第三章 賽は投げられたⅣ
従騎士になり、アーサーに師事してから、殺しは日常の一部になった。任務遂行の障害になる者、騎士団の敵対者の命は、虫よりも軽かった。戦場であればなおのことで――しかし、騎士の身体のおかげで、数百、数千程度の軍人であれば、害獣の駆除と何ら変わりなかった。
一年も経てば、あれだけ嫌悪感を覚えていたヒトの肉を斬り裂く感覚にもすっかり慣れていた。鶏肉や魚を捌く時に、ただヒトの断末魔が混ざるだけ――それくらいの気分でこなすことができた。
だが、それでもアーサーは――師は、決してヒトの心を失うなと、常に言ってきた。楽しむこと、嘆くこと、慈しむこと、そして、悲しむこと――感情は必ず胸に抱けと。たとえそれらが自分自身を苛ませることになったとしても、それこそが騎士が受けるべき罰なのだと。
さらに二年後には、生きているヒトに接する恐怖心もなくなっていた。感情を維持しつつ、正気を保つ術を体得したことで、殺める命に正面から向き合うこともできた。
それが欺瞞や詭弁であることはわかっている。
だが、それでいいのだ。
自分が痛みを受けるだけで、罪なき者が救われる――その事実さえ確かなものであれば、誰に恨まれようとも、この先に戦いしかない一生が待っていたとしても、終わりのない罪の意識に耐えることができた。
それに耐え続けることこそが騎士の矜持なのだと理解した時――十五歳になったばかりのガイウスは、騎士になることを認められた。
「まさに騎士になろうとする者。真理を守るべし、教会、弱き者、祈りかつ働く人々すべてを守護すべし」
祝別の言葉が、聖堂の凍てついた空気を震わせた。
壇上で跪くガイウスの前に立つのは、議席持ちの騎士――次期総長として騎士団にその名を轟かせる男、議席Ⅱ番にして副総長、ユーグ・ド・リドフォールだ。
ユーグは、眼前に跪くガイウスの肩に剣を置くと、それを両肩に数回行ったあとで、剣の刀身を眼前に掲げた。
「新たな騎士の誕生を、我ら聖王騎士団は祝福する」
ユーグの宣言を聞いた参列者から、一斉に喝采が起こる。
儀式の終了と共に、騎士と認められたガイウスは立ち上がった。ユーグから剣を受け取り、天高く掲げると、盛り上がりは最高潮に達した。
聖堂の一角に、白い戦闘衣装に身を包んだ者たちの集まりがあった。
全員が腰に儀礼用の剣を携え、法衣に似たゆとりのある外套に身を包んでいる。いずれもフードを深く被り、正面からは口元しか覗いていない。
騎士、及びそれに仕える従騎士たちが、ガイウスの晴れ舞台をしめやかに見守っていたのだ。
ガイウスは、ただ一つだけ、この時に不満を持っていた。
この喜びを最も分かち合いたかった人物、師匠のアーサーの姿がそこになかったことだ。
※
「これで君も一人前だ、ガイウス卿」
叙任式を終え、聖堂の中庭で一人休んでいたところに、ユーグが声をかけてきた。まだ二十代半ばだというのに、その貫禄には副総長の肩書に違わぬ威厳が漂っている。
ガイウスは慌ててベンチから立ち上がり、一礼した。
「ありがとうございます、ユーグ卿」
「君の晴れ姿、アーサー卿にも見てもらいたかったな。あと半年、叙任式の準備を早めることができていたらと思わずにはいられない」
気づかわしげに言ったユーグに、ガイウスは力なく笑った。
「仕方がありません。急を要する任務とのことですから。それに、私もすぐに合流するので、その時に報告しますよ。ちゃんと騎士になれたって」
その言葉を聞いたユーグの顔が強張った。
「……本当に行くのか、“帝国”に?」
「ええ。覚悟はすでに決めています。何より、我が師をこのまま一人にしておくことはできません」
アーサーがこの場にいない理由――半年前、彼は急遽、“とある最重要任務”に拝命された。そしてその任務には、騎士になりたてのガイウスも赴くことが決定された。
「騎士としての初めての任務――それを鑑みれば、異例ともいえる抜擢だ。現地に赴いたのがアーサー卿で、その弟子だからというだけで君を送り出すことには、正直な話、懸念がある」
「皆様の憂慮は承知しています。しかし、自分を過大評価するわけではありませんが、アーサー卿と共に任務を遂行できるのは、弟子の私をおいて他にはいないとも自負しております。どうか、そうご心配なさらず」
胸を張って言ったガイウスだったが、ユーグは殊更に顔を曇らせる。
「……私の心配は、君の実力のことではない。知っての通り、そもそもの政治背景だ」
「今回の任務、教皇庁には一切の連絡を入れず、騎士団の独断で行っている、ということでしたね」
「ああ。何百年も前に起きた“第二次帝国戦線”以降、北東の“帝国”は完全な鎖国状態となり、こちら側とは一切の接触がなかった。だが半年前、アウソニア連邦と“帝国”との国境付近で瀕死状態の老人が教会関係者に発見された。そして、彼の証言から“帝国”の武力侵攻が疑われるようになったのが始まりだ」
「確か、その老人は国境付近にある集落の住民で、“帝国”と思しき勢力から突然襲撃を受けたとか。しかし――」
「老人の訴えと証言は教皇庁――教皇と枢機卿団によって妄言と判断され、半ば揉み消されるように取り下げられた。だが、それを老人の妄想と一蹴するにはあまりにも話の内容が生々しく、騎士団が個別に事情聴取をしようとした――その矢先、老人は療養先の病院で事故死してしまった。その事故死も不審な点が多く、教皇庁が暗殺したのではないかとの疑義がある」
そうやって話し込む二人に、祝い事の雰囲気はすでになくなっていた。
「それゆえ、騎士団が事実確認のために独断で現地調査へ赴くことになった、という話ですよね。承知しています」
「教皇庁がこの件に消極的なのは、秘密裏に進められている大陸同盟の締結に向けた諸準備のためにリソースを割けないからだと、説明を受けた。だが、大陸同盟は“帝国”とセリカの脅威を退けるために提唱された考えだ。であるなら、逆に“帝国”の現状を率先して知るべきだ」
「騎士団はそこに強い違和感を抱いたというわけですね」
ユーグは長い息を吐きながら頷いた。
「ガイウス卿、この任務はただの現地調査では済まないだろう。くれぐれも留意し、アーサー卿を助けてやってほしい。教皇庁の方は、私とヴァルター卿で詰めていく」
「かしこまりました。必ずや、真実を暴いてみせます」
※
ガイウスが現地に赴いたのは、叙任式の一週間後だった。場所は、アウソニア連邦の北東部、“帝国”との国境を持つ極寒地帯だ。真北に険しい霊峰を携えており、そこから吹き付ける風が年中を通して雪を降らす。生物が住まうにはあまりにも過酷な環境であることと、数百年に渡って“帝国”が沈黙を貫いていたため、教皇庁は公的に国境の警備を敷いていなかった。そのため、“帝国”の動向は、長年、地元民の有志による自警団によってのみ検知できる状態だった。
今回の悲劇は、偏にそのような惰弱な態勢に甘え続けた結果なのだろう。
目的地までは碌に整備がされていない道ばかりで、最寄りの駅からでも馬を使って丸一日の移動時間がかかった。
ガイウスは馬を適当な場所に置くと、まずは集落を軽く見渡した。古い木造の家屋が点々と建ち並んでおり、そのどれもが酷く劣化していた。定期的な手入れがされているようには見えず、それだけでも住民の生活が劣悪なものであると容易に想像できた。ヒトの気配もほとんどなく、雪を巻き上げる凍てついた風の音だけが空しく響くだけだった。
集落の奥にガイウスが足を進めようとした、その時だった。
突然、馬が悲鳴を上げ、その場で激しくのた打ち回った。雪煙の中では、馬のほかに、何やら小柄な影が幾つも飛び跳ねている。
その影の正体が魔物――ゴブリンであることはすぐにわかった。
ガイウスは剣を引き抜き、すぐに処理した。野生化した魔物だろうか――ゴブリンの亡骸を確認していた矢先、不意に殺気を感じ取り、ガイウスは後ろに大きく跳躍した。直後、一瞬前までいた場所に、銃弾が撃ち込まれる。
銃弾が飛んできた方向を見遣ると、家屋の陰にレンズの反射光があった。
ガイウスは走り出すと同時に剣を投げる。投擲された剣が対象に突き刺さると、短いヒトの悲鳴が聞こえた。雪が赤く染まった場所に倒れ込むのは、見慣れない軍服を纏った兵士だった。
「……“帝国”の兵士か?」
ガイウスは尋ねるように独り言を漏らすと、痛みに悶える兵士の胸倉をつかんだ。突き刺さった剣を強く握ると、兵士の喉から絶叫が迸る。
「貴様、いったい何者――」
早速、正体を問い詰めようとしたが――ガイウスは兵士からすぐに距離を取った。直後、兵士がその場で自爆する。兵士が懐の手榴弾に手を伸ばした瞬間をあと少し見逃していれば、間違いなく巻き込まれていた。
ガイウスは、兵士の覚悟と手際の良さに、思わず息を呑んだ。まさか、本当に“帝国”が侵攻を開始したのだろうか――にわかに信じがたいが、この目で見た以上、そう判断するのが自然だろう。
ガイウスは剣を拾って鞘に納めたあと、改めて兵士の死骸を確認しようとした。
しかし、近くの家屋から視線を感じ取り、まずはそちらを振り返った。
「誰だ?」
殺気や敵意は感じない。もしや、今の爆発に驚いた住民が動き出したのだろうか。
そんなガイウスの予想通り、徐に開かれた家屋の扉から出てきたのは――十歳前後の子供だった。一人が出て、その後に続き、ぞろぞろと同年代の子供たちが姿を現す。そのいずれも、みすぼらしい薄手の服装で、この凍てついた寒さに小さく震えていた。
「……子供?」
ガイウスは、子供たちを刺激しないよう、ゆっくりと近づいた。
「ここは君たちの家か? 他に住民は?」
子供たちはガイウスを前にしても特に驚いた様子もなく、じっと見つめていた。
数秒の沈黙のあと、最初に姿を現した子供が、寒さにひび割れた唇を動かす。
「お父さんとお母さん……」
その酷くしわがれた声が風の音に阻まれてしまい、ガイウスはさらに近づいて耳を聳てる。
「みんな、お父さんとお母さん、待ってるの」
ガイウスはその場で片膝をついた。
「いつから子供たちだけで?」
「すごく前……」
そう言って、子供たちは悲しそうに顔を俯けた。
ここで何が起きたのだろうか――子供たちの姿に胸を痛めたガイウスは眉根を寄せた。
その時、不意に背後から雪を踏みしめる音が聞こえ、ガイウスは咄嗟に剣に手を添えて構える。
「誰だ?」
「久しぶりだな、ガイウス」
その人物は、殺気を込めたガイウスの威嚇にもまったく物怖じせず、堂々と立っていた。
そして、ガイウスは警戒を解いた。
「アーサー卿」
久しぶりに師の姿を見たガイウスは、思わずその顔を綻ばせた。
「その様子だと、無事、騎士になれたようだな」
フードを外したアーサーの表情も、逞しく育った弟子を前に緩む。
「はい。アーサー卿はお変わりないようで。安心しました」
「本当なら、祝い事の一つでも催したいところだが――見ての通り状況だ。すまないが、当分先になると思ってくれ」
「いったい、ここで何が起きているんですか?」
ガイウスが訊くと、アーサーは子供たちを見遣った。そのあとで、遠くの場所に向かって軽く顎をしゃくる。
「……場所を移そう。歩きながら話す」
ガイウスは、一度子供たちを見た。その全員が寂しそうに――悲しそうに見つめてくる。後ろ髪を引かれる思いだったが、それを振り切り、大人しくアーサーの後ろに続いた。
「“洗礼”はすでに受けたようだな」
隣に並ぶと、すぐにアーサーがそう言ってきた。
「“洗礼”?」
「子供たちがいた近くで、魔物と、所属不明の兵士と交戦しただろう?」
「はい」
「君は、アレをどう思う?」
「“帝国”の戦力、と考えるのが自然かと。魔物はゴブリンで一般的なものでしたが、兵士たちの服装は今までに見たことがないデザインでした。爆散してしまったため、詳しくは調べられませんでしたが」
すると、アーサーが何かを投げ渡した。
掴んで確認すると、それは服のボタンだった。
「これは?」
「兵士が着ていた軍服のボタンだ。裏を見てほしい」
一見すると特に変わったことはなかったが――目を凝らし、角度を変えて光を当てると、元々の模様をすり潰したような跡があった。
そして、その模様は、ガリア軍の軍服と特徴が一致していた。
「……これは、ガリア軍の?」
「この半年間、近隣を徘徊する魔物と兵士を調べてみたが、その特徴にガリア軍のものが多くみられた。十中八九、ガリアが絡んでいるだろう」
「では、今回の調査を揉み消すように働きかけた教皇庁は……」
「グルになっている可能性がある。あの露骨な隠ぺいの仕方も、ガリアが係わっているとなれば合点がいく」
「しかし、だとしたら、何故教皇庁とガリアはこんなことを? まさか、教会の総本山があるアウソニア連邦をガリアに吸収させようと?」
そんなガイウスの疑問に、アーサーは首を横に振った。
「その線よりも、もっと実益の伴った話がある」
「なんですか、それは?」
「大陸同盟だ。今はログレス王国がガリアの亜人奴隷制を認められないとして停滞している状態だがな」
しかし、ガイウスは今一つピンとせず、怪訝になった。
「その、俺には、具体的に大陸同盟がこれとどう結びつくのかがイメージできないのですが……」
「大陸同盟は東側の脅威――つまり、“帝国”とセリカに対する強力な防衛網を想定している。その時に動く利権は大陸社会に大きな影響を及ぼす。脅威として想定している“帝国”とセリカの力が強大であれば、なおのことだ。それらに対する軍備の強化、権力と金の動きは、大陸史上最大のものになるだろう。そこに、軍事大国であるガリアが目を付けないと思うか?」
「まさか、自国の立場を強めるため、“帝国”の脅威を事実以上に水増ししていると? 教皇庁もそれに肖るため、この自作自演を黙認している可能性が? いや、確かに、大陸同盟の主導権を握ることができれば、それを大義名分に諸外国との同化政策を推し進め、実質的な侵略支配ができる……」
ガイウスの推理に、アーサーは肩を竦めた。
「あくまで、私がこの半年間で導いた仮説だがな。そもそも、本当の“帝国”の実態もまだ掴めていない。仮説の真偽を確かめるためにも、今後は、それらを明らかにさせる。長く厳しい任務になる、覚悟しておけよ」
そう言って、アーサーはガイウスの背中を軽く叩いた。
「はい!」
「それと、もう一つ」
気合充分に返事をした矢先、アーサーが続けた。
「さっきの子供たちとは、もう係るな」
そして、突拍子もない言葉に、ガイウスは思わず呆けた顔になる。
「どういう意味でしょうか?」
「あの子供たちは、我々が戦う理由にはならない。この任務は、何かを守るために戦うものではないということだ」
アーサーは、ぴしゃりと言い放った。
「ここは、ああいう弱者で溢れているのが実情だ。この過酷な環境下で、一人一人に対して情けをかける余裕はないと思え。脆弱な情けが、お前の死神に成り変わる」
冷たい空気がガイウスの頬を打った。彼は暫く黙り込み、静かに雪を踏みしめる。
次に口を開けたのは、一瞬だけ風が吹き止んだ時だった。
「……アーサー卿は、俺が騎士を目指した理由を一番理解している方だと思っています。だからこそ、今のような忠告をしたのでしょう」
立ち止まって言うと、アーサーも足を止めて振り返った。
「申し訳ありませんが、それだけは承服しかねます。それを否定してしまったら、俺という存在自体が意味のないものになってしまう」
アーサーは、じっとガイウスを見つめていた。
「貴方には、騎士のすべてを叩き込んでいただいた。それにはとても感謝しています。だけど、俺の騎士の原点は、俺自身の正義にあるんです、アーサー卿」
「……己の正義で剣を取るなと、教えておくべきだったな」
目を伏せて言ったアーサーの言葉の意味は、この時のガイウスにはまだ理解できなかった。




