第三章 賽は投げられたⅦ
暗闇の中で先に感じたのは、全身の強烈な痛みだった。ガイウスは顔を顰めながら、目ヤニのこびりついた目を徐に開けた。視界は水の中にいるかのように濁っていたが、時が経つにつれ鮮明になっていく。朱色の光に目を眩ませながら、徐々に目を凝らした。
ガイウスは、見知らぬ部屋の中にいた。粗末な木造づくりで、内壁の劣化具合からかなりの築年数が経っていると思われる。薄いガラス窓からは赤い日差し――おそらく夕日が差し込んでおり、それがちょうどガイウスの顔面に当たっていた。
部屋の中で、ガイウスは仰向けに寝かされていた。足が少しはみ出る小さなベッドの上に、厚手の毛布を何枚もかけられていた。
ここはどこなのか、自分に何があったのかを、朧げな意識で考え始めた時――
「起きた? 生きてる?」
どこからか、女の声が聞こえた。
頼りなく眼球を動かし、目だけで横を見遣る。
「スープ作ったんだけど、食べれそう? 重傷っぽいから無理しないでいいけど」
そう言いながら覗き込んできたのは、女だった。ショートカットの金髪に、エメラルドの瞳を持ち――翼のように尖った耳を持つ、エルフだ。違和感としては、エルフ独特の民族衣装ではなく、人間が着るような、質素なワンピースを着ていることだった。
「喋れる?」
女は、心配というより、きょとんとした表情で訊いてきた。
ガイウスは、まじまじとその顔を見ている内に、さらにもう一つ、違和感を覚えた。
「……リディ、ア?」
女の顔が、ガイウスの育ての親であるリディアと瓜二つだったのだ。
何かの幻覚でも見ているのだろうか――はっきりしない意識の中で必死に情報を整理し、混乱しないように考えを巡らせた。
すると、女は、何かに気付いたようにハッとした。
「そっか、アンタ、騎士だもんね。リディアのこと知っていてもおかしくないか。教会で有名人だし、あの子。あ、体拭くのに背中見たけど、印章の解析とかはしてないから。安心して」
なぜ騎士であることを知っている、それを訊くまでもなく、女は先に答えた。
それよりも気になるのは、前者の台詞だ。この女は、リディアのことを知っているのか。
いや、そんなことよりも、真っ先に疑問に思うべきことを考えていなかった。
「生きてるのか、俺は……?」
次に目を覚ますとしたら、そこは地獄だと思っていた。だが、どう考えても自分はまだ肉体を維持したままだ。全身の痛みと息苦しさがそれを証明している。
「うん」
すぐに女も肯定した。
「何があったかは知らないけど、とりあえずはゆっくり休んでおきな。ボロくて狭い家で申し訳ないけど、雨風凌げるなら上出来でしょ」
女は覗き込むのをやめ、ベッドから離れていった。
「……誰だ?」
それにしてもこの女は何者なのだろうかと、今さらながら訊いた。
「マリア。しがないはぐれエルフでございます。ちなみに言うと、シスター・リディアのお姉ちゃん」
女――マリアはそう名乗り、すぐにまた戻ってきた。その手には、スプーンと、湯気を上げるカップが握られている。
「食べる? 野菜スープ」
小首を傾げてくるマリアだったが、ガイウスは反応を示す体力が残っていなかった。口を動かす余裕もなく、自然と瞼が落ちていく。
「無理そうだね。今は好きなだけ寝るといいよ」
マリアの声が尻すぼみに聞こえたのを最後に、ガイウスの意識は再び闇の中に戻った。
※
次に目を覚ました時、視界は青暗く、窓から差し込む微かな星明りだけが頼りの状態だった。
全身の痛みはまったく消えてないが、力を込めれば、どうにか体を動かすことはできそうだ。
ガイウスは小さく呻きながら上半身を起こした。それだけでも激しく息切れしたが、壁伝いなら辛うじて歩くこともできそうだ。
早速、ベッドから足を下ろし、覚束ない足取りで前に進む。
その時、
「お腹空いたの?」
マリアが、目をこすりながら姿を現した。ベッド近くの床に寝ていたようだ。
しかし、ガイウスはそれを無視して、外に続く扉に向かって歩いた。
「ちょいちょい、どこ行くのさ?」
慌ててマリアが追いかけてくるが、ガイウスはそれも無視した。ドアノブに手をかけ、扉を開けるが――その瞬間に身体の力が抜けてしまった。左腕も欠損しており、バランスを崩したガイウスは受け身を取ることもできず地面に倒れ込む。
「騎士がそんな弱ってるって相当だと思うんだけど。せめてまともに歩けるまで休みなよ」
マリアが苛立たしそうに言って、ガイウスの肩を取った。ガイウスは、マリアにされるがまま、家の中に戻され、再びベッドの上に寝かされる。
「まだ、生きないと駄目なのか……」
毛布を掛けられる時、思わずそんな言葉が口から出た。マリアは一瞬手を止めると、肩を竦めながら鼻息を鳴らした。
「いいじゃん、どうせ死のうと思わなくても何年か後に勝手に死ぬんだから。生きれる時に生きた方がいいって」
彼女はそう言って、大きめのランプに火を灯し、室内を照らした。
次にマリアは、台所のコンロに火を点け、石炭をくべる。
「まだ何も食べれそうにない? 一応スープ温めておくから、食べれそうだったら言って」
そのあと、床下から水の入ったボトルを一本取り出した。
「水くらいは飲んだ方がいいと思うけど」
マリアはグラスに水を灌ぐと、ガイウスに差し出した。
しかし、
「……もう、体が動かない」
「さっきの脱走で体力を使い果たしたか」
マリアの言う通り、ガイウスには上半身を起こす力すら残っていなかった。
マリアは溜め息を吐いたあとで、ガイウスの身体を支えながら上体を起こしてあげた。それから改めてグラスを手に取り、ガイウスの口元に近づける。
「ゆっくり飲んで」
傾けられたグラスから、水が徐にガイウスの口を潤す。ガイウスは少量の水を口に含むと、大きく喉を鳴らした。冷たい感触が、食道から胃にかけてはっきり伝わってきた。
「小さい傷はもう治りかけてるね。騎士の身体ってやっぱ凄いんだ」
体内を巡る水の感触に浸っていると、マリアが顔の傷に触れてきた。そんな不意な接触を手で払い除けたかったが――少し力を入れたのと同時に、ガイウスの腹が鳴った。
それも、盛大に。
間もなく静けさを取り戻すと――マリアが腹を抱えて笑った。
「……何がおかしい?」
疲弊しきった顔でガイウスが訊くと、マリアは彼の肩を叩きながら、ひたすら笑った。
「だ、だって、カッコつけて死にたそうなこと言った矢先に、しっかりお腹空かしてんだもん! 体は正直者ってね!」
隣でゲラゲラと声を上げて笑うマリアだったが、ガイウスは言い返す気力もなかった。
暫くして、コンロの上の鍋からクツクツと音が鳴り出す。食欲をそそる臭いが家の中に漂った時、マリアは手際よくスープをカップによそい、持ってきた。
「一口くらいはイケんじゃない?」
そう言って、スープを掬ったスプーンを近づけてきた。
腹を鳴らしてしまった手前、口に入れなければまた無駄に茶化される――ガイウスはそう思い、不本意ながら、差し出されたスプーンを咥えた。
程よい温度のスープが、まずはじわりと舌を温めた。仄かな塩気が口の中全体に広がると、鼻腔を伝って甘い野菜の臭いを感じた。
最後に喉を鳴らすと――何故か目元と鼻が熱くなり、小さな涙が両の頬を伝って落ちた。ガイウスは自分自身でそれに驚いたが、それは決壊した川のように止まらなかった。鼻からは同じように鼻水が止めどなく溢れ出し、気づかないうちに何度も嗚咽してしまった。
「もうちょっとだけ、食べないとね」
そんなガイウスを、マリアは子を見守る母親のような微笑みで見た。




