第二章 魂を鬻ぐ者ⅩⅦ
腹部に強烈な一撃を受けたサタナキアの巨体は大きくバランスを崩し、そのまま背中を地面に叩きつけた。それに伴い、両手の狭間で作られていた衝撃波の塊は消滅し、不発に終わる。
シオンはサタナキアが立ち上がる前に、“天使化”状態のままさらに一撃、額部分に蹴りを叩き込んだ。轟音と共にサタナキアの頭部は地面に半分近くめり込み、かつてヒトのモノだったどす黒い体液と脳漿を周囲にぶちまける。仰向けに倒れたままのサタナキアは全身を痙攣させ、静かになった。
こんなものかと、シオンが拍子抜けに困惑し、“天使化”を解除する――しかし、飛び散った体液や肉片が、再びサタナキアに集まっていった。
「時間がかかるっていうのは、こういうことか」
イグナーツの言葉を思い出しながら、シオンは刀を引き抜いた。
サタナキアは頭部を再生させると、中腰の姿勢で立ち上がった。その巨躯には似つかわしくない、やけに機敏な動きでシオンに対峙する。疑似生命体であるため感情などあるはずもないが、その顔は心なしか憤怒に染まっているようにも見えた。
サタナキアが咆哮を上げ、シオンに腕を振り上げる。
しかし、その直後、突如として地面から突き出た一対の巨腕に、サタナキアは胴体を拘束された。
「シオン、もういいですよ」
シオンが振り返ると、そこにはイグナーツがいた。となれば、あの巨大な腕はイグナーツが造り出した精霊、ノームのものだろう。
腕を振り払おうとサタナキアが巨体を揺らして暴れるが、さらに無数の腕が地面から生え、動きを封じ込めていく。気づけば、サタナキアは頭と四肢を完全に動かせない状態になっていた。
イグナーツがすれ違いざまにシオンの肩に手を置く。
「後は私に任せてください。貴方は敵の後方に控える有象無象の処理をお願いします。これとゴウラを片付けたら、私も合流します」
「了解」
指示を受け、シオンは即座に“帰天”を使い、“天使化”した。強化された肉体と電磁気力の操作を使い、一気にガリア軍残党が展開する場所にまで接敵する。
電光石火の如く移動したシオンは、ゴウラの脇を通り抜け、五秒と経たずガリア軍残党の本隊前に到達した。
赤黒い稲妻と共に、何もない空間から突如として姿を現したシオンに、ガリア軍兵士たちから驚きの声が立て続けに上がる。
そして、隊の指揮者と思しき女――イグナーツから事前に伝えられた情報を鑑みるに、アナベルと思われる軍人が、シオンの身なりを目の当たりにして狼狽した。
「き、騎士だと!?」
ざわつく兵たちを前に、シオンは一度“天使化”を解除した。
「投降勧告。一度しか言わない。今すぐ武装解除し、騎士の指示に従え。さもなければ、実力で排除する」
淡々と事務的に言って、その反応を伺う。
しかし、アナベルは、自身の後方に控える軍事力を確認して平静さを取り戻したのか、嘲笑に顔を歪めた。
「投降勧告? 世迷言を。これだけの数を前に何ができる」
そして、右腕を振り上げ、兵たちに小銃を構えさせる。
それを見たシオンは、刀を鞘から引き抜いた。
「投降の意思なしと判断。これより、ガリア軍残党の殲滅を開始する――始めからそのつもりだったけどな」
「――!?」
刹那、シオンの姿が消える。赤い光と稲妻が一瞬起きたのと同時に、綺麗さっぱり、白昼夢のようにその場からいなくなった。
次の瞬間、雷鳴を彷彿とさせる音と共に戦車が一台、上から潰される。車体は隕石の直撃でも受けたかのように歪に拉げ、間もなく爆発して使い物にならなくなった。
「何が起こった!?」
アナベルの怒号に応じて、兵士たちから狼狽の声が上がる。
だが、そんな暇すら与えないと、さらに他の戦車も続々と潰されていく。その間に走るのは赤黒い稲妻だった。稲妻に触れてやられるのは戦車だけではなく、兵士や魔物たちも同様だった。見えない巨大な剃刀が辺り一帯に飛び交っているのか――そんなことを思わせるかのように、それらの身体は無残に両断されていった。
「なんだ、これは……何が起きている……!?」
見えない恐怖に耐えきれなくなった兵士たちは混乱を極め、ついには銃を乱射し始めた。標的を捉えない弾丸は次々と同士討ちを引き起こし、果ては戦車までもが所構わず砲弾を撃ち出す始末である。
砂埃と土煙、血飛沫と肉片で周囲は覆われ、確かに視認できるのは、その中で絶え間なく奔る赤黒い稲妻だけだった。
そんな心霊現象のような光景が暫く続いたが、やがて収束する。
兵士の悲鳴や銃声がなくなったのと同時に、赤い光も消えた。
それまで息を呑んでただ立ち尽くことしかできていなかったアナベルが、弱々しく動き出す。
「おい、誰か! 誰かいないの――」
「兵は強化人間、戦車隊も含めて全員始末した。魔物は何頭か取り逃がしたが、もうここには戻ってこないだろう。あとはお前だけだ」
その宣告に、アナベルが背筋を凍らせて固まった。
そして、それまで周囲を覆っていた砂煙などが徐々に晴れていき、先の光景を露にする。
そこにあったのは、血塗れの刀を手に歩みを進めるシオンの姿だ。その後ろには、変わり果てた姿で横たわる兵士たちの死体と、ガラクタ同然となった戦車などの大型兵器――それらを目にしたアナベルが、激昂に顔を歪めた。
「き、貴様ぁ! こんなことをしでかして、ただで済むとは思うな! 私はヴィクトル様の側近、アナベル・オーリックだぞ! 私に何かあればヴィクトル様が――」
そうやって激しく捲し立てたが、少し遠くで聞こえた轟音に先の言葉を噤む。
「え……?」
見ると、サタナキアが両膝から崩れるように地面に伏しているところだった。その後、瞬き一つの内にその巨体は小さな光の粒子となって霧散する。
切り札が呆気なく消えた様を目の当たりにしたアナベルの顔が、絶望に変わった。
彼女はすぐにシオンに向き直り、両腕を高く挙げる。
「ま、待て! 投降、投降する! だから――」
その続きを発しようとした口の形のまま、アナベルの首は胴体から切り離された。
※
シオンが敵側後方に控えるガリア軍の元に行ってから間もなく――イグナーツはゴウラの前に姿を現した。大地の巨腕に身体を絡めとられるサタナキアを背景に、まずは一服、煙草に火を点ける。
「面倒なことをしてくれましたね。“冥府の統率者”、ヴィクトル=シール・ド・ゴウラ」
黒く濁った双眸でゴウラを見据えながら、イグナーツは魔術で簡易な椅子を地面から生み出し、腰を下ろした。
最初、ゴウラはイグナーツの存在に気が付いていなかったが、声をかけられ、ハッとして意識を目の前に戻した。
「貴様、イグナーツ・フォン・マンシュタインか!」
突然の大物の登場に吃驚する。しかし、すぐに背筋を伸ばし、また威風堂々とした態度を見せた。
イグナーツは無表情のまま紫煙を吐き出す。
「いつ魔導書を盗み出したんですか? おおかた、騎士団分裂戦争後、教会が混乱した時に枢機卿なり本の管理者なりを買収して手に入れたんでしょうが」
だが、ゴウラはその問いに答えず、低く笑うだけだった。
「何かおかしいことが?」
「おかしい? 否、嬉しいんだよ。教会魔術師の最高位者の銘――“賢者”を肩書に持つ貴様を超える日が来ることに!」
「さようですか。それはいつのことでしょう?」
「無論、今この瞬間だ!」
心底つまらなさそうに応じるイグナーツに対し、ゴウラは昂ぶっていた。身動きの取れないサタナキアに向かって、大口を開ける。
「サタナキアよ! 今こそ我が宿願を果たすとき! 騎士団副総長にして教会魔術師の最高位者――“賢者”、イグナーツ・フォン・マンシュタインを滅ぼせ! 私こそが魔術師の最高位に座す存在だと証明しろ!」
ゴウラの号令を受けたサタナキアが、地鳴りのような咆哮を上げた。全身の筋肉を隆起させ、自らを拘束していた大地の巨腕を力任せに振り払う。
そして、イグナーツに向かって駆け出した。四足を使って大地を鳴らし、とてつもない速さで肉薄する。
しかし――
「なんだ……?」
イグナーツが指を弾いて鳴らしたの同時に、急に動きを止めた。両膝から地面に崩れ落ち、慣性を残したまま情けない体勢で倒れ込む。
直後、サタナキアの巨体が、光の塵となって消えた。
「さ、サタナキア!?」
不可解な現象に、ゴウラは焦燥を隠さずに声を張り上げる。
「サタナキア! サタナキア!」
何度も呼びかけながら、印章の書かれた紙に手を叩きつけた。
だが、何をやっても、サタナキアが再び姿を現すことはなかった。
「どう、なっている……!?」
「あれは私が消しました。もう一度召喚したいなら、また大量の死体を集めないと駄目ですね」
愕然とするゴウラに、イグナーツがその解を出した。
ゴウラは目を丸くさせたまま体を震わせる。
「……消した? 何を言っている?」
「言葉通りです。ところで、その禁術、自分が完成させたと思っているみたいですね」
急に話を変えたイグナーツだったが、ゴウラは律儀に応じた。
「そ、そうだ! 遥か古の魔術師たちがその大いなる力を恐れ、未完成のままに封じた禁術だ! 不完全な魔導書を私が補完し――」
「その魔術を作ったの、私なんですよ」
ぷかーっと紫煙を吐き出し、イグナーツは昨日の献立を伝えるような声色で言った。
ゴウラは、時を止められように呆然とする。
「……く、くだらない嘘を! この魔導書、どう見ても千年以上も前に作られた――」
「正確に言えば、今の形に仕上げた、です。今から二十年以上前、私がまだ従騎士だった頃です」
「妄言だ! そもそも、私がこの魔導書を手にした時、この術は未完成の状態だった!」
「魔導書そのものが作られたのは、仰る通り千年以上前だと思いますよ。ですが、子供の私が手にした時、その魔導書はほとんどが白紙でした。書いてあったのは、“こういうことができたらいいなぁ”程度のことだけ。その時は禁術でもなんでもなく、書庫のそこら辺の棚に参考文献として雑に収められている状態でしたね」
イグナーツは煙草を吸いながら続けた。
「従騎士になった時、私の師になった騎士が非常に面倒くさい魔術師でしてね。議席Ⅳ番のヴァルター・ハインケルっていうヒトなんですけど。そのヒトが私に課した修行の一つに、なんでもいいから魔術を適当に作れっていうものがあったんです。この禁術は、その時に作った術でした」
「信じられるか、そんな話! さっき言った通り、この術はつい最近まで未完成だった! それを私が完成させたのだ!」
なおも認めないゴウラに、イグナーツは彼が手に持つ魔導書を指差した。
「二十三ページの理論概要、百五十九ページから三百一ページにかけての構築印章、八百七十六ページの精霊に必要な構成物質、および材料――パッと思い出したのはこれくらいですか」
「何の話だ?」
「直近、貴方が未完だと思ったであろうページの番号です。今手元にあるなら目を通していただければ。貴方が加筆した箇所と一致すると思います」
慌ててゴウラはページを捲った。すると、確かにそこは、ゴウラが加筆した部分であった。
「それらのページは完成後に敢えて情報を欠落させました。作ったはいいものの、規模が大きいし精霊召喚の材料が材料なので、世に出すのが憚れまして。しかし、習得自体はさほど難しくなく、多少頭の回る魔術師であれば容易に扱うことができました。そこで私は、どこぞの馬の骨が気安く使わないよう、細工をすることにしたんです。ページを所々落丁させ、念のため禁術に指定して。ですが、そこまでやってまさか魔導書そのものを持ち出されてしまうとは。こればかりは私の監督不行き届きです。ちゃんと文章の暗号化もしておくべきでした」
イグナーツの説明を聞くゴウラの震えが徐々に大きくなる。
「か、仮にそうだとして――何故、これほどまでに強力な術を自分のものとして扱わない!?」
「理由は単純ですよ。使い勝手が悪すぎて、自分が完成させた事実を世に知らしめるのが恥ずかしかったからです。先生にも鼻で笑われましたしね。なので、これを私が作ったものではなく、太古の魔術師たちが不完全のまま放置したという形にしました。我ながら、おねしょを隠したみたいで、こうやって他人に伝えるのも恥ずかしい思いです」
そう言って、イグナーツは肩を落とす。
「だってそうでしょう? この術を一回使うためにどれだけのヒトの死体が必要になりますか。サタナキアの肉体を構成するには、高度な情報伝達が可能な大量の生物細胞――ヒトの脳細胞が必要になる。そんなもの、いちいち用意なんかしてられませんって。それを使うくらいなら、物質の状態変化とそこら辺の有機物をベースにして作れる四大精霊の方がよっぽど実用的で勝手がいい。術者の練度次第で術の規模も自由自在ですからね」
固まるゴウラを見ながら、イグナーツは辟易した様子で息を吐いた。
「ここまで話しても信じられないというのなら、それで結構。ただ、私がサタナキアを一瞬で無力化した時点で、製作者であることの根拠を充分に知らしめたと思いますがね。精霊の停止命令を出せるのは、印章を作り出した魔術師の鉄則なので」
徐に立ち上がったイグナーツは、煙草の火を消して杖を取り出した。
「さて、王様ごっこで気持ちよくなっていたところ申し訳ありませんが、そろそろおしまいにしましょう。偶然手に入れた力を自分特有のものだと勘違いし、他者を見下し、虐げ、いい気になっている姿を見たのはとても滑稽でした。さぞ気分がよかったことでしょう。あたかも、自分だけが高次の上位存在になったかのような高揚感を得ていたと思われます。わかりますよ、私にもそういう時期はありましたから」
そして、杖の先端を地面に突き刺した。
「ですが、お山の大将で済ませるには少々やりすぎました。よりにもよって、教会に目を付けられてしまった。その代償は、甘んじて受けてもらいます」
すると、ゴウラの足元が軟化した。
「な、なんだ!? なんだこれは――」
次の瞬間には、いくつもの触手がゴウラの足元から伸び、彼の全身にまとわりついた。さながらミイラのようになったゴウラは、そのままゆっくりと軟化した地面に取り込まれていく。
「貴方の部下、我々教会の身内に酷いことしてくれたみたいじゃないですか。なので、ちゃんと反省する時間は与えておきたいです」
芋虫のように体をくねらせるゴウラを尻目に、イグナーツはシオンのいる場所に足を向けた。
「貴方はこのまま、地球の核に向かってゆっくり沈んでもらいます。圧力で簡単に潰れないようにしますし、酸欠にならないよう肺には酸素を送り込むので安心してください。というわけで、これから時間をかけて、地熱に焙られながらじっくりとこれまでの行いを悔い改めてください。まあ十キロも潜って生きていたら大したものですが」
そう言った時には、すでにゴウラの身体は完全に地面の下に埋まっていた。
「それでは、いつか地獄で会うその日まで、ごきげんよう」




