第二章 魂を鬻ぐ者ⅩⅡ
カリス・ホーリーとの会談が始まってから一時間後――彼女は、イグナーツが用意した簡易資料をテーブルに置くと、芳しくない表情で息を吐いた。
「……イグナーツ卿からご提供いただいた情報の限りでは、我が国軍だけでガリア軍の残党を相手取ることは得策とは言えませんね。特に、禁術なるものの存在が気になります。歴史上、禁術と呼ばれる魔術が使用された記録は千年以上も前のことです。その際には、西にある複数の小国を更地に変えるほどの大惨事を引き起こしたとか……」
カリスの見解に、イグナーツは静かに頷いた。
「ええ。ヴィクトル=シール・ド・ゴウラは、ゆくゆくは教会をもその力で蹂躙しようと画策しています。そんなものがもし貴国との戦で使用されたとなっては、被害は甚大なものになるでしょう。仮に退けることができたとしても、トレイニア聖国が受ける損失は計り知れません」
それを聞いたカリスは、何かを決めあぐねるように表情を険しくした。
「イグナーツ卿は教会魔術師の最高位者であると認識しておりますが、その禁術が具体的にどのようなものかはご存じでしょうか? 被害を想定するにしろ、対策するにしろ、まずはその情報が欲しいです」
すかさず、イグナーツが追加の資料を手元から取り出した。そこには件の禁術の概要が手書きで雑に記されている。特に目を引くのは、右下に描かれた黒い怪物の絵だった。
「ゴウラが使おうとしている禁術は精霊召喚術です。私も戦闘でよく使う四大精霊と同類の魔術になります。規模はその比になりませんが」
カリスはテーブルに両肘を置き、前のめりになる。
「もし使用された場合の被害はどれほどのものか、予想できますか?」
「その時の状況にもよりますが――術の発動地点から半径十キロ圏内に軍を展開していたとすれば、数秒の内に兵の全滅は必至かと」
「先ほどは精霊召喚術と仰っていましたが、どのような事象が引き起こされるものなのですか? 今のお話では、瞬間的な広範囲の爆発を引き起こすように思えたのですが」
「通常の精霊召喚術と同様に、疑似生命体が召喚されることに変わりありません。今申し上げた事象は、その精霊が暴れることによって受けるものですね。そして、召喚される精霊の名は“サタナキア”――悪魔の名を冠した、とても強力な精霊です」
そう言って、イグナーツは資料上に描かれた黒い怪物の絵を指差した。黒い山羊のような頭を持ち、筋骨隆々とした四足の獣の姿をしていることが見て取れる。
「その精霊を単純に打ち倒すことはできないのでしょうか? 中世期頃の原始的な戦であればともかく、今は戦車などの兵器が充実している時代です。これらを用いれば、容易に対処することはできないでしょうか」
「難しいと思われます。腐っても禁術、太古の偉人たちがその危険性を認知し、後世に残すことを躊躇った魔術です。それに、現代の戦車程度の火力であれば、中世であっても魔術師を集めれば実現可能でした。そんな時代でも恐れられた精霊であることを考えれば、仰った手段を取るのは安直であるかと」
カリスは椅子に座り直し、深い溜息を吐いた。
「……正直なことを申し上げますと、私は今回の提案をお断りするつもりでした。しかし、禁術という存在を聞いてしまっては、その考えを改めざるを得ません」
今度はイグナーツが前のめりになった。
「では、貴国の防衛について、我々の助力を受け入れていただけるということでしょうか?」
しかし、カリスからの返事は沈黙だった。それが十秒ほど続き、
「もう暫し、猶予を頂けますか?」
カリスは神妙な面持ちで言った。
イグナーツは肩を竦める。
「もちろんです。しかし、ガリア軍残党の侵攻が四日後に迫っているということは念頭に置いていただきたいです。それに、ゴウラは戦いの前に宣戦布告をすることもないでしょう。いつ侵略が開始されるのか、悠長に事を構える余裕はないことだけご認識おきください」
「承知しています。そこで、になるのですが――」
不意に、カリスが椅子から立ち上がった。
「今から、とある人物にお会いいただいてもよろしいでしょうか?」
シオンとイグナーツは一瞬顔を見合わせ、互いに怪訝になる。
「構いませんが、何かございましたか?」
「騎士団の助力を断るだけであれば私の独断で決定することができました。ですが、得るとなれば私一人では決定できません」
「貴国の体制、承認的な都合ですか?」
「はい。ですので、これから我が軍を統括する責任者にお会いいただけないでしょうか? 騎士団を軍事顧問にするのであれば、責任者の承認も必要になります」
「トレイニアの軍事責任者ということは、国防長官ですか?」
イグナーツの問いに、カリスは深く頷いた。
「はい。いかがでしょうか?」
「もちろん、それでお話が進むのであれば」
イグナーツの了承を得て、カリスはすぐに動き出した。側近の黒スーツの男たちに手早く指示を出す。
「ベアトリスに繋いでいただけますか? まだここにいるはずなので」
「かしこまりました」
早々に黒スーツが部屋を出ると、カリスはシオンとイグナーツに向き直った。
「お手間を取らせて申し訳ありませんが、もう暫しお時間を頂きたいです」
※
シオン、イグナーツ、カリスが他愛のない談笑に花を咲かせていた時、部屋の扉がノックされたのは黒スーツの男が退室してから三十分後のことだった。
入ってきたのは、先ほどの黒スーツの男と、もう一人――明るい茶髪をしたライカンスロープの女だった。歳はまだ若く、カリスと同年代の二十代ほどに見える。身長は高めで、恐らく一八〇センチ近くはあるだろう。スーツを着た上からでも体格の良さがわかるほどで、人間はもちろんのこと、同種のライカンスロープの男であっても、容易に組み伏せることはできないだろう。
「ごめんなさいね、ベアトリス。もう帰るところだったでしょう?」
ライカンスロープの女――ベアトリスは、カリスに言われて、首を横に振った。
「構わない。ノリーム王国の件ともなれば、火急の有事だ。それで――」
じろりと、ネコ科の動物を彷彿とさせる瞳が、シオンとイグナーツに向けられた。
「この二人が、聖王騎士団の騎士か」
それまで温和そのものだったベアトリスの表情が、二人の姿を見るなり、敵意を剥き出しにするのかのように歪められた。
そこに込められた露骨な嫌悪感に、シオンとイグナーツは目ざとく反応する。
不穏な空気が室内に漂い始めるが――
「本国の国防長官を務めるベアトリス・イバールです」
即座にカリスが割って入った。
「ベアトリス、こちらが聖王騎士団副総長イグナーツ・フォン・マンシュタイン卿、隣がシオン・クルス卿よ」
紹介されたのと同時に、二人は椅子から立ち上がる。
まずはイグナーツが会釈をして見せるが――
「初めまして、ベアトリス・イバール長官。お忙しいな――」
「で、私は何をすればいい?」
ベアトリスはあからさまな態度で顔を背けた。
心証の悪い扱いを受けたイグナーツは、やれやれと肩を竦める。隣のシオンは、何故ベアトリスがこうも不機嫌なのか、怪訝に眉を顰めた。
何とも言えない重い空気になってしまったのはカリスも感じているようで、やや疲れ気味に眉根を寄せていた。
「ノリーム王国に駐在するガリア軍残党の件についてよ。彼らにも防衛作戦に参加いただいた方がよいと思うのだけれど、貴女の見解と承認を――」
「不要だ」
ベアトリスははっきり言い切った。
「我々真聖派が、正道派の聖王騎士団の力を借りるなど言語道断だ」
これにはカリスも想定外だったようで、慌てて彼女に詰め寄る。
「待って、ベアトリス。話を聞いてちょうだい。ガリア軍残党は私たちが当初想定していた戦力より大きな力を持っている。何より、禁術を使ってここに――」
「ガリア軍残党がいかなる戦力を保有していようとも、奴らの侵攻に対しては自国の力で対応する。以上だ」
さすがにこの不遜な態度には、シオンも辟易した。堪らず一言言ってやろうと口を開くが――イグナーツにそれを止められた。
イグナーツは軽く手を挙げてシオンを留まらせたあと、代わりに話し出した。
「恐れ入りますが、進言いたします。貴国の軍事力は私どもも正確に把握しておりません。しかし、我々が確認した限りでは小国の軍事力だけでは――」
「結構だ、と言っている」
頑なにまともに取り合わないベアトリスに、ついにカリスも痺れを切らした。
「ベアトリス、お二人はわざわざ我々にガリア軍残党の情報を提供してくれたのよ? いくら何でもその態度は酷いと思うわ」
しかし、ベアトリスは導師の言葉を以てしても改めることなく、あまつさえ、小馬鹿に鼻を鳴らした。
「おおかた、この国を利用して、教会が粛清する大義名分を得ようとしていたのだろう。魂胆が見え見えだ」
「でも――」
「仰る通りです」
カリスを遮り、イグナーツが変わった。
「さらに言えば、貴国がこのような緊張状態に陥っている原因は教会にあります。ノリーム王国の独立を認めたことで駐在するガリア軍残党が暴走することなど、少し頭を回せば気付くことでした。その点は、我々も深く反省しており、謝罪いたします。ですが、だからこそ、この後始末を付けようとしている所存です。どうか、ほんの少しだけでも耳を傾けていただくことはできませんか?」
教会の失態を先んじて謝罪したことに関心を寄せたのか、ライカンスロープ特有の獣を彷彿させるベアトリスの耳が、ピクリと動いた。
「……仮に、騎士団が我が国の防衛に参加することになった場合、貴殿ら二人だけが対応に当たるのか?」
「はい」
しかし、イグナーツの回答は気に入らなかったようで、ベアトリスは再度へそを曲げた。
「舐められたものだ。小国の防衛ごとき、その程度の戦力でいいという認識か」
「お言葉ですが、私たちは騎士団の最高幹部である議席持ちの騎士です。しかも、私に至っては副総長。騎士団のナンバーツーと最高幹部の一人が一国の防衛の前線に立つことは非常に異例なこと――」
「ログレス王国の戴冠式には幹部全員が防衛に当たったことを考えれば、随分安く見られたものだな」
「大国との対応の格差にご不満があると?」
殊更に視線を外したのが、その問いへの肯定だった。
これにはさすがのカリスも見かねたようで、彼女はベアトリスの肩を掴んだ。
「ベアトリス、いい加減にして。さすがに今の発言は失礼で卑し――」
「それ以前に、本当に貴殿らたった二人であの軍事大国ガリアの軍隊を相手取ることができるのか、甚だ疑問だな」
「ベアトリス!」
「禁術然り、誰もかれも古臭い物に囚われすぎだ。見えない脅威に怯えることほど滑稽な話もない」
段々と喧嘩腰になるベアトリス――カリスはついに怒りと焦りを隠さなくなった。
「いい加減にしなさい。それ以上は――」
「そこまで仰るのであれば、こちらにも考えがあります」
収拾がつかなくなりそうになった場を沈めたのは、イグナーツの一声だった。
「イグナーツ卿?」
「長官殿は、自国の軍事力を自負しているようです。自力でガリア軍を退けることができるというのであれば、我々二人を相手取ることも可能ということでしょうか?」
イグナーツの言葉を聞いて、ベアトリスの目が細められる。
「ここはひとつ、互いの実力を可視化するためにも、お手合わせをしていただけませんか? 貴国の軍事力で我々を打ちのめすことができれば、大人しくこの国から出ていきます」
「貴殿らが勝った場合は? 何を要求する」
イグナーツは肩を竦めた。
「何も。これは、ただ互いの実力差を確認するための模擬戦闘なので。なんでしたら、私たちを殺すつもりでかかっていただいてもいいですよ。寝込みを襲っても結構です。そこまで言われて、挑まないはずはありませんよね?」
にやりと、ベアトリスの口から鋭い犬歯が覗く。
「面白い、その話、乗った。あとで吠え面をかくなよ」




