になっていることがあった。


「……先生、いいのか? 俺のことを教会に伝えなくて?」


 脱走状態の騎士であるガイウスの所在を、シスターであるリディアが教会にその所在を伝えないことには大きな危険があった。二人が密かに接触した事実がもし教会に知られた際は、脱走の幇助をしたとして、リディアも一緒に裁かれる可能性がある。そうなれば、身体検査等で彼女が混血であることも明らかにされてしまい、間違いなく殺されることになる。


 そんなリスクを負ってまで妻の出産に駆けつけてくれたことに、ガイウスは感謝をしつつ、申し訳なさと、一抹の不安を覚えた。


 じっと見つめるガイウスに、リディアは微笑を返した。


「それを信じて私をここに呼んだんでしょう? 今さら訊かれても」


 その表情と声色に、ガイウスは喉につかえていたものをすっと落とした。

 だが、リディアは目つきを鋭くした。


「でも、覚悟はしておいてね。逃げ出した騎士と混血がこの大陸で生き延びることは、かなり難しいこと。貴方たちが家族として生きていくというのなら、大陸の外に行くことも、本気で考えた方がいいかもしれない」

「大陸の外とまで言わずとも、極東のセリカはどうだ? あそこは教会の手が届いていない」

「あの国もこことあまり変わらないと思った方がいいわ。聞いた話でしかないけど、そもそも亜人の扱いが良くないみたいだから。ガリアと変わらないと思う」

「しかし、大陸の外なんて当てになるのか? 昔の航海記録があるだけで、本当に外の世界にヒトが住める場所があるかなんて……」

「それでも、安住の地を望むならそうするしかない。少なくとも、今この世界――大陸に、私たち混血の居場所はないから」


 おそらく、リディアが言葉にした以上に、この大陸でマリアと子供を守ることは難しいのだろう。教会の管理が行き届いている場所である限り、脱走した騎士であり、混血である自分たちが生きるには、それを隠し通すしかない。いつまでもそんな生活が続けられるとも現実的に考え辛く、ならばいっそ、大陸を出てしまうというのがある意味で一番の希望だった。

 しかし、このユリアラン大陸の外で、ヒトが生活できるかどうかは、未だ確証が得られていない。歴史的には多くの航海記録こそ残っているものの、実際に大陸の外に移住できたという事実は数例しかなく、どれも眉唾なものでしかなかった。

 悩ましい話だが、いずれ決断を迫られる時が来るのだろう。


 ガイウスは、リディアをテーブルに促したあと、自身も対面に座った。


「そういえば、俺が係わった帝国の件はどうなったか、先生は何か聞いたか? 俺が残した資料、騎士団に届けてくれたんだろ?」


 話を変えると、リディアはさらに難しい顔になった。


「資料はちゃんと騎士団に――ユーグ卿に届けたわ。でも、その後の詳しいことは私も知らされていないの。わかっていることは、貴方の消息不明が相変わらず重大案件として動いているってことくらい。それと、アーサー卿と犠牲になった現地民は騎士団が丁重に弔ったわ、そこは安心して。ただ――」

「ただ?」


 言い辛そうに眉根を寄せたリディアの反応に、ガイウスは焦燥感に似た不安を覚える。


「貴方が暴いた教皇庁とガリアの癒着については、騎士団も明確な対応を決められていないみたい。直接の関与が明確だった枢機卿は何人か裁かれたけど、教皇も含めてまだ何人かはそのまま。ガリアの要人も」

「俺が渡した証拠があってもか?」

「その証拠があまりにも強すぎたの。大陸同盟の締結を利用した権力の拡大――これを世に公表すれば、間違いなく教会の信用は失墜する。そうなった時、大陸が荒れることは明白だから……」

「騎士団は慎重になっているのか……」


 ガイウスの見解に、リディアは頷いた。


「それもあるし、機を見計らっている、といった様子だった。騎士団も、長年人々をだまし続けたあの茶番劇を赦すつもりは毛頭ないみたい」

「……それだけでも聞けてよかった。ありがとう、先生」


 ひとまずは、自分がやったこと、師と子供たちの命は、無駄にならずに済みそうだ――ガイウスは、そう己を納得させ、深い息を吐いた。


 そんな時だった。


「ねえ、二人とも……難しい話しているところ悪いんだけど、ちょっと助けて……」


 ベッドで横になっていたマリアが、呻くように手を伸ばしてきた。


「なんか、漏れた……」


 その言葉通り――彼女の下半身部分のシーツは、バケツの水を零したように濡れていた。

 間違いない、破水だ。


「マリア!」「大変!」


 ガイウスとリディアは、大慌てで立ち上がった。







 産声が上がったのは、破水から半日以上経ってからだった。


「女の子よ」


 ガイウスとマリアの子を最初に抱いたのは、取り上げたリディアだった。彼女はすぐに赤子をマリアの枕元に置き――産まれたばかりの赤子に、両親の姿を見せてあげた。


「頑張ったな、二人とも……」


 マリアの顔の汗を拭きながら、ガイウスは妻と子を労わった。マリアが赤子に手を伸ばすと、小さな手がしっかりと彼女の指を掴んだ。マリアは目に涙を滲ませながら、笑顔でガイウスに頷く。


「名前はなんていうの?」


 その様子を遠目で見ていたリディアが、分娩の後始末をしながらそう訊いてきた。

 途端、ガイウスがハッとして固まる。


「あ、えっと……」


 それを見たマリアの顔から、先ほどまでの慈愛に満ちていた母親の顔が消えた。転じて、徐々に形相を鬼のように変えていく。


「ガイウス、まさか、結局考えられなかったとか言わないでよ?」


 マリアに睨まれたガイウスが、初産を終えたばかりの彼女以上に汗を滴らせる。


「……ごめん」


 その一言を絞り出し、名前を決められていなかったことを正直に白状した。

 マリアから、失望の溜め息が零れる。


「い、いや、違うんだ。俺だってずっと考えていた。でも、どうしても決められなくて……」

「アタシが産むんだから、名前はアンタが付けてってあれほど言ったのに」

「ごめん……」


 弁解の余地なく、ガイウスはひたすらに謝罪してしゅんとなった。


「候補とかはないの?」


 苦笑いで見ていたリディアが訊くと、ガイウスは懐から一枚の紙を取り出した。


「こ、候補ならここに」


 そこには、候補となる名前が記されていたのだが――


「ありすぎよ。これじゃあ誰だって決められないわ」


 候補というにはあまりにも数が多く、ゆうに百は超えていた。


「だ、だって、適当に付けるわけにはいかないだろ?」


 義理の妹でもあり、育ての親でもあるリディアにすら驚いた顔で責められ、ガイウスはたじたじの様子で立ち上がった。それから思いつく限りの言い訳を必死に残し――双子の姉妹は、早く名前を決めることを条件に、呆れた顔でこの場の怒りを鎮めてくれた。


 ひとしきり夫への不満をぶちまけたあと、マリアは改めて我が子を見遣った。愛おしく顔を撫で――その小さな耳を見て、複雑な心境の息を吐く。


「……やっぱり、クォーターまでになると、エルフの特徴的な耳じゃなくなるんだね。リディアに頼んで正解だった。ありがとう」


 ガイウスとマリアの見立て通り、エルフの血が四分の一にまで薄まると、身体的特徴にその影響を受けづらくなる結果だった。もし、無策にそこら辺の医者に分娩を依頼していたらと思うとぞっとする一方、リディアのありがたみが改めて身に沁みた。


「ありがとう、先生」


 マリアに続いて、ガイウスも深く頭を下げる。

 リディアは、姉夫婦とその子供を前に、これ以上ない笑顔を見せた。


「力になって何より。貴方たち三人が幸せに過ごせることを、心から祈っているわ」


 ガイウスの人生において――この瞬間こそが幸せのピークであったことは、言うまでもなかった。







 マリアの出産を終えてから一週間が経った。

 母子ともに健康状態に問題はなく、マリアもすでに自立して動けるまでに体力を回復させた。


 今日も今日とて、朝の畑仕事を終えたガイウスが家に入ってきたのだが――途端、赤子を抱いたマリアに、厳しい視線を向けられた。


「あのさ、まだこの子の名前決められないの?」


 ガイウスは野菜の籠を置いたあと、懐から名前を書き記した紙を取り出した。無数にあった名前のほとんどは取り消し線で消されており、今では三つだけ残されている。


「三つまで候補は絞れたんだが……」


 そう言って、悩ましげに顔を歪ませた。

 未だに自分の子供の名前を決められていない現状に、マリアは肩を落とした。赤子をあやしつつ、恨めしそうな目でガイウスを睨む。


「ほんと駄目なパパですねー」


 露骨に言われ、ガイウスは渋い顔で唸った。


 幸せな家族がそんな他愛のないやり取りをしていた時――家の奥から、リディアが何かを手にやってきた。


「ねえ、ちょっといい?」


 彼女が手に持っていたのは、小型のカメラだった。それも、現像作業が不要なインスタント式である。


「無事に出産できたことだし、記念に写真撮らない? マリアも動けるようになって、余裕出てきたでしょ」


 そんな妹の提案に、姉は子供のように顔を綻ばせた。


「いいねいいね、撮ろうよ! ね、ガイウス」

「あ、じゃあ、俺は着替えを――」


 ガイウスの姿は畑仕事を終えたばかりで、作業着も泥まみれだった。せっかくの記念なのだ、小奇麗な格好をしなければと、身なりを整えようとしたが――


「そんなかしこまった物じゃないから。まずは試しに撮らせて。買ったばかりで、まだ使ったことがないの」


 そう気合を入れずともよいと、リディアに抑えられた。

 ガイウスは少しだけ恥ずかしくなり、頭の後ろを掻く。


「そ、そうか」


 早速、四人は撮影の準備に取り掛かった。テーブルなどの家具を壁際に除け、部屋の中央に広いスペースを作る。そこに脚を付けたカメラと、椅子をそれぞれ対面に置く。椅子には赤子を抱いたマリアを座らせ、その隣にガイウスが立った。


 準備が整ったところで、リディアがカメラを覗く。


「それじゃ、撮るね」


 そう言ってリディアがスイッチに指をかけた時、


「ちょっと待って。リディアも一緒に映ろうよ」


 マリアがそう提案した。

 それに対し、リディアは首を軽く横に振る。


「家族三人、水入らずの方がいいでしょ?」

「最初はお試しで撮るんでしょ? だったらついでだし、写っちゃおうよ。いいよね、ガイウス?」


 マリアに訊かれ、ガイウスはすぐに頷いた。


「もちろん」


 二人にそこまで言われたらと、リディアは観念したように微笑んだ。

 そして、タイマーが回され――眩いフラッシュの後で、カメラから一枚の写真が出力された。

 それをリディアが手に取ると、マリアがうきうきした様子で覗き込む。


「どうかな?」

「あら」


 徐々に写真が鮮明になっていくが、被写体の輪郭が濃くなるにつれ、最初の期待とは裏腹に、二人の顔は芳しくなくなった。


「ガイウスの顔が少し潰れちゃってるね。身長高いから上の方の光が上手く取り込めなかったのかも」


 写真の上部がちょうどレンズに収まらなかったのか、ガイウスの顔が異様にボケてしまっていた。だが、この程度であれば角度を少し上に傾けるだけで問題なく写りそうだ。


「ごめんなさい、結構いい値段したから高品質なカメラだと思ったんだけど」

「早く次撮ろうよ。どうせ今のはお試しだったんだし、ちょっと角度変えてあげれば――」


 そうとわかればすぐに二枚目を――と、意気込んだ時だった。

 不意に、家の扉がノックされる。


「誰だろ。郵便はちょっと前に来たばかりなのに」


 この家に客が来ることなど、そう滅多にあることではない。せいぜい郵便の配達員が不定期に来る程度だが、その配達もつい数時間前に来たばかりだ。


 となれば、何者だろうか――ガイウスは本能的に嫌な予感を覚え、マリアとリディアにその場に留まるよう促した。それから窓を覗き込み、訪問者の姿を確認する。


「……警察?」


 家の扉の前にいたのは、黒い制服姿の二人の警察官だった。アウソニア連邦の属州ごとに設置された州警察の人間だ。

 見た目通りに警察だったとして、いったい何の用で――その疑問に予想を立てるまでもなく、マリアが隣に立った。


「アタシが出る。ここに住んでるの、アタシだけってことになっているから」


 ガイウスの険しい顔つきと同じく、マリアもどことなく緊張の面持ちでいた。彼女は赤子をガイウスに渡した。


「赤ちゃんお願い」


 ガイウスは赤子を受け取ると、リディアと共に家の奥に隠れた。

 それを確認したマリアが、玄関を開ける。


「はいはい、なんでしょう?」


 いつもの飄々とした様子でマリアが姿を現すと、二人の警察官は威圧的に彼女を見た。


「なに?」

「ここにはお前だけが住んでいるのか?」


 態度の悪さにマリアが不機嫌気味に言ってみたが、警察官たちはさらに圧を高めてきた。


「そうだけど」

「いつからだ?」

「いつからって……もう何十年も前から。ちゃんと税金も近くの街に納めてるけど、何か文句ある?」

「エルフが一人で過ごしている理由は? エルフは同族間での社会性が非常に強い種族だと聞いている。そんな種族が、何故こんな人気のない場所で一人で?」

「言わなきゃ――駄目そうだね」


 表情一つ変えない警察官に根負けし、マリアは溜め息を吐いた。


「別に深い理由なんてないよ。里でみんなと仲良くできなかったから飛び出しただけ。人間の街に住もうか考えたこともあるけど、寿命の関係で色々面倒ごとに巻き込まれるのが嫌でこんなところに一人暮らしてんの。長く生きてると、街の政治とかに巻き込まれる可能性あるでしょ?」


 それらしい理由を言うと、警察官たちは互いに顔を見合わせ、すぐにまたマリアを見遣った。


「念のために訊くが、まさか混血ということはないだろうな?」

「はあ?」


 この話の流れで、何故そんなことを――これにはマリアだけではなく、隠れていたガイウスとリディアも怪訝に眉を顰めた。


「街で気になることを耳にした。ここに住むエルフが人間の薬を買うようになったと。エルフはほとんど病に罹ることがないはずなのに、どうして人間の薬を?」


 途端に不穏な空気が漂い始める。警察官たちは、一切の嘘も許さない、といった表情でマリアを睨みつけていた。


 そして――


「バレたか」

「まさか、本当に混血――」

「転売」


 マリアが、露骨に肩を落とした様子を見せて、そう言った。


「アタシ、自分で育てた野菜売ってるんだけど、一緒に薬も売れないかなって考えたの。エルフが作った薬って言えば、何か効き目高そうでしょ? だから、それで一儲けできないか、悪巧みしたの」


 黙って聞く警察官に、マリアは詰め寄るように近づいた。


「ていうか、人間の薬って混血でも効くものなの? 百年近く生きてきたけど、そんなこと初めて聞いたけど」


 しかし、警察官は顔色一つ変えない。


「で、逮捕する?」


 マリアは思い切ったように、両腕を体の前に出した。

 警察官たちはそれを暫く眺め――


「……いや、失礼する。今後は、紛らわしいことをしないように」


 静かにそう言い残し、踵を返した。


 マリアは、立ち去っていく警察官たちの動向を暫く見守ったあとで家の扉を閉めた。その後で、全身の力が抜けたように床にへたり込む。


「び、びっくりしたぁ。我ながら、いい感じの出任せを思い付けてよかった」


 自画自賛するマリア――そこに、ガイウスとリディアが駆け寄る。しかしその表情は、安堵するマリアとは対照的に、鬼気迫るものだった。


「どうしたの、二人とも? 難しい顔しちゃって」

「近いうちにここを離れた方がよさそうだ」


 赤子を片腕に、ガイウスがマリアを立ち上がらせる。


「え、なんで?」


 きょとんとするマリアに、リディアが険しい顔を返した。


「多分あの警察たち、教会にも報告すると思う。そうなれば、間違いなく騎士がここに真偽の確認に来るわ。混血に対する教会の徹底ぶりは、マリアもよく知ってるでしょう? ほんの少しでも疑いがあれば、必ず直接その目で見に来る」

「すまない、俺のせいだ……。俺を治療するための薬のせいで、余計な疑いを持たれることになってしまった」


 謝るガイウスを見て、マリアは肩を竦める。


「別にガイウスのせいじゃないでしょ。無知な人間が憶測で適当なことしてんのが悪いんだって。エルフが人間の薬買ったから混血を疑うなんて短絡的すぎでしょ。それより、今後のこと考えなきゃね」


 リディアが頷いた。


「ここはいつでも離れられるようにした方がいいわ。早ければ、明日にでも騎士が来るはずだから」

「でも、どこに行けばいい? 亜人の扱いが良いログレスかグリンシュタット? それとも、真聖派のトレイニアとか?」


 マリアの挙げた候補に、ガイウスは首を横に振った。


「いや、産まれたばかりのこの子を連れて長距離の移動はリスクが高い。それに、その大国二つとトレイニアは入国の時に身分証明が必要になる。偽装するにしても、すぐには用意できない」


 となれば、とりあえずは暫定的にアウソニア連邦国内のどこか身を隠せる場所に避難するのが得策か――ガイウスはそう考えながら、警察官が去っていった方角を窓から眺めた。


 ふと、虫の知らせのような悪寒が体に走る。

 ガイウスは目を閉じ、周囲の気配を広範囲に探った。騎士が持つ電磁気力の操作能力の応用で、生物探知の知覚を最大限に高める。


「ガイウス?」


 心配そうにマリアが顔を覗き込んだ時――ガイウスは目を見開いた。


「まずい、もう騎士に勘付かれている! 近くに待機していた!」


 ガイウスの嫌な予感は当たっていた。彼の探知能力が拾ったのは、間違いなく騎士の気配――それも、歩いてここに来られる距離にまで接近している。


 マリアが顔面蒼白にしてガイウスの腕を掴む。


「ど、どうしよう!」

「騎士がここに着くまで少しだけ余裕がありそうだ。だがそれも、一時間かからないだろうな」


 慌てふためく二人を余所に、最初に行動に移したのはリディアだった。彼女はすでに荷物のまとめに取り掛かっており、家中から物資をかき集めていた。


「騎士は間違いなくマリアを探して教会に連れていくはず。今すぐに逃げないと」


 慌ただしく動くリディアの前に、ガイウスが立つ。


「先生、少しの間、マリアとこの子を任せていいか?」


 かつてない真剣な表情のガイウスに、リディアは睨みを利かせた。まるで、かつての関係を思わせるような光景だった。


「何を考えているの?」

「騎士は俺がどうにかする」

「まさか戦うの?」


 その問いには答えず、ガイウスは今度、マリアに向き直った。


「――マリア」


 そして、腕に抱いていた赤子を、彼女に渡す。


「必ず君とこの子を迎えに行く。だからそれまで、どうにか生き延びてほしい」


 突然、遠回しに別れの言葉を残した夫に、マリアは今にも泣きだしそうな顔になった。


「どうするの?」

「君たちが――混血でも自由に生きられる世界に、俺がする。幸い、俺はまだ騎士団に籍を置けている状態だ。ここに来る騎士を誤魔化したあと、騎士団に戻ることにする。そして、その立場を使って、教会を――世界の認識を変える」


 ガイウスはマリアと赤子を抱き締めた。


「混血だろうが、騎士だろうが――誰もが、愛する者と一緒に生きていけるような世界に」


 そうやって夫婦は赤子を間に、暫く抱き合った。


「――ほんとにできるのー?」

「こんな時まで揶揄わないでくれ。ちゃんと見込みもある」

「うそうそ。ガイウスなら、できるよ」


 ゆっくりと、二人の体が離される。


「だから、待ってる」


 マリアが弱々しい微笑を浮かべると、ガイウスも同じような顔で応じた。


「二人とも、そうするなら早く動かないと。マリアは急いで出る準備をして」

「うん」


 リディアの催促を受け、マリアもすぐに避難の準備に取り掛かった。

 それを尻目に、ガイウスは一人、家の扉に向かう。


「俺は騎士に接触しに行く。時間を稼ぐつもりだが、できるだけ早くここを出て行ってほしい。……これで、暫くお別れだ」

「あ、ガイウス」


 今まさに扉を開けようとした時、マリアが呼び止めてきた。


「この子の名前、今決められない?」


 こんな非常事態に何を悠長な――そう言いかけたガイウスだったが、マリアの顔を見て、飲み込んだ。


「お願い」


 それから少しの間、ガイウスは沈黙した。

 そして――


「――エレオノーラ」


 赤子の頬を撫でながら、ぽつりと呟いた。


「古代の言葉で光を意味する名前だ。この子は、俺たち二人の光だから」

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