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辺獄の黒騎士  作者: シベハス
第四部
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第三章 賽は投げられたⅡ

 聖都セフィロニアの夜の空は静かに雨を降らしていた。あと一時間も経たずに日付が変わる頃、人ごみで賑わった昼間の街の喧騒は泡沫のように落ち着いている。


 湿気の不快感で目を覚ましたガイウスは、徐にベッドから上体を起こした。足を床に降ろし、ベッド脇の小机に置いてあった瓶を手に取る。コルクを開けて中の水を半分ほど飲んだあと、長い息を吐いた。


 身体がやけに怠い――まとわりつく汗に顔を顰めていると、寝室の扉が控えめにノックされた。

 立ち上がり、扉を開けると、そこにはトリスタンが立っていた。


「お休みのところ失礼いたします。こちら、ランスロットからです。ノリーム王国正常化に係る経過報告になります」


 トリスタンは報告書を手渡してきた。

 ガイウスは軽く目を擦ったあとでそれを受け取る。


「ご苦労。ステラ女王陛下からは何か返事はあったか?」

「そちらはまだです」

「そうか。悪いが、報告に目を通すのは明日にさせてくれ。もう少し休みたい。ランスロットにもそう伝えておいてほしい」


 そう言いながらドア枠に身体を預けるガイウスを見て、トリスタンは怪訝に眉根を寄せた。


「顔色が優れないですね。だいぶお疲れのようですが、大丈夫ですか?」


 部下の気遣いに、ガイウスは小さなため息を返した。


「ああ。疲れが取れていないだけだ」

「猊下に倒れられては計画に大きな支障が出てしまいます。どうか、お大事になさってください」


 最後に一礼したトリスタンを背にし、ガイウスは扉を閉めた。受け取った報告書はテーブルに置き、ベッドの上に倒れ込むように横になる。


 まるで酷い風邪に罹ったかのように息苦しい。ここ十数年、体を壊したことなどないはずなのに、いったいどうして。


 そんなことを考えながら、ガイウスは仰向けになった。右腕をアイマスク代わりに顔の上に置き、何度も深く息を吸い込む。


 疲れているだけ――そう言い聞かせながら、また眠りに落ちた。

 今度こそ、余計なことを思い出さないように――







「何をしているの!」


 ガイウスの一番古い記憶は、孤児院の裏庭でリディアに叱られている時だった。人里から離れた低い山の中腹にある石造りの孤児院――孤児だったガイウスは、そこで十人ほどの子供たちと一緒に過ごしていた。


「何があったの?」


 裏庭で遊んでいた子供たちが一斉に固まった。その多くがリディアの声に驚いて竦んでいるなか、建物から一番離れた場所に、ガイウスを含めた三人の子供がいた。いずれも歳は五歳前後だが、ガイウスはその中でも一番体が小さかった。


「あいつが……! あいつが!」


 酷く泣きじゃくっているのは、三人の中で一番体格のいい男の子だ。その目元には、赤く腫れあがった大きな瘤がある。彼は声を引きつらせながら、必死にガイウスを指差していた。


 リディアと目が合ったガイウスは、裏庭から孤児院の正門前に向かって走り出した。


「待ちなさい! ガイウス!」


 すかさずリディアが後ろから追うと、ガイウスは建物の陰に回ったところで足を止めた。


「何があったのか、教えて」


 追いついたリディアは両膝を付き、ガイウスと目線の高さを合わせた。


「なんで家族を傷つけるようなことしたの?」


 そう叱る顔には怒りではなく、悲しみの色が浮かんでいた。子供の小さな両肩に置かれた手には、弱々しくも確かな力が込められていた。


 ガイウスは、その特徴的な金色の双眸にリディアの姿をしっかりと映した。艶のある独特な黒髪であることも相俟って、彼は同じ孤児たちから黒猫のように――不吉を呼ぶ存在として蔑まれていた。その孤立から、笑うことも悲しむこともなく、ただ無表情にこの小さな社会の中で生きていた。


 リディアが自分に手を焼いていることも、ガイウスは子供ながらに理解していた。この時も、何を考えているのかを表情から読み取れない無愛想な子供相手に、彼女はどう接するべきか悩んでいたはずだ。


 だが、それはガイウスも同じだった。リディアが自分を叱った時、何を言えばいいのか、いつも返事に困っていた。


 そんな居心地の悪い二人の空間――不意に、裏庭の方から小さな影が一つ、恐る恐る姿を現した。


「せんせえ……」


 それはガイウスよりも小さな女の子だった。どんな時でも、兎のぬいぐるみを大事に抱きかかえて生活する気弱な子だった。

 女の子は、おどおどした様子でリディアに声をかけ、近づいてきた。


「ちょっと待ってね。今、ガイウスとお話しているから――」

「これ……」


 そう言って差し出したのは、首元から綿が飛び出た兎のぬいぐるみだった。


「ぬいぐるみ壊しちゃったの? 後で直してあげるね」

「あの二人がいじわるしてこわしたの」


 続けて少女は、首を勢い良く横に振り、先ほどの泣きじゃくる二人の男児を指差した。


「だからガイウスがおこったの」


 少女の言葉に、リディアはハッとする。すぐにガイウスへ視線を移したが、彼はもう孤児院の正面扉の前に向かって歩き出していた。


「ガイウス、待って」


 慌てて駆け寄り、ガイウスの前に回り込む。


「貴方、小さい子を守ったのね? でもね、暴力は駄目。そういう時は、何があったのか先生に言って」


 再度、ガイウスの両肩に手を置き、そう諭した。

 しかし、彼は返事をしなかった。


「わかった?」


 辟易したようにリディアが言っても、一向に口が開かれない。

 そればかりか、本当に理解していないような顔で――微かに不満を抱いたように、眉間に皺を寄せた。


「なんで?」


 ようやく発した言葉がそれだった。

 さらに、


「なんでやり返したら駄目?」


 ぶっきらぼうに質問した。

 リディアは軽く項垂れたあと、ガイウスに真摯な眼差しを送った。


「“右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい”――こんな言葉があるの。いい? 嫌なことをされても、感情的になってやり返すのはいけないことなの」

「だからなんで?」

「貴方自身を不幸にしてしまうから」


 それでもガイウスは納得せず、無表情で疑問を呈した。


「現に、今こうして先生に叱られているでしょ? 叱られるのは誰だって嫌でしょ?」

「じゃあ、あいつらは?」


 不満を飛ばすように、ガイウスは二人の男児に向かって人差し指を向けた。

 リディアは酷い頭痛になったような顔でため息を吐く。


「あとで先生がちゃんと叱っておきます。こんなこともうしないようにって」

「あいつら一昨日もやったのに、またやった」

「ヒトはね、そう簡単に変わるものではないの。何度も何度も失敗して、ようやく学んで、成長するの。だから――」

「やられるのを我慢しろってこと? 何も悪いことをしていなくても?」


 子供らしからぬ鋭い視線を向けるガイウスに、リディアは思わず怯んだ様子を見せる。


「そういうことを言いたいわけじゃなくて……」


 眉根を寄せて言葉の先を考えるリディアを、ガイウスはじっと見つめた。身を守るためなのに、何故やり返すことが駄目なのか、本当に理解ができなかった。それに納得できる答えを言ってくれるものだと、この時は本心から期待していた。


 しかし、


「シスター・リディア、来客です」


 孤児院の従業員がリディアを呼び付けてしまい、ガイウスが回答を得ることはなかった。

 リディアは、ほっとしたような、無念そうな顔で短い息を吐き、徐に立ち上がった。


「とにかく、もう暴力は振るわないように。あの二人にも、先生が叱っておくから」


 どうせまた同じことになる――そうやってガイウスが冷ややかな顔になった時、彼は何者かの強い気配を感じ取った。

 少し驚き、その先を辿ると――正門の近くに、男が一人立っていた。

 ガイウスは、一目見て、それが騎士であることを察した。僧服と軍服を掛け合わせたような白い戦闘衣装は勿論のこと、何よりその佇まいと雰囲気に、圧倒的な強者としての威厳が漂っていた。


「忙しかったでしょうか?」


 騎士はリディアに一礼し、そう声をかけた。

 リディアは速足で駆け寄り、静かに目礼を返す。


「いいえ、大丈夫です。こちらこそ、お忙しいところいつもありがとうございます、アーサー卿」


 騎士はアーサーと呼ばれ、リディアにスーツケースと封筒をそれぞれ一つずつ手渡した。


「今月分の維持費です。先月より少し増額されました。詳細はこの明細に」

「ありがとうございます。大変助かります。あまり口にするべきことではありませんが、お金はいくらあっても困ることはありませんから」

「シスターのお力あってのことでしょう。この孤児院の運営が認められたのも、貴女でなければ無理でした」

「私がやったことなんて、ねちっこく教会相手に文句を言っただけですよ。長命種ならではの強みです」


 アーサーからの賞賛を、リディアはエルフ特有の冗談を言って笑いで返した。

 そんな和やかな空気にガイウスが視線を向けていると、アーサーがそれに気づいた。彼は柔和な顔をガイウスに返した。


「そちらもここの?」

「ええ。ガイウス、いらっしゃい。騎士様にご挨拶」


 手招きされ、ガイウスはアーサーの前に立った。


「初めまして。アーサー・ガブレインだ。お名前は?」


 そう言って騎士が子供相手に片膝をつき、丁寧な挨拶をしたことに、ガイウスは少しだけ驚いた。


「……ガイウス」

「よろしく、ガイウス」


 アーサーが手を伸ばし、ガイウスはそれに戸惑った。すると、アーサーから手を握ってくれた。短い握手を経て固まるガイウスを尻目に、徐にアーサーは立ち上がる。


「それでは、私はこれで失礼――」


 アーサーは最後にリディアに目礼し、踵を返そうとした――その時だった。

 裏庭の方から、子供たちの甲高い悲鳴が響いた。


「せんせい! せんせい!」


 子供たちが、怪物にでも追われているような顔でリディアのもとへ駆け込んだ。


 この時、真っ先に動いたのは、アーサーだった。

 アーサーは瞬時に向き先を裏庭へ変え、目にも止まらぬ速さで駆け出す。


 その人間離れした俊敏な動きに、ガイウスは目を奪われた。子供たちの悲鳴や鳴き声を聞いて暫く竦んでいたが、やがてその足は騎士の後を追っていた。


 裏庭に行くと、そこには見慣れない男が二人いた。男たちはそれぞれ子供を一人ずつ脇に抱えており、手には回転式の拳銃を握っている。その銃口は、子供の頭に突き付けられていた。

 誰の目から見ても強盗の類のならず者であり、子供を人質にしていることは自明だった。


「おい、ガキの命が惜しかったらここにある有り金を――」


 男の一人が威勢よく何かを言い放ったが――皆まで言う前に、その頭は背後に向かって百八十度捻じ曲げられていた。

 ガイウスがそれに気付き、何が起きたのかを頭で考えていた時、いつの間にかもう一人の男の方も同じ姿になっていた。


 そして、男に捕まっていた子供たちが、アーサーの両脇にそれぞれ抱えられている姿が近くにあった。


「他の子供たちは!?」


 叫んだアーサーの視線の先にはリディアがいた。

 リディアは、アーサーが助けた二人の子供を抱き締めながら、強く頷く。


「転んで怪我をした子が数人いるだけです。ありがとうございます、アーサー卿」


 それを聞いたアーサーが緊張を解き、ほっと胸を撫で下ろした。


「子供が無事で何よりだ」


 そんなやり取りを尻目に、ガイウスは地に伏した二人の男をまじまじと見た。首を歪な方向に曲げられ、男たちはすでに息絶えている。


 それは、アーサーが暴力を振るったからだ。

 しかし、リディアはそれを咎めない。そればかりか、感謝の言葉まで述べた。


 何故、こうも自分との対応に差があるのか、まったく理解ができなかった。


「ガイウス、あまりまじまじと見るのは――」

「どうして殴ったの?」


 傍らに立ったアーサーに、ガイウスは無邪気に訊いてみた。


「そうしないと、あの子たちが傷ついたからだ」


 アーサーはそう言って、リディアの胸で泣く子供たちを見る。

 だが、ガイウスの疑問は深まるばかりだった。


「俺は同じようなことをして、リディアに怒られた」


 アーサーを見つめると、彼は心なしか険しい顔つきになった。


「リディアは、暴力は駄目だと言っていた」

「今のは、暴力だと思うか?」

「うん」


 アーサーは腰を落とし、ガイウスの視線を神妙な面持ちで受け止めた。


「……そうか。であれば、君の質問に答えるのは、少し時間がかかりそうだ」

「今のは暴力じゃないの?」

「どうだろうな。ヒトによっては、そう見えるかもしれない。だが、この男たちに暴力を振るったと誰かが私を非難したとしても、私はそれを受け入れるよ。それで何の罪もない二人の子供が無事だったのなら」

「悪者になるってこと?」


 ガイウスの問いかけに、アーサーは力なく笑った。


「かもしれないな。ただ、少しズルいことを言うと――」


 不意に、アーサーが自身の懐に手を入れた。

 そして、


「私たち騎士は、“これ”のおかげで許されている」


 “剣”の形をしたペンダントを、どことなくこっそりとしたように、ガイウスに見せてきた。


「さあ、そろそろ先生のところに戻りなさい。また怒られてしまうぞ」


 そう言ってアーサーはガイウスの頭を軽く撫で、踵を返そうとした。


 しかし――


「ねえ」


 ガイウスは呼び止めた。


「どうやったら、騎士になれるの?」

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