第三章 賽は投げられたⅡ
聖都セフィロニアの夜の空は静かに雨を降らしていた。あと一時間も経たずに日付が変わる頃、人ごみで賑わった昼間の街の喧騒は泡沫のように落ち着いている。
湿気の不快感で目を覚ましたガイウスは、徐にベッドから上体を起こした。足を床に降ろし、ベッド脇の小机に置いてあった瓶を手に取る。コルクを開けて中の水を半分ほど飲んだあと、長い息を吐いた。
身体がやけに怠い――まとわりつく汗に顔を顰めていると、寝室の扉が控えめにノックされた。
立ち上がり、扉を開けると、そこにはトリスタンが立っていた。
「お休みのところ失礼いたします。こちら、ランスロットからです。ノリーム王国正常化に係る経過報告になります」
トリスタンは報告書を手渡してきた。
ガイウスは軽く目を擦ったあとでそれを受け取る。
「ご苦労。ステラ女王陛下からは何か返事はあったか?」
「そちらはまだです」
「そうか。悪いが、報告に目を通すのは明日にさせてくれ。もう少し休みたい。ランスロットにもそう伝えておいてほしい」
そう言いながらドア枠に身体を預けるガイウスを見て、トリスタンは怪訝に眉根を寄せた。
「顔色が優れないですね。だいぶお疲れのようですが、大丈夫ですか?」
部下の気遣いに、ガイウスは小さなため息を返した。
「ああ。疲れが取れていないだけだ」
「猊下に倒れられては計画に大きな支障が出てしまいます。どうか、お大事になさってください」
最後に一礼したトリスタンを背にし、ガイウスは扉を閉めた。受け取った報告書はテーブルに置き、ベッドの上に倒れ込むように横になる。
まるで酷い風邪に罹ったかのように息苦しい。ここ十数年、体を壊したことなどないはずなのに、いったいどうして。
そんなことを考えながら、ガイウスは仰向けになった。右腕をアイマスク代わりに顔の上に置き、何度も深く息を吸い込む。
疲れているだけ――そう言い聞かせながら、また眠りに落ちた。
今度こそ、余計なことを思い出さないように――
※
「何をしているの!」
ガイウスの一番古い記憶は、孤児院の裏庭でリディアに叱られている時だった。人里から離れた低い山の中腹にある石造りの孤児院――孤児だったガイウスは、そこで十人ほどの子供たちと一緒に過ごしていた。
「何があったの?」
裏庭で遊んでいた子供たちが一斉に固まった。その多くがリディアの声に驚いて竦んでいるなか、建物から一番離れた場所に、ガイウスを含めた三人の子供がいた。いずれも歳は五歳前後だが、ガイウスはその中でも一番体が小さかった。
「あいつが……! あいつが!」
酷く泣きじゃくっているのは、三人の中で一番体格のいい男の子だ。その目元には、赤く腫れあがった大きな瘤がある。彼は声を引きつらせながら、必死にガイウスを指差していた。
リディアと目が合ったガイウスは、裏庭から孤児院の正門前に向かって走り出した。
「待ちなさい! ガイウス!」
すかさずリディアが後ろから追うと、ガイウスは建物の陰に回ったところで足を止めた。
「何があったのか、教えて」
追いついたリディアは両膝を付き、ガイウスと目線の高さを合わせた。
「なんで家族を傷つけるようなことしたの?」
そう叱る顔には怒りではなく、悲しみの色が浮かんでいた。子供の小さな両肩に置かれた手には、弱々しくも確かな力が込められていた。
ガイウスは、その特徴的な金色の双眸にリディアの姿をしっかりと映した。艶のある独特な黒髪であることも相俟って、彼は同じ孤児たちから黒猫のように――不吉を呼ぶ存在として蔑まれていた。その孤立から、笑うことも悲しむこともなく、ただ無表情にこの小さな社会の中で生きていた。
リディアが自分に手を焼いていることも、ガイウスは子供ながらに理解していた。この時も、何を考えているのかを表情から読み取れない無愛想な子供相手に、彼女はどう接するべきか悩んでいたはずだ。
だが、それはガイウスも同じだった。リディアが自分を叱った時、何を言えばいいのか、いつも返事に困っていた。
そんな居心地の悪い二人の空間――不意に、裏庭の方から小さな影が一つ、恐る恐る姿を現した。
「せんせえ……」
それはガイウスよりも小さな女の子だった。どんな時でも、兎のぬいぐるみを大事に抱きかかえて生活する気弱な子だった。
女の子は、おどおどした様子でリディアに声をかけ、近づいてきた。
「ちょっと待ってね。今、ガイウスとお話しているから――」
「これ……」
そう言って差し出したのは、首元から綿が飛び出た兎のぬいぐるみだった。
「ぬいぐるみ壊しちゃったの? 後で直してあげるね」
「あの二人がいじわるしてこわしたの」
続けて少女は、首を勢い良く横に振り、先ほどの泣きじゃくる二人の男児を指差した。
「だからガイウスがおこったの」
少女の言葉に、リディアはハッとする。すぐにガイウスへ視線を移したが、彼はもう孤児院の正面扉の前に向かって歩き出していた。
「ガイウス、待って」
慌てて駆け寄り、ガイウスの前に回り込む。
「貴方、小さい子を守ったのね? でもね、暴力は駄目。そういう時は、何があったのか先生に言って」
再度、ガイウスの両肩に手を置き、そう諭した。
しかし、彼は返事をしなかった。
「わかった?」
辟易したようにリディアが言っても、一向に口が開かれない。
そればかりか、本当に理解していないような顔で――微かに不満を抱いたように、眉間に皺を寄せた。
「なんで?」
ようやく発した言葉がそれだった。
さらに、
「なんでやり返したら駄目?」
ぶっきらぼうに質問した。
リディアは軽く項垂れたあと、ガイウスに真摯な眼差しを送った。
「“右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい”――こんな言葉があるの。いい? 嫌なことをされても、感情的になってやり返すのはいけないことなの」
「だからなんで?」
「貴方自身を不幸にしてしまうから」
それでもガイウスは納得せず、無表情で疑問を呈した。
「現に、今こうして先生に叱られているでしょ? 叱られるのは誰だって嫌でしょ?」
「じゃあ、あいつらは?」
不満を飛ばすように、ガイウスは二人の男児に向かって人差し指を向けた。
リディアは酷い頭痛になったような顔でため息を吐く。
「あとで先生がちゃんと叱っておきます。こんなこともうしないようにって」
「あいつら一昨日もやったのに、またやった」
「ヒトはね、そう簡単に変わるものではないの。何度も何度も失敗して、ようやく学んで、成長するの。だから――」
「やられるのを我慢しろってこと? 何も悪いことをしていなくても?」
子供らしからぬ鋭い視線を向けるガイウスに、リディアは思わず怯んだ様子を見せる。
「そういうことを言いたいわけじゃなくて……」
眉根を寄せて言葉の先を考えるリディアを、ガイウスはじっと見つめた。身を守るためなのに、何故やり返すことが駄目なのか、本当に理解ができなかった。それに納得できる答えを言ってくれるものだと、この時は本心から期待していた。
しかし、
「シスター・リディア、来客です」
孤児院の従業員がリディアを呼び付けてしまい、ガイウスが回答を得ることはなかった。
リディアは、ほっとしたような、無念そうな顔で短い息を吐き、徐に立ち上がった。
「とにかく、もう暴力は振るわないように。あの二人にも、先生が叱っておくから」
どうせまた同じことになる――そうやってガイウスが冷ややかな顔になった時、彼は何者かの強い気配を感じ取った。
少し驚き、その先を辿ると――正門の近くに、男が一人立っていた。
ガイウスは、一目見て、それが騎士であることを察した。僧服と軍服を掛け合わせたような白い戦闘衣装は勿論のこと、何よりその佇まいと雰囲気に、圧倒的な強者としての威厳が漂っていた。
「忙しかったでしょうか?」
騎士はリディアに一礼し、そう声をかけた。
リディアは速足で駆け寄り、静かに目礼を返す。
「いいえ、大丈夫です。こちらこそ、お忙しいところいつもありがとうございます、アーサー卿」
騎士はアーサーと呼ばれ、リディアにスーツケースと封筒をそれぞれ一つずつ手渡した。
「今月分の維持費です。先月より少し増額されました。詳細はこの明細に」
「ありがとうございます。大変助かります。あまり口にするべきことではありませんが、お金はいくらあっても困ることはありませんから」
「シスターのお力あってのことでしょう。この孤児院の運営が認められたのも、貴女でなければ無理でした」
「私がやったことなんて、ねちっこく教会相手に文句を言っただけですよ。長命種ならではの強みです」
アーサーからの賞賛を、リディアはエルフ特有の冗談を言って笑いで返した。
そんな和やかな空気にガイウスが視線を向けていると、アーサーがそれに気づいた。彼は柔和な顔をガイウスに返した。
「そちらもここの?」
「ええ。ガイウス、いらっしゃい。騎士様にご挨拶」
手招きされ、ガイウスはアーサーの前に立った。
「初めまして。アーサー・ガブレインだ。お名前は?」
そう言って騎士が子供相手に片膝をつき、丁寧な挨拶をしたことに、ガイウスは少しだけ驚いた。
「……ガイウス」
「よろしく、ガイウス」
アーサーが手を伸ばし、ガイウスはそれに戸惑った。すると、アーサーから手を握ってくれた。短い握手を経て固まるガイウスを尻目に、徐にアーサーは立ち上がる。
「それでは、私はこれで失礼――」
アーサーは最後にリディアに目礼し、踵を返そうとした――その時だった。
裏庭の方から、子供たちの甲高い悲鳴が響いた。
「せんせい! せんせい!」
子供たちが、怪物にでも追われているような顔でリディアのもとへ駆け込んだ。
この時、真っ先に動いたのは、アーサーだった。
アーサーは瞬時に向き先を裏庭へ変え、目にも止まらぬ速さで駆け出す。
その人間離れした俊敏な動きに、ガイウスは目を奪われた。子供たちの悲鳴や鳴き声を聞いて暫く竦んでいたが、やがてその足は騎士の後を追っていた。
裏庭に行くと、そこには見慣れない男が二人いた。男たちはそれぞれ子供を一人ずつ脇に抱えており、手には回転式の拳銃を握っている。その銃口は、子供の頭に突き付けられていた。
誰の目から見ても強盗の類のならず者であり、子供を人質にしていることは自明だった。
「おい、ガキの命が惜しかったらここにある有り金を――」
男の一人が威勢よく何かを言い放ったが――皆まで言う前に、その頭は背後に向かって百八十度捻じ曲げられていた。
ガイウスがそれに気付き、何が起きたのかを頭で考えていた時、いつの間にかもう一人の男の方も同じ姿になっていた。
そして、男に捕まっていた子供たちが、アーサーの両脇にそれぞれ抱えられている姿が近くにあった。
「他の子供たちは!?」
叫んだアーサーの視線の先にはリディアがいた。
リディアは、アーサーが助けた二人の子供を抱き締めながら、強く頷く。
「転んで怪我をした子が数人いるだけです。ありがとうございます、アーサー卿」
それを聞いたアーサーが緊張を解き、ほっと胸を撫で下ろした。
「子供が無事で何よりだ」
そんなやり取りを尻目に、ガイウスは地に伏した二人の男をまじまじと見た。首を歪な方向に曲げられ、男たちはすでに息絶えている。
それは、アーサーが暴力を振るったからだ。
しかし、リディアはそれを咎めない。そればかりか、感謝の言葉まで述べた。
何故、こうも自分との対応に差があるのか、まったく理解ができなかった。
「ガイウス、あまりまじまじと見るのは――」
「どうして殴ったの?」
傍らに立ったアーサーに、ガイウスは無邪気に訊いてみた。
「そうしないと、あの子たちが傷ついたからだ」
アーサーはそう言って、リディアの胸で泣く子供たちを見る。
だが、ガイウスの疑問は深まるばかりだった。
「俺は同じようなことをして、リディアに怒られた」
アーサーを見つめると、彼は心なしか険しい顔つきになった。
「リディアは、暴力は駄目だと言っていた」
「今のは、暴力だと思うか?」
「うん」
アーサーは腰を落とし、ガイウスの視線を神妙な面持ちで受け止めた。
「……そうか。であれば、君の質問に答えるのは、少し時間がかかりそうだ」
「今のは暴力じゃないの?」
「どうだろうな。ヒトによっては、そう見えるかもしれない。だが、この男たちに暴力を振るったと誰かが私を非難したとしても、私はそれを受け入れるよ。それで何の罪もない二人の子供が無事だったのなら」
「悪者になるってこと?」
ガイウスの問いかけに、アーサーは力なく笑った。
「かもしれないな。ただ、少しズルいことを言うと――」
不意に、アーサーが自身の懐に手を入れた。
そして、
「私たち騎士は、“これ”のおかげで許されている」
“剣”の形をしたペンダントを、どことなくこっそりとしたように、ガイウスに見せてきた。
「さあ、そろそろ先生のところに戻りなさい。また怒られてしまうぞ」
そう言ってアーサーはガイウスの頭を軽く撫で、踵を返そうとした。
しかし――
「ねえ」
ガイウスは呼び止めた。
「どうやったら、騎士になれるの?」




