第二章 魂を鬻ぐ者ⅩⅥ
「禁術というだけあって、とんでもない規模だ」
監視塔にて、シオンが余波に顔を顰めながら言った。
建物のガラスはすべて割れ、周囲には吹き飛んだあらゆる物が散乱していた。地上では兵士たちが何人か壁や地面に叩きつけられたようで、救護班たちが慌ただしく駆け回っている。
「そうですね。残りの兵、早く下がらせないとアレの餌になってしまいます」
イグナーツは体に付いた塵などを払いながら同意した。
「本当にアンタ一人で止められるのか?」
「ご心配なく。なんでしたら、貴方でもボコボコにできますよ。私がやるより時間はかかると思いますが」
気さくに肩を竦めるイグナーツだったが、現場の緊張感にそぐわない上司の様子に、シオンは何とも言えない表情になった。気を取り直すように、平野――サタナキアのいる場所を見遣る。
「兵の被害が想定より大きそうだ」
「目先のゾンビに気を取られて、前に出しすぎたみたいですね。兵を固めるなとあれほど言ったのに」
嘆かわしそうに言って、イグナーツは煙草に火を点けた。シオンが頷きながら、さらに顔を顰める。
「まだ兵を送るみたいだぞ。装甲車と榴弾砲を備えていた塹壕がなくなった以上、有効な攻撃手段はないはずだ」
「大型兵器じゃないと碌に効きません。事前に伝えたはずですが、現場は軽いパニック状態になっているかもしれないです。あの怪物を目の前にして、もう何をどうしたらいいのかわからないのでしょう」
その言葉通り、兵士たちはかつてない危機に混乱を極めていた。あの化け物をどうすれば倒せるのか、どうすれば自分たちは助かるのか、怒号混じりの議論が地上で繰り広げられている。
見かねたシオンは、ケープマントを翻した。
「俺は早めに出る準備をしておく」
「お願いします。私は導師と長官に連絡を。二発目の衝撃波もおそらく止められません。兵たちに撤退命令を出すよう進言します」
シオンは監視塔から地上に飛び降り、屋内に保管してあったバイクのある場所に向かって行った。
それを見届けたイグナーツは、通信室へと足を急がせる。
「伝えたところで、どう動いてくれるものか」
ぼやき混じりに、走り出した。
※
「そんな馬鹿な! 前線の部隊が全滅!?」
戦場から離れた南方司令部にて、ベアトリスが通信機を前に声を張り上げた。防衛拠点本部として構えた司令室はかつてない緊張に包まれており、同席していた老齢の将軍や佐官に至っても、狼狽と焦燥に顔を青ざめさせている。
室内が絶望に染まるなか、カリスが後悔の念で歯噛みした。
「イグナーツ卿の言った通り……!」
そんな時、一人の兵士がカリスとベアトリスの前に立った。
「失礼します! イグナーツ卿から緊急通信です!」
兵士が指し示したのは、騎士と緊急の連絡を取るために用意された通信機だ。
呆然とするベアトリスを尻目に、カリスは急いで通信機のスイッチをオンにする。
『もうすでに被害状況は伝えられていますね? そして何より、先ほどの衝撃はそちらにまで届いていたかと』
スピーカーから流れてきたのはイグナーツの声――そして、彼の言う通りであった。ほんの数分前に起きた衝撃は、戦場から離れたこの建物をも強く揺らした。事実を確認するまでもなく、向こうでは恐ろしい事態が起きているのだろう。
『率直に申し上げます。トレイニア軍では禁術から生み出されたあの怪物を止めることはできません。今すぐ兵を引かせ、我々に任せてください。次は国民の生活区域にも被害が想定されます』
淡々としたイグナーツの説明に、カリスはすぐに返事をしようとした。しかし、手にしたマイクが強引に取り上げられる。
マイクは、ベアトリスに握られていた。
「ふざけるな! 軍隊でどうにもできないものを、たった二人でどう対処する!」
『我々騎士は、この大陸において規格外の存在です。国で対応できないあらゆる脅威を討ち取る術を持っています。ここはどうか――』
その先の言葉は、ベアトリスの机を叩く音に遮られた。
彼女は激しい剣幕で大口を開ける。
「貴様ら教会のその高慢で独善的な態度が気に入らんのだ! いいか、何を言われようと断固として貴様らの助けなど――」
瞬間、今度は乾いた音が響いた。
カリスの右手が、ベアトリスの頬を打ったのだ。
「いい加減にして!」
初めて暴力を振るったカリスに、ベアトリスが驚きに目を丸くさせる。
この一瞬の隙を逃すまいと、カリスはさらに続けた。
「ベアトリス、目の前の現実を見て。もしあの衝撃波がもう一度放たれたら、今度こそ現場の兵士たちは全滅してしまう。だからといって、私たちの力だけではアレを止めることなんてどうやったって無理」
冷静に諭すカリスだったが――ベアトリスは、それを受けてさらに焚きつけられたようだった。激昂した獣のように顔を歪ませ、壁に拳を打ち付ける。
「やってみなければわからんだろうが! 自国を自国の軍隊で守ることができずして、我らの存在意義などないだろ!」
「今はそういう話じゃない! 兵の命も民なの! それをこんな無謀なことで亡くしてしまうなんて馬鹿げてる!」
「馬鹿げているものか! 兵たちだって真聖派の信徒だ! であれば、この国を守る礎になってこそ本望というもの! そうだろう!」
同意を求めるように、ベアトリスは周囲を見遣った。
しかし、周りの通信兵をはじめ、将軍、佐官すらも、彼女に同意の所作を見せる者はいなかった。
『横からすみませんが、導師の仰る通りかと――』
この場の採決に止めを刺すように通信機から言葉が投げられたが、ベアトリスが通信機を破壊して掻き消した。
失意のどん底に落ちた顔で項垂れるベアトリス――その肩に、カリスが手を置いた。
「ベアトリス、もう一度言う。これは、貴女の無念を晴らす戦いではなく、国を守るための戦いなの。貴女の我儘を叶える対価に、国民の命を鬻げるのはやめて」
ベアトリスは壁に両腕を押し付け、何度も強く歯噛みした。痛みに堪えるような低い唸り声を上げ――
「……この機を逃して堪るか! ガリアは私たち亜人が憎むべき敵だ! そいつらの最後の息の根をこの手で仕留めることができるんだぞ! そんなチャンスを正道派――私たちを救えなかった奴らなんかに奪われてたまるか!」
しかし、それでもカリスを失望させた。
どうにもならないこの空気――そこへ、戦場の兵士に繋がる通信機から声が起こった。
『長官! 聞こえますか! 長官!』
「今度はなんだ!?」
ベアトリスは怒号で応え、通信機の前に立った。
『化け物がまた構えました! 恐らく先ほどの衝撃波がきます! このままでは、居住区への被害も想定されます!』
「なんとしても止めろ! すべての兵士で、有りっ丈の火力を撃ち込――」
その命令を言わせまいと、カリスがマイクを奪い取る。
「兵を今すぐ下がらせて騎士を向かわせてください! 非常事態です、導師の私が許可します!」
刹那、カリスの身体が勢いよく吹き飛んだ。カリスは背中を床に強く打ち付け、痛みに苦悶の表情を浮かべる。
それを見下ろすのは、鬼気迫るベアトリスだ。
「勝手なことを言うな、カリス! 軍の最高責任者は私だぞ!」
周囲の兵士たちの手を借りながら、カリスは徐に立ち上がった。
そして、感情を消した顔でベアトリスを睨む。
「……こんなことになるのなら、貴女を長官になんてしなければよかった」
ぼそりと放ったその一言は、その場にいた誰もが背筋を凍らせるほどに凍てついていた。
一瞬の静寂――
『ど、どちらの指示を……』
通信機の先では、兵士が困惑に声を震わせる。
ベアトリスがマイクに口を向けた。
「私は長官だ! 長官の指示に従え! 突撃しろ! その身を捨てでも絶対に――」
その命令の続きは、一発の発砲音によって阻まれた。同時に、ベアトリスは後頭部から血を流し、そのまま床に伏した。
「騎士に伝えてください。国防長官が死亡し、戦闘中の有事における一部権限が導師に移譲されたと。トレイニア聖国は、騎士団の戦力を要請いたします。伝えたあと、我が軍は速やかに撤退を」
代わってマイクを手に取ったのは、カリスだ。
彼女の右手には、硝煙を上げる拳銃が握られていた。
※
近くにいた通信兵から、イグナーツに向けて参戦許可が伝えられた。
待っていましたとばかりに、イグナーツは窓から地上に降りる。
「シオン、許可が下りました! とりあえずサタナキアを――って」
すぐさまシオンを向かわせようと指示を出した矢先――すでに彼はバイクに跨り、サタナキアのすぐ足元にまで到達していた。
「もう向かっていましたか」
呆れと感心で力なく笑うイグナーツ――転瞬、シオンの身体が赤く発光する。
バイクから飛び降りたシオンはそのまま一直線、サタナキアに急襲し、赤い光となって巨躯を蹴り飛ばした。




