第二章 魂を鬻ぐ者ⅩⅤ
カリスとの面会から一夜明け、シオンとイグナーツは再度教団本部に赴いた。時刻は昼下がり――イグナーツが整理したガリア軍残党の侵攻計画を共有するべく、改めてカリスと会話の場を設けた。
一時間もない短い会議を終え、参加者がぞろぞろと会議室を後にしていた時――廊下にて、ベアトリスの姿を見かけた。彼女は彼女で防衛戦に向けて慌ただしく動いているようで、辺りも憚らず、部下たちに怒声のような声で指示を出していた。
誰もが敬遠するであろう雰囲気のなか、カリスがヒールの音を露骨に鳴らし、ベアトリスに近づいていった。
「ベアトリス」
ベアトリスは殺気立った様子でカリスを睨みつける。その迫力に、カリスは気圧されて足を止めた。
「何度言われても、私は正道派なんぞの力を借りるつもりはない」
ベアトリスの視線は、カリスの後方に控えるシオンたちに向けられていた。もはや、彼女にとっての騎士の認識は、ガリア軍残党と大差ないのだろう。
カリスは酷い頭痛を患ったかのように顔を引きつらせた。
「今はその話じゃない。これを見て」
そう言って小脇から取り出したのは、イグナーツがまとめた防衛資料だ。
「ガリア軍残党が想定するトレイニアへの侵攻ルートと具体的な攻撃方法よ。このあとすぐ軍部に連携するから、後のことをお願い」
「何故、国防長官である私ではなく、先にお前がその情報を手にしている?」
もっともな疑問を投げかけ、ベアトリスはさらに顔を歪めた。
「イグナーツ卿から提供してもらったの。貴女じゃ絶対に受け取らないだろうから、私を経由して――」
「結局、騎士の力を頼っているだろうが」
そう吐き捨て、ベアトリスは踵を返した。カリスがこの場で直接手渡さずに軍部に連携すると言ったのも、この結果を予想してのことだろう。騎士が用意したものを、ベアトリスが素直に受け取るとは始めから考えていないのだ。
しかし、さすがにこの露骨な態度に腹を立てたのか、カリスはその美貌に青筋を浮かばせた。
「ベアトリス、貴女が今回の件でここまで頑なに騎士の協力を拒むのは、やっぱり過去のことが関係しているの?」
カリスから離れていたベアトリスの足が、一瞬止まる。
「これだけは心に留めておいて。これは、国を守るための戦いであって、貴女の無念を晴らすためのものではない。何より、これから相手にするのは貴女とご家族を苦しめた張本人でもない。例え自分の力で討ち取ったところで復讐にもならないわ」
ベアトリスが何か言い返そうとしたのか、微かに体を後ろに向けた――が、すぐにまたそっぽを向いてしまう。
カリスは、自身の頭を冷やすように大きな溜息を吐いた。
「情報を受け取ったら、この内容に則った防衛の準備をすぐに始めて。ガリア軍は宣戦布告をせずに急襲してくるはずだから」
廊下の突き当りに向かうベアトリスの足取りは、そんなことはわかっていると言わんばかりに荒れていた。後を追う部下たちも見るからに怯えている。
閉じたエレベーターを見遣るカリスの背中からは、やり場のない複雑な感情が漏れていた。
その隣に、イグナーツが立つ。
「長官殿、動いてくれますかね?」
声をかけられ、カリスは顔を俯けた。
「さすがに防衛の準備には動いてくれると思います。ですが、やはりお二人の力を借りることには……」
「長官殿の説得は叶いそうにないですか?」
「力及ばず。お恥ずかしい限りですが、彼女の承認を得るのはもう無理ではないかと……」
「ここだけの話にしてほしいのですが――」
イグナーツは周囲を軽く確認したあと、声を潜めた。
「長官殿の承認が得られない――トレイニア聖国として正式に騎士団の助力を受け入れることが叶わなくても、いざという時は、我々騎士は独断で戦線に加わらせてもらいます。特に、国民やその居住域への被害が確認された時はすぐにでも」
「……ご配慮、痛み入ります。どうか、よろしくお願いいたします」
「もしそうなった場合ですが、騎士団が独断で動いたことが公になれば、我々の行動は他国への過剰な干渉行為だとして、他の大陸諸国や教皇庁から非難を受けることも考えられます。その際には、どうか導師からのフォローをお願いしたく」
「もちろんです。ベアトリス――国の政治家たちが何を言っても、あなた方の処遇には最善を尽くして対応いたします」
短い密談を終えてイグナーツが離れると、カリスは悩ましげに息を吐いた。
次に、シオンが首を傾げた。
「今さらな話になるのですが、長官の承認を得ずに我々の協力を受け入れる手段はないのですか?」
シオンの問いに、カリスはいよいよ追い詰められた顔になる。
「基本的にはありません。あるとすれば、戦闘中の有事の時くらいです。例えば、国防長官が何らかの理由で機能しなくなった場合などは、例外的に将軍か導師に一部の権限が移譲されます」
「議会などで丸め込むことも不可能でしょうか?」
「時間があればそれもできたかもしれませんが、今日明日の時間だけではさすがに間に合わないかと……」
「もうすぐそこまで戦火が迫ってきているというのに?」
「軍が動かせないというわけではありませんから。正道派の力を借りる状況を想定した動きは、この国の政治にはほとんどないんです。特に、軍事に係る権限は導師による独裁的な運用を避けるため、一人でできることの裁量が限定的で……」
二人のやり取りを聞いていたイグナーツが、なるほど、と頷いた。
「確かに、我々も真聖派の国を相手にした王道的な対応手段を持っていませんからね。いっそのこと、聖王教ではない異教であれば強引に事を進めることもできたのですが。ここ百年の間で築かれた両宗派の良好な関係が、ここぞとばかりに面倒な足枷になっていますね」
ふと、カリスの顔に暗い影が落ちた。そこから読み取れるのは、憂いと後悔だった。
「信頼関係――そうですね、仰る通りです……」
ぼそぼそと言った顔には先ほどまでの疲弊しきった様子はなく、双眸に虚空を映していた。
シオンとイグナーツは顔を見合わせ、導師の見せた異常さに揃って怪訝になった。
「大丈夫ですか?」
咄嗟にイグナーツが声をかけると――カリスは一度大きく天井を仰いだ。それから、いつもの凛とした表情を見せる。
「はい」
カリスは二人に向き直ると、顔つきを険しいものにした。
「先ほどは、もう無理かもしれないと言いましたが、ベアトリスの説得、最後まで粘ります。例え、私的な交友関係が破綻することになったとしても」
覚悟を表明したその言葉に、シオンとイグナーツは懸念にも似た違和感を同時に抱いた。
※
シオンたちがトレイニア聖国に入国してから四日が経った。ガリア軍残党は、今のところ、おおむねイグナーツが予想した通りに動いている。
場所は、トレイニア聖国の南部とノリーム王国の北部に位置するジステア平野――疎らに生えた草木を携える大地は年中を通して薄い土煙に覆われており、太陽を頂点にした晴天であっても低所からの視界は良好とは言えなかった。平原を東西に隔てるのは何十キロにも及ぶ長大な有刺鉄線と金網で、それがこの平野における国境線の目印であった。
国境からトレイニア聖国側に向かって五キロの地点には迷宮のように張り巡らされた塹壕が造られており、これから訪れる戦に向けて兵士たちが忙しなく準備を進めていた。無数の砲弾に榴弾砲、多種多様な火器を仕込んだ装甲車が整然と並べられていく。その数が整うにつれ、兵士たちの顔に浮かぶ緊張の色がより濃くなっていった。
塹壕からさらにトレイニア聖国側に近づいた地点――ちょうどジステア平野の入り口となる場所に、監視塔を携えた軍の防衛基地がある。北を見れば国の居住区が、南を見れば平野を見渡せる狭間の場所だ。
監視塔の中はいつになく騒然としており、常備していない多数の通信機と配線が至る所に設置されていた。
その一角にて、シオンは国境の方角を眺める双眼鏡を外し、手元の資料に視線を移した。
「今のところ、アンタの予想通りだな」
そう言いながら顔を顰めたのは、“異臭”が原因だった。
隣のイグナーツが肩を竦める。
「あの禁術を使う前提ならこうするしかないので。それにしても酷い臭いですね。現場から三十キロは離れているのに、ここまで“死臭”が漂ってきます」
気を緩めれば今にも吐き気に見舞われそうなほどに酷い臭いの正体は、無数の死体だ。それらは今、ノリーム王国側の平野に並べられている。そうしたのはもちろん、ガリア軍残党――ヴィクトル=シール・ド・ゴウラだ。死体はその全部が過酷な労働で命を落としたノリーム王国の国民であり、それらは死してもなおゴウラの得意とする死体を操る魔術の材料として活用されるのだ。
「兵の士気も下がっていそうだ。この臭いだけじゃなく、他国を相手取った実戦経験が今までほぼなかったことも関係しているだろうが」
シオンは地上を走り回る兵士たちを見ながら言った。煙草に火を点けたイグナーツがそれに頷く。
「我々が動き出すのも想定より早い段階になりそうですね。まあ、こちらとしてはその方が早く話が進んで助かります」
「計画だと、国境から五キロ地点にある塹壕をチェックポイントにして、そこにサタナキアが到達したら、俺たちは動くことになるんだよな」
「ええ。トレイニア聖国の居住域から塹壕までの距離は約十キロ――これを越えてしまうと、サタナキアの有効射程範囲に入ってしまう」
シオンは双眼鏡を手に取り、国境と塹壕の間を見た。レンズの先では、武装した兵士や装甲車が蟻の行進のように隊を成している。
「トレイニアの軍は国境から五キロ以内でサタナキアを討ち取る必要があるのか」
「絶対無理ですね。トレイニア軍の装備を確認した限りでは、全然火力が足りません。まあ、もとよりサタナキアを単純な攻撃で止めること自体至難の業なんですが」
「いたずらに兵士の犠牲が出るわけか。今後の軍事力を維持するためにも、犠牲は必要最小限に抑えたいところだが……」
「あの長官がそんなことに頭を回すようには見えません。下手をすればこの国の軍、戦が終わった時にはほぼ機能しなくなっているんじゃないですか?」
双眼鏡を外したシオンは嘆息するように息を吐いた。
「導師はいまだに長官の説得を続けているみたいだが、さすがにもう無理だろう」
「ええ。今は二人揃って市街地にある南方司令部にいますが、聖都を出る時からずっと喧嘩している状態らしいです」
「導師には同情する」
「まったくですね」
イグナーツは心底呆れた様子で肩を竦めた。
「まあ、いずれにせよ私たちがガリア軍を殲滅させることになるので、いつでも対応できるように気を引き締めておいてください。戦線に加わったら、サタナキアとゴウラは私が対処します。貴方は、彼の後方に控えている本隊を蹴散らしに行ってください。すぐに私も合流するので」
シオンは、イグナーツの指示を確認するように、手元の資料を捲っていった。
「アンタの見立てだと、ガリア軍は全体戦力の三割をここに送る予定だったか。それを片付けたあとは、そのままノリーム王国に駐在する残り七割の戦力の掃討だな」
「ええ。残った七割のほとんどが中央区にいるはずなので、入国したら一気に残党たちを殲滅します」
「了解」
不意に、強い風が平野の方から吹いた。
「さて、そろそろですかね」
煙草の火を消したイグナーツが、徐に椅子に腰を下ろす。
※
ノリーム王国側の国境付近にて、ガリア軍残党の総司令官であるヴィクトル=シール・ド・ゴウラは、始まりの時を待っていた。眼前に羅列された死体の山に何の感情も抱くことなく、両腕を組み、ただその場で仁王立ちする。
「ヴィクトル様」
平野に一際強い風吹いた時、背後から副官の女であるアナベルが声をかけてきた。
「後方部隊の準備が整いました。総員、ヴィクトル様からのご命令を心待ちにしております」
ようやくかと、ゴウラは胸を弾ませた。彼のすぐ後方には、強化人間、魔物、戦車等で編成された三千人を超す大隊が控えている。
「そうか。しかし、残念ながら勇猛なる同士諸君の活躍の場はないものと思ってくれ」
「恐れ入ります。では、兵たちには我が君、ヴィクトル=シール・ド・ゴウラ皇帝陛下の雄姿をしかとその目に焼き付けろと伝えておきます」
「うむ」
軍用コートを靡かせ、ゴウラは死体の山に向かって歩みを進めた。
「さあ、始めようとするか。手始めに、トレイニア聖国には死の軍勢を送り込んでやろう」
そう言って、ゴウラは両腕を目の前に大きく広げた。直後、彼の体中に刻まれた印章が、並べられた死体に変化をもたらす。
魔術の実行反応である青い光に包まれた死体が、徐々に動き出したのだ。
最初は緩慢に、しかし秒を重ねるにつれ、その足取りは力強いものになっていく。三分も経過した頃には、その死体全部が、猛獣のように走り出した。
死体が向かう先はトレイニア聖国――耳を劈く奇声を上げながら、トレイニア軍が構える塹壕へ強襲を仕掛ける。
迫りくる亡者の群れに、トレイニア軍の兵士たちは一斉に声を上げた。そして、それに呼応するように、榴弾砲と装甲車から次々と砲弾が放たれていく。
着弾した砲弾は確実に死体を吹き飛ばしていくが、それでも群れ全体を止めることはできていない。腕が取れようが、頭を無くそうが、死の兵士たちは、一層勢いを増して塹壕に向かって行った。
続けて、トレイニア軍の兵士たちが武器を手に、雄たけびを上げながら駆け出した。小銃、機関銃、火炎放射器――多種多様な兵器を使い、襲い掛かってくる死体を迎え撃つ。
しかし、死の奔流は止まることなく、一つの大きな波のようにして、ついには塹壕を飲み込んだ。
塹壕から飛び出るのは、兵士たちの悲鳴と血肉――そして、死体となった兵士たちもまた死の波に加わり、トレイニア聖国への侵攻を開始した。
「いつ見てもいいものだな。矮小な存在が、迫りくる死に怯え、恐怖する様を見るのは」
ゴウラの魔術で操られた死体は単純に動くだけではなく、その膂力も強化されていた。個体差に程度はあれ、そのどれもがライカンスロープやエルフを凌ぐ強靭な肉体を得る。痛みや死を恐れることがないため、相手の攻撃に怯むこともなく、ただひたすらに主のゴウラの命令に従い、敵を食い潰していくのだ。また、死体の管理が行き届く範囲で新たな死体が生まれた際には、それもまたすぐにゴウラの支配下に置かれる。この死が死を呼ぶ連鎖のおかげで、戦力が尽きることもなかった。
「さて、そろそろ本番といこうじゃないか」
平野の風が砲撃音と死の声を運ぶなか、ゴウラは懐から一冊の本――禁術が記された魔導書を取り出した。
そして、印章が書かれたページを一枚、破り取り――地面に叩きつける。
「我が声に応え、冥府の淵よりその姿を顕現せよ――サタナキア!」
ゴウラが叫ぶのと同時に、ほんの一瞬、周囲が青く輝いた。
直後、異変が起きる。
死の奔流が、ぴたりと動きを止めたのだ。死体のどれもが、時を止められたかのように微動だにしていない。兵士の首に今まさに噛みつこうとしていた死体も、大きな口を開けたまま固まっている。
トレイニア軍は、ここぞとばかりに撤退を始めた。動かなくなった死体を押し退け、かつて仲間だった肉塊を踏みつけ、兵士たちは我先にと軍事基地のある場所に向かって駆け出す。
しかし、逃げることは叶わなかった。
動きを止めた死体が、突如として黒い液体に変異していった。それは逃げる兵士たちの足を絡めとり、瞬く間に悲鳴と共に取り込んでいく。
やがて黒い液体は意思を持ったかのように一点に集まり――平野の空に、球体となって鎮座した。
あたかも黒い太陽のようになったそれは、間もなく形を崩し始める。内側から何かが暴れているような、まるで母体の羊膜を突き破らんと蠢く胎児のように。
そして、球体が弾けたのと同時に、ずるりと、“それ”は地上に堕ちた。
黒い粘液を纏いつつ、“それ”は徐に立ち上がる。
全身が漆黒に包まれたそれの頭部は、歪な形をした山羊――焦点の定まっていない目を複数持ち、枝分かれした角を側頭部の至る箇所に生やしている。上半身はヒトの体に似ているが、筋骨隆々とした様子に反し、胸には豊かな膨らみもあった。下半身は蹄と尾を携えた獣のそれであり、体毛の一本一本が不気味に逆立っている。何よりも驚愕するべきはその大きさで、二足で立ち上がった時の全高はゆうに三十メートルは超えていた。
これこそが、サタナキア――悪魔の名を冠するにふさわしい、見た目通りの化物だ。
ゴウラは抑えきれない興奮に身震いしながら、両腕を大きく横に振った。
「さあ、サタナキアよ! 主の期待に応えてみせよ! その力、思う存分に振るえ!」
サタナキアの巨体が緩慢に動き出す。何をするかと思えば、その化け物は両腕を天に向けて広げた。
次に、その口から悍ましい声が漏れ出す。地鳴りのような、動物の断末魔のような、死者が放つ怨嗟のような――転じて、神に祈りを捧げるかのように、サタナキアは徐々にその音を強めていった。
それから十秒とせず、次の事象が起こる。
空に伸びたサタナキアの両手に、何かが出来上がっていた。無色透明だが、周囲の塵の陰や風の流れのおかげで、それが球体であることがわかる。
やがてそれの大きさがサタナキアの巨躯と同等のものになった時――奴はそれを、地上に叩きつけた。
瞬間、サタナキアを中心に衝撃波が起こった。それは周囲を無音にし、近辺にあった物質を跡形もなく消失させる。
球体の着弾地点に残されたのは、直径一キロはある巨大なクレーターだった。
そこは、塹壕が築かれていた場所だ。
サタナキアが生んだ衝撃の余波にたたらを踏みながら、ゴウラは歓喜に声を上げた。喉を引き裂かんばかりの声量で哄笑し、感動に身を震わせる。
「素晴らしい! これこそが力! これこそが真理! これこそが我が覇道を示す象徴! かつてこれほどまでの魔術を実現できた者など、この大陸史において他にはいまい!」
そんな自画自賛の声に、後方に控えるガリア軍残党から惜しみない拍手と歓声が送られる。
感極まったアナベルに至っては、ゴウラの隣に跪き、涙していた。
「さすがですわ、ヴィクトル様! これほどまでのお力、我が帝国に敵などおりません」
「そうだ! この圧倒的な力、もはや教会すら恐れるに足りんわ!」




